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■第三十八夜:不浄の底より



「これが便座、か。でも肝心の壺はどこにあるんだ?」


 アシュレは通路の陰に配されていた厠を発見し、これを調べてみた。

 便座は温かみのある木製で、座りやすいように緩やかな医反りがつけられている。

 面取りがなされ丁寧に磨かれ、なめらかで座りやすい。

 

 そして大事なことは、間違いなく人類用のサイズ。


 しかし、現在の人類圏・西方諸国の宮廷で採用されている一般的なものとは異なり、排泄物を受けるための壺がどこを見渡してもなかった。

 それどころか底部には穴が空けられていて、いずことも知れぬ場所へと通じている。


「これ、もしかして汲み取り式なのか? でも、汲み取り用の窓もスペースもどこにもないように見える──そもそも汲み取り人はどこにいるんだ。いや、この場合の汲み取り人って、だれ・・なんだ?」


 アシュレが暮らした永遠の都:エクストラムでは、排泄物は便座の下に専用の壺を用意してこれを受け、それを個人個人がさらに専用の樽や大瓶に移すか、便座に開けられた穴から直接、汲み取り槽へと落とされるのが一般的だった。


 これはだいたいの村落でもあまり変わりがない。

 ただ、その場合の汲み取りは個々の家人が行うか、貧農たちの仕事であるというだけの違いだ。


 アガンティリス文明が崩壊した直後の暗黒時代には、こういった汚物を街路や河川にそのまま捨てていたらしい。


 現在では樽にせよ壺にせよ、あるいは汲み取り式にせよ、汲み取り人に該当する人々が一ヶ所に集めた屎尿しにょうを集積、しばらく置いて熟成させた後、農園にまいて肥料にしたり、あるいはこちらはアシュレは見たことがないが、新鮮なものをそのまま豚の餌にしてしまうケースもあるらしい。


 これも屎尿しにょうと病魔に対する研究が進み、領主や教会による啓蒙活動が続けられてきた結果だ。


 だが、いま眼前にある便器と設備は、アシュレがいまだ文献のなかでしか見たことのないものだった。


「これもしかして……上水道がそうだったように、下水道も完全に整備されているってことなのか。この建物では」

「下水道?」

「なんですの、それ?」


 慎重に便器を覗き込むアシュレをやや遠巻きにして、キルシュとエステルのふたりが小首を傾げた。

 口では威勢のいいことを言っていたが、便器の現物を目の前にすると尻込みしてしまったようだ。

 基本的に騎行する生き物である真騎士の乙女たちが、下水道という概念に疎いのも、無理はない。


「下水道というのは、アガンティリス期の都市や街が備えていた先進的な設備さ。そこに設置されていた厠は不浄を入れる壺も、汲み取り人さえ不要で、清潔な状態が保たれていたんだと聞く。おかげで都市はいつもキレイで、街路には悪臭など立ちこめる隙がなかったとも言われている」


 立ち上がりながら、アシュレは言った。


「エクストラムやヘリアティウムなんかのアガンティリスの遺産を色濃く受け継ぐ都市には、いまでもその名残があって、地下には広大な下水道が網の目のように広がっているんだ。かつての下水道は屎尿などの不浄だけでなく、市中に雨水が溜まって蚊などの温床になる不潔な水たまりを作るのも防いでいた。もしアガンティリス期の下水設備の機能を完全に復元できたなら、あるいは市街地から病魔の類いを一掃することさえできるかもしれないね」 


 そして、ここはそのアガンティリス期の遺跡だ。

 言ってから感慨に耽る。

 もしこのパレスの下水道が再稼働できるならそれは偉大なことだな、とそう思う。


 実際のところ、例に挙げたエクストラムでも都市部の清潔さが保たれているのは法王庁と中産階級以上の市民宅が密集している上流〜中流エリアだけで、下層民たちの住まう下流域やさらに下方にある貧民街では汲み取り人の来訪でさえ途絶えがちであり、不潔な状態が常態化していると聞く。


 この時代、河口に近づけば近づくほど、水の質が悪くなるのは道理であった。

 疫病が発生し、蔓延するのが必ずといっていいほど下層民街からなのには、そういう理由もあるのだ。


 人間の階層を表現するのに上流とか下流といった言葉を使うのには、じつはこの河の流れと排泄物の話が絡んでいる。

 善悪の話ではない。

 現実がいかに過酷で残酷か、ということだ。


 逆説的に、清潔な上水を潤沢に確保できているというのがどんなに贅沢で、大事なことか。

 蛇の巫女:マーヤの加護を思い出して、アシュレは思わず感謝の言葉を噛むように、つぶやいた。


 そんなアシュレの目の前で、わかっているのかいないのか、真騎士の妹ふたりがぱちんと、手を打つ。

 

「病魔! 奴らはわたしも嫌いだわ。殲滅しましょう!」

「なるほど、やっぱりお手洗い問題は重要な課題でありミッションだった、ってことなのね!」

 

 アシュレは曖昧に笑う。

 ふたりの結論は正しいのかもしれないが、あいかわらず一方的で一足飛びだ。


 しかし、まあ大意としては外れていなくもない。

 いまここで無理に否定して彼女たちのやる気を挫く必要もないだろう。


 だんだん、このおしゃまさんたちの扱いに馴れてきた気がするアシュレだ。


「うん……たぶんそうだね。この厠がキチンと機能するなら、ボクらの戦隊は病魔の蔓延なんかとは無縁でいられるだろう。とても意義のあるミッション、クエストだったね」

「じゃあじゃあ、目的の清潔なお手洗いを確保したのだから、これで今日のミッションは達成でいいってことね!」

 

 これにはさすがのアシュレも苦笑してしまった。

 ゆっくりとかぶりを振る。


「いいや、まだだよ。同じような施設がこのパレスのどこに、いくつ備わっているのか。それを正確に図面に書き入れて目印も設置して、厠があること、使えることをみんなにわかるようにしなくちゃ」


 なんのかんの言って、やはり下水施設の点検確認などという地味で汚い仕事など、やりたくはなかったのだろう。

 ミッション達成と早合点して飛び跳ねるふたりの少女を、アシュレは優しくたしなめた。

 それに、と付け加える。


「それに?」

「それにこの下水道設備がちゃんと機能するのかどうか、まだわからないんだ。さらに言うと、たとえ使えることを確認したとしても──そこで排出され集められた下水が、どうやって処理されるのか、それも確かめなきゃいけない」

「「えーッ?!」」


 アシュレの言葉に、妹たちはあからさまな驚愕と不満とを示した。

 まさか排泄した不浄の行き先まで確認しなければならないとは、考えもしていなかったのだろう。

 落胆に聞こえないよう、静かに溜め息をついてアシュレは続けた。


「上水道もそうだったけれど、下水にもどこかに特別な《フォーカス》が設置してあって、清潔な状態を保ってくれていたのかもしれない。それを発見してきちんと稼働させずに勝手気ままに使ってたら、ある日突然、この穴が溢れて不浄が逆流してくるかもしれないじゃないか」

「「不浄の逆流ッ?!」」


 アシュレの予想に、ふたりの美少女は跳び上がって驚いた。

 比喩ではなく本当に飛んで跳ねて、驚きを表現した。


「そんなの困るわ」

「飛んで逃げなきゃ」

「だから、いまからそれを確かめます」


 両手を頬に当てて正直に感情を表に出すふたりの少女たちは、やはりまだ精神的にも子供なのだ。

 アシュレは新米従士たちを率いる騎士の気持ちになってきた。


「たしかめる、というのはどうしますの?」

「パレスのどこかから、下水道に入れないか調べてみよう」

「下水道に?! 下水道に入るッ?! ええええー、そそそ、それわ、ちょっとまってちょっとまってくださいです。汚くない? 臭くない? そんなの完全に想定外だわ!」


 明らかに狼狽した様子でキルシュとエステルが首を振った。


 この子たちはなんのつもりで、なにをしについてきたんだ。

 アシュレは苦笑した。


 が、もとよりその任務をふたりに無理強いする気は、アシュレには毛頭ない。

 こんなことになるだろうと予想はついていたし、その前提でここまで来た。


 そもそもこの任務は、イズマとふたりだけでやり遂げるつもりだったのだから。


「イヤならきみたちは来なくていい。そのかわりパレスの見取り図に厠の位置と数を正確に記録していって欲しいな。あとそれぞれの厠に名前つけてくれるかい? みんなが憶えやすいように、分かりやすく特徴的に。そうだなたとえば……ここは天使の間かな?」


 アシュレは天上に描かれたフレスコ画らしい絵画を見上げて言った。


 この厠には無駄に広い空間に仕切りが張り巡らされており、そこに便座が六つ配してある。

 うっかり貴族の館の待合室くらいの広さがある。

 そこここに置かれている調度も、厠のものではありえない。

 書斎か書庫か、というような設備さえある。


 古代アガンティリス人の趣味か竜の王のものかはわからないが、どちらにせよ彼らは入浴を愛したのと同様に、トイレという空間にも特別な感情を抱いていたようだ。

 そうでないなら、この充実度は絶対におかしい。

 残された香炉から、かすかにハーブめいた残り香さえ感じられる気がする。


 ともかく真騎士の少女たちには言い訳できるように当面の仕事を与え、アシュレは下水道施設の探索を決意した。

 となるとやはり、イズマの助けが必要になりそうだ。


 アシュレは一度、イズマの様子を見に行くことに決めた。

 そろそろ復活していてくれると助かるのだが。


 少女たちを引き連れ、巨大な洗面所をあとにする。

 

 だから、もしこのとき──あと十秒ほどもアシュレたちがその場に止まっていたか、あるいは土蜘蛛や蛇の巫女たちのように振動に敏感な種であったなら、きっと気がついたはずだ。


 下水道へとつながる暗い穴。

 そこから突然、人間の握り拳ほどもある球体が突き出されたことに。

 グポッ、という粘り気のある音。

 それを裏付ける粘液質の体表。

 

 次の瞬間、球体の表面に生じた割れ目が開き──そこに生じたもの。

 

 巨大な虹彩。

 瞳。


 異質な、それでいて飢えを感じさせるそのは、アシュレたちが遠ざかっていきもはや戻ってこないと認識すると、ふたたび、暗い穴のなかへと帰っていった。



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