■第十九夜:坩堝の中心へ
びょう、と風が鳴っていた。
濃い霧が雲のように渦を巻き、流れてゆく。
視界は晴れていた。
漂流寺院に立ちこめるぶ厚い霧のヴェールを、アスカの行使した祈りと、それに応えた《フォーカス》――陣羽織:〈クル・ルクス〉が開闢した栄光の王国が、完全に貫き、満天の夜空への道を開いていた。
天馬に跨がり純白と黄金で武装した英霊たちが、宙を舞っている。
眼下に広がるは金色の草原。
英霊たちはフラーマとその落とし仔たちを相手取り、戦場を構築しつつあった。
あまりの光景に呆気を取られ、宙を見ていたノーマンは腕を引かれた。
短衣からのぞく脚線もあらわなオズマドラ第一皇:・アスカリヤが無言で撤退を促していた。
我に返れば、両腕:〈アーマーン〉の発振は、いつの間にか収まってしまっている。
ノーマンは混乱し、礼を言うタイミングを失してしまう。
アスカリヤの短衣は汗に濡れ、控えめなりとはいえど、女性としての証をはっきりと見せていたからだ。
ふたりは混乱する戦場を駆け戻った。
英霊たちの効果的な援護が、道を切り開いた。
統制の取れた英霊騎士たちの突撃で、数千の敵が混乱に陥っていた。
英霊たちはすでに半物質的存在であり、直接攻撃にはそうそう脅かされない。
そうであるのに英霊たちの槍は、逆に的確に敵を貫くのだ。
天馬に跨がる、この輝かしき軍勢そのものが《スピンドル》によって引き起こされた超常現象だった。
それは一方的な戦いぶりだった。
フラーマの司祭たちが《ヘキサム・オブ・フォーセイクン》を行使するヒマを、アラムの英霊たちは見事な連携によって遮り、与えなかった。
ただ、邪神:フラーマだけは例外だった。
広範囲の現実を侵食し崩壊させる禁断の技:《エレメンタリィ・コラプション》が空間に悲鳴を上げさせた。
空間の構成要素そのものに働きかけ、そこに含まれた存在――つまり、この宇宙に存在する理・概念そのものを攻撃するこの異能によって、英霊たちが数体まとめて消し去られた。
それは、フラーマが請け負い溜め込んできた負の部分の解放でもあった。
消滅した、というより自らが属する天の王国へ送還された、と解釈するのが正しいのだろう。
けれども、もはや再召喚がなければ、こちらに現れることはできないはずだ。
フラーマは狂ったようにそれを放ち、空間を断裂させてゆく。
邪なり、廃れたりとはいえど、相手は伝説に神として名を残す存在なのだ。
人間であれば、たった一度の使用で膝をつくほど消耗する技を、ほとんど無造作に乱用してくる。手負いの獣どころではない。
とんでもない難敵だった。騎士たちの陣形にも乱れが出始めている。
ノーマンとアスカが駆け戻れば、荊と風になびく金色の草原の影に仲間たちが身を寄せているのが見えた。
ふたりを発見したイズマが手を振っている。
アシュレは意識を取り戻していた。
アスカは、そのアシュレにすがりついて泣く女性がイリスだとすぐにわかった。
素肌に土蜘蛛の民族衣装を纏っている。
不思議な眼鏡が彼女の知的な雰囲気を確固たるものにしていて、その彼女が恥も外聞もなくアシュレにすがりついて泣くさまからは、イリスのアシュレへの偽らざる想いが伝わってきた。
ちくり、と胸の奥が痛んで動揺した。
一夫多妻制が基本の、場合によっては未亡人であれば兄の妻を弟がそのまま娶ることさえ不思議ではないアラム文化圏、その長たる者はハレムの名で知られる後宮に、数千もの女を囲ったものさえいたという王族の末裔として、感じたことのない心の動きにアスカはひどく狼狽した。
それから、押しとどめることもできずに、肉体が心に従った。
フラーマの《トーメント・スクリーム》により一時的に身体能力を奪われたアスカだったが、宙を舞い落下し地面に激突する直前までアシュレの姿が見えていた。
夜魔の姫を抱え、全身に酷い傷を負い、荊の道で血塗れになりながらもアスカを助けようと全力を尽くしてくれた男の姿が。
気がつけば同じようにアシュレにすがりついて号泣していた。
感謝の言葉とともに、口づけの嵐を降らせしまう。
突然ポジションを奪い取られたイリスが、呆気にとられて怒るのを忘れたぐらいだ。
どのような礼でもする。
望まれるならわたし自身を差し上げる。
うわごとのようにとんでもない誓いを繰り返し告げていた。
はっ、と気がつくと衆人環視のなかでアスカは「どんな要求にも、献身的に応える。尽くす」と宣誓していた。
「こ、これは……」
「なんて……情熱的」
「いや……ワレワレ西方世界のニンゲンは、理解が浅いだけで……アラム圏のヒトビトは、情に大変厚く、友情や愛情の表現形式もそれにともない……情熱的というか……ストレートかつダイナミックという」
無理やり学術的な口述をはじめたノーマンのキョドりっぷりが、事態をもっとも正確に表現していただろう。
わー、わわー、とアスカは飛び退いた。
なにより彼女を一番動揺させたのは、それら彼女を取り巻く人垣の向こうで、自分たちを護ってくれていた英霊の瞳がこちらを視ていたことだった。
あの女騎士である。
彼女はアスカの宣誓に微笑んだのだ。
イクス教圏であろうとアラム教圏であろうと墓前、霊前に誓ったことは絶対だとされる。
死者は変わらない。
覆しようのない絶対的な死が、彼ら彼女らを拘引したからだ。
だから死者に誓ったことは、曲げてはならない。
曲げるわけにはいかない。
そこが曲がるなら、後に続くものたちに約束の尊さを証立てできないからだ。
アスカは、そう考えるひとたちから生き方を教わった。
軽々しく誓うな。空約束をするな。
そして、一度誓ったなら、全力でそれをまっとうせよ、と。
誓うとはそういうことだ、と。
あう、と声が出た。へたへたと膝の力が抜ける。
結婚を宣誓したも同然だったからだ。
しゅー、と頭から湯気が出る。単式蒸留器みたいだ。
事の重大さを一番理解していたのはアスカだったが、次は間違いなくアシュレだった。
「わ、わかった。キミの誓いを受け取る。ただ、どうするかは、すこし待ってもらいたい」
「ち、誓いを受けていただいて感謝する」
恥ずかしいはずなのに、うれしさで胸が爆発してしまうのではないのかというほど、アスカの鼓動は速くなっていた。
そんな自分を発見して、また戸惑う。
「おまえが無事でよかった」
「ボクもだ」
互いの無事を確認しあっただけなのに、愛をささやき、ささやかれたような気恥ずかしさに襲われて、さらに動揺した。
あとになってこれが恋なのだと知ったとき、アスカは寝室でのたうち回るのだが、それはまた別の話だ。
アシュレは身体を起すと全員を見渡し、礼を言った。
ことの成り行きに呆気にとられていた全員が、それで現実に返った。
「彼女はアスカ。オズマドラの姫君だ。フラーマ討伐のため自ら出征してきてくれた」
アシュレの簡潔な紹介に、ノーマンが怪訝な顔をした。
ただひとり「皇子」という戦場での名乗りを聞いていたからだ。
ノーマンはアシュレを見、アスカを見、それからもう一度アシュレを見る。
なにか問題が、とアシュレは小首を傾げて微笑む。
なんと器の大きい、とノーマンはアシュレに感嘆し、勘違いした。
いろいろなことをあえて不問とすると、そうアシュレは言っているのだと。
間違っていた。朴念仁だ。
あらためてよろしく、とノーマンはアスカに握手を求めた。
命を救い、救われた仲だった。まばゆいばかりの笑顔が返ってきた。
おお、と再びノーマンは感慨に打たれた。
アスカとアシュレ、ふたりの出会いに関与できたことに。
大きく歴史が動き出す音を聞いた気がした。
「軍議をはじめてもいいでしょうか?」
秘書官のようにズレた眼鏡を直しながらイリスが言った。
よろしく、とアスカに目礼する。
アスカも目礼を返し、じっとイリスを見た。
それから、あらためてイリスの美しさに息を飲んだ。
可憐な白百合が化身したのかと思うような美貌に、土蜘蛛の民族衣装がよく映えた。
豪奢に咲き誇る温室栽培の花ではなく、野の中で見出された奇蹟の一輪が、青い釉薬をかけられた一輪挿しにそっと生けてある、そんな比喩をアスカに思い起こさせるほど、イリスは美しかった。
「時間がないから、手短にいこう。アスカ姫、でいいのかな? この英霊さんたちの群舞はどれぐらい持つの?」
あ、ボクちんはイズマでけっこう、と土蜘蛛の男が名乗る。
アシュレから説明を受けてはいても、アスカは初めて見る異種族の男に緊張した。
あー、これでいいのかな、アラム的には、と言いながらイズマは握手を求めてくる。
ハウドゥユードゥ?
イズマのおかしなしぐさから、相手も緊張しているのだとアスカは感じ取った。
ぷっ、と笑ってしまう。
「面白い男だとうかがっている。イズマ。アシュレの話どおりで、笑ってしまった。許されよ。英霊たちの顕現は……伝承では半刻あまりと聞かされている。実戦で……いや、ここ半世紀の間に《コーリング・フロム・ザ・ファーランド・キングダム》が使われたことはないんだ。じつはな」
確実性には欠けると思ってくれ、と持続時間についてアスカは返答した。
じっさい、いつ効果が切れてもおかしくはない。
「秘中の秘、切り札中の切り札、というわけさ。おかげで存在が、なかば伝説化してしまったわけだが」
「けれども、それほどの《フォーカス》と異能を持ってしてもフラーマは滅せないわけだ。すくなくとも現状を見るかぎり」
軍勢は押し返せても、根源は叩けないわけか。イズマが思案顔で乱戦の具合を見た。
「聖女:アイギスでも滅し切れなかった。伝説がほんとうならばな」
ノーマンが言い、イリスが後を継いだ。
「相当の傷であっても、再生することを確認しています。そのパワーソースが、あの《フラーマの坩堝》だということは、わかっているんですが。まさか《フォーカス》じゃなくて異能だなんて……それも常時発動型の……どんな負荷を強いられることか」
ついっ、と〈スペクタクルズ〉のブリッジを押し上げながらイリスが言った。レンズに映る情報を参照しながら戦術を練るふりをしていたが、心はフラーマへの憐憫で揺れていた。
「なんとか《フラーマの坩堝》を分離できないかな? 切り離したり」
「あれは異能だからね。常時発動してる。むずかしいなー」
アシュレにそう答えながら、イズマが真っ白い不思議な皮で編まれたサンダルを渡す。
足首にも固定する箇所があり走破性は高そうだ。
失ったブーツの替わりにしろ、ということだろう。
ほんとうに準備のよい男だ。
「押さえるだけならできるだろうがな」
ノーマンが義手をさすりながら言った。
「《フラーマの坩堝》はいうなれば、巨大な創造・改変エネルギーの塊だ。荒唐無稽ともいえるような再生能力は、そこに起因している。
だが、この〈アーマーン〉は逆に破壊の力。
飲み込まれず、耐えることができるだろう。
ただし、ごく短時間だが。使えるエネルギーの総量が、ヤツはケタ違いだ」
ノーマンの推論にイリスが頷き、裏付けを与えた。
同じ可能性を検討していたのである。
「だけど、あんな強大な存在を、その短時間で滅し切れるものだろうか」
イズマが渡してくれたサンダルを履きながらアシュレが口を挟む。
アシュレの履いてきたブーツは〈ローズ・アブソリュート〉の変じた荊の棘でズタズタに裂けてしまっていた。
その不思議なサンダルは吸いつくような感触で足にフィットした。
これ、すごいな、とアシュレはちいさく感嘆する。
「いまの戦力では難しいかも」
冷静な分析がイリスの口から漏れた。
邪神などの不死性を備える存在に対し、もっとも効果の期待できる〈ローズ・アブソリュート〉は現在、その姿をイバラに変え、浮島の崩壊を防いでいる。
シオン以外の使い手には、それが人間であっても拒絶反応を起すことも、イリスが身を持って実証した。
かといって、もうひとつの決定力:〈アーマーン〉は《フラーマの坩堝》を押さえるための要であり、今時作戦では役割を外せない。
そして、アシュレの槍:〈シヴニール〉はフラーマに突き立ったままだ。
回収すれば心強い力となってくれるだろうが、完全な滅殺が必要となれば、果たしてそれひとつで足りるだろうか。
「無理だな。現状では廃神を殺しきるには力が足らん」
言いきったのはアスカだった。自然、全員の視線が集まる。
だが、アスカは笑っていた。
冷酷にでも、皮肉にでもなく。それは希望の笑みだった。
「それでも方法はある。いや、正しくは、彼女自身が、フラーマ自身がそれを持っている」
どういうことだ、と全員が沈黙し、先を促した。
「道々で話したことを忘れたか、アシュレ? フラーマが本来司るのは、癒しと同時に、正しき死だ。過ちを断ち切る鋏――〈アズライール〉。それもまた、彼女の持ち物なんだ」
ぴくり、とイリスが身を強ばらせて、アスカを見た。
「でも、それはどこにあるかわからないって。その在処を知るために、銀の仮面――〈セラフィム・フィラメント〉がいるって――」
「だれから、それを聞いた?」
アスカとノーマンがまったく同時に険しい目を、イリスに集中させた。
イリスは気圧されてはならないと、下腹に力を込める。
「本人から――フラーマ本人からです」
「精神接触を受けたのか。《侵食》の可能性は?」
「ないよ。ボクちんが保証する」
ノーマンの詰問じみた問いかけに、イズマがイリスを庇うように言った。
イリスは仰天した。
先ほどまで、イリスのそれをもっとも危惧・警戒していたのは他ならぬイズマだったはずではないか。
イリスはイズマを見た。
イズマは、いつになくまじめな顔をしている。
「検査なら済ませたよ。問題なし」
「いつのまに」
「キミらが戦っている間さ。遊んでいたわけじゃないんだから」
アシュレの血で頬を汚した男が淡々と言うと、凄みがある。
だが、嘘だった。
イリスはそんなものを受けていない。
「ま、心配なら、カテル病院でもしてもらえばいいよ。再検査」
ひらひらと掌を振ってイズマは言う。
どうということなし、という感じで。
それより、話を進めようよ、と提案した。
うむ、とノーマンはまだ半信半疑の様子で頷いた。
続けてくれ、とイリスを促す。
「どこまで……話しましたっけ」
「銀の仮面――〈セラフィム・フィラメント〉までだ」
なぜか、ノーマンが動揺しているように見えてイリスは不安になった。
だが、だからといって躊躇している場合ではない。
時間がなかった。
「はい。その情報は――フラーマ本体の意識と接触した際に流れ込んできた意識の再構成なので、信憑性は高いはずです――つまり、要約すると、こうです。フラーマは〈アズライール〉を失っていて、その正確な所在を知るために〈セラフィム・フィラメント〉がいるのだと。また、同時に〈セラフィム・フィラメント〉は、彼女の正気をも司っていたのだとも」
だから……鋏は――〈アズライール〉はここにはないはずなんです。
「それは妙な話だな」
イリスに面と向かってアスカが反論した。
攻撃的な話し方ではなく、互いの異なる見解から最適解を導こうとする理性的な口調だった。
だからイリスも穏やかに応じた。うかがいましょう、と。
「その鋏:〈アズライール〉はある。間違いない。フラーマが持っているのだ」
「どうして、そう言いきれるんです?」
「〈アズライール〉こそ、フラーマによって持ち去られたアラムの至宝だから……そして、わたしはそれを取り戻すために来たのだから、などという政治的お題目は置いておこう。
ただ、今回の出征前に充分な裏づけは取ってきたし、さらに言えば、わたしもフラーマと接触したからだ。
ただし、イリスのように精神的接触を受けて、ということではない。むしろ、《スピンドル》の流入を受けたわけだが」
アスカはアシュレと視線を合わせた。
「皆も経験があることだろう。《スピンドル》によって発動した異能を肉体的接触を通じて直に受けると、使用者の印象というか、薫りのようなものが流入するのを感じたことが」
アシュレはアスカの問いに頷いた。
たしかにそうだった。
つい先ほど、施術を受けているときもそうだったし、アスカから《ムーブメント・オブ・スイフトネス》の加護を授けられたときも、それを感じた。
アスカはスミレ、イリスは白百合、シオンはバラだ。
イズマのものは楢の炭の燃える匂い。
ノーマンからはハーブの群生する草原を渡ってきた海からの風の薫りがした。
ふと、自分のものはどんな印象を与えるのだろうか、と小さな疑問が湧いた。
後で訊いてみよう。アシュレはその質問を胸に留める。
アスカは続ける。
「同じように、《フォーカス》や聖遺物、偉大な過去の遺産からも、それを感じ取ることができる。ちょうど音が壁に反響するような感じで、過去の使い手のそれが響くのだ。
わたしは先ほど、接触距離からフラーマの《トーメント・スクリーム》を受けた。そのとき《スピンドル》が通った。
フラーマのもの、そして、そこに反響する〈アズライール〉のもの……」
「そうか! 《スピンドル》を介した疑似的な生体回路か! エネルギーの伝達経路が《スピンドル》と《フォーカス》の間には生まれるから、その間に別の能力者が入れば、たとえ腹に飲んでいようとわかるというわけだ!」
ノーマンが合点がいったと吠える。
しかり、とアスカは頷いた。
「フラーマは持っている。坩堝だけではない、鋏さえも。破壊と創造のそのふたつともを手にしているのだ。
あるいは《フラーマの坩堝》を発動させているのは鋏:〈アズライール〉の逆転的使用法なのか。そのせいで常時発動しているのか……」
「ほんとうに神にでもなったつもりか」
ノーマンは呻いた。
救い、生み出し、破壊する。
天地創造――規模こそ小さいが、その所業はまさしく、真なる神の行い、その模倣だった。
「あるいは、それが本当の《ねがい》だったかもしれません。
この漂流寺院――聖典にある箱船のようだと言えなくもない。
だとしたら……選ばれしものたちだけの世界を……いえ、わたしの推論なんか、いまは問題じゃない」
つとめて冷静に分析したのはイリスである。
反論したアスカを見つめ、己の推論を押しとどめ、あくまで丁寧に言った。
「つまり〈アズライール〉はあるんです。ここに。間違いない。アスカの言う通りに」
この論理展開に驚いたのはアスカのほうだった。
イリスがあっさりと、アスカの主張を認めたせいだ。
そうそうできることではない。
「では精神的接触によって伝達されたヴィジョン=フラーマの心象は虚偽だと、イリスは認めるのか?」
「いいえ、そうじゃないと思います。どちらも、ほんとうなんです。ただ、見える位相が違っているだけのこと」
「? どういうことだ。矛盾があるように思えるぞ」
「矛盾はありません。アスカ、女性なら経験がありませんか?
大事な髪飾りを無くしてしまって方々探したけど見つからない。
途方に暮れていると、だれかが褒めてくれるんです。
その髪飾り、よく似合っているね、って」
言っていること、わかりますか?
頭部に手をやりながら、イリスはアスカを正面から見た。
アスカは目を見開く。
「持っているのに……見つけられない」
「すぐそばにあるのに、どこにあるのか、わからなくされてしまった。そういう……呪い」
陰湿ですよね、とイリスが言った。
「だから、予知を可能とする:〈セラフィム・フィラメント〉が必要だったのか」
はい、とイリスは頷いた。
確信を持ってもう一度、言った。
「フラーマはずっと運命を断ち切る鋏:〈アズライール〉を探していたんです。もうすでに自分が持っているのに!
それが、このフラーマの《閉鎖回廊》の呪いなんです。
騎士:ゼ・ノが、そして、アイギスが……彼女を助けようとしたことが、裏目に働いて……」
フラーマへの共感に流されそうな心を必死に御して、イリスは論旨を通した。
「だから、間違いなく〈アズライール〉はあります」
「だが、どこにだ?」
ノーマンが訊き、イリスは微笑んだ。
それはフラーマを憐れむ笑み。
同じ女性として。助けを求められた者として。
「ノーマンさん、さっき自分で正解を言っていたんですよ?」
「??? わからない。あなたやアスカ姫と話していると、自分がひどく愚かな気分になってくる」
「まー、中身より皮が、分厚そうだからね」
イズマがちらっと混ぜっ返したが、ノーマンは聖女を崇めるかのような面持ちでイリスとアスカ、純白と褐色の女性ふたりを見ていた。
かー、とイズマは溜息をついた。これだから騎士ってヤツはさ。
アシュレの肩に手を回し、同意を求める。
いや、ボクも騎士なんですけど、とアシュレは思う。
「決定的な破壊を隠すには、決定的な創造を司る場所が最適です。坩堝の奥……女の腹のなかです!」
軍議をもとに陣形が整えられた。
両翼をノーマンとアスカが受け持ち、アシュレをエスコートしながら突撃。
アシュレは〈シヴニール〉の回収を第一とする。
フラーマのほうでも間違いなく定位置に飛び込んでくるアシュレを迎え撃つべく反応するだろうが、そのときには中央に躍り出たノーマンが〈アーマーン〉を起動させ《フラーマの坩堝》を押さえる。
アスカはそれを掻い潜って滑り込み、運命を断ち切る鋏:〈アズライール〉を入手。
アシュレの動きは主武器の奪還とともに、決定的な切り札:〈アズライール〉への活路を開く陽動という二重の意味を持つのだ。
イリスはイズマとともに脚長羊に跨がり、英霊たちの騎兵隊に加わりながら指揮と遊撃的役割を果たしていく。
「電撃作戦だね」
イズマが羊に跨がりながらアシュレに話しかけた。
アシュレは、あらためて羊に跨がるふたりに礼を言う。
命を助けてもらっていた。
ふたりの返り血はアシュレのものだ。
「ありがとう」
「なーにをいまさら」
イズマがからからと笑う。ありがたかった。
死地なのに、アシュレも笑っていた。
イグナーシュ領に引き続き二度目だ。
「それよかさ、アシュレ、どう? その靴の履き心地は」
「不思議、というのが本音だよ。治ったばかりの皮が、まだぴりぴり痛むんだけど、不思議なんだ、この靴を履いているとぜんぜん痛くないんだ。雲の上を歩いているみたいだ」
「それはね、土蜘蛛の子供たちに大人気の英雄譚の登場人物の装備を模して作られたもんなんだなー」
「土蜘蛛の子供たちが?」
ほとんどつまびらかにされることのない異種族の子供たちの嗜好、つまり文化の断片にアシュレは瞳を輝かせた。
イリスはその表情に、ああ、やっぱりわたしはこのヒトが好きなんだ、と再確認した。
歴史や文化に興味を示すアシュレの顔は、まぶしく生気を放っていた。
イズマも楽しげに頬を緩ませている。
「なんて名前なんだろうか、その英雄譚の主人公は」
「んーふっふっふ、教えてしんぜようから慌てるでなーい。しかして、その名とは――みんな大好きゲッコー(注・ヤモリ)マスク! そして、その靴こそ、ゲッコー・ブーツ!!」
「げ、げ、げ、ゲッコー(注・ヤモリ)マスク?! ゲッコー・ブーツ?!」
「んだよ。壁面や天井さえ走り抜け、陰謀と策略でもって地下世界の平穏を守る知性派ダークヒーロー!
愛するものを守るためには時に卑怯と言われようと、卑劣と誹りを受けようと成し遂げなければならぬことがあるっ、と行動を持って教え訴えかける超人気番組! どだッ?」
そしてっ、その雛型となったのはっ、
「このボクちんなのです」
アシュレは露骨に微妙な顔をした。んんんんんっ? とイズマが怪訝な顔になった。
「なにっ、信じないの?」
「いや、それ以前に……ツッコミどころが多すぎて……陰謀と策略なんだ……卑怯で卑劣なんだ」
「世のなか、きれいごとだけじゃ回ってないからね?」
イズマはとうぜんしょ、と笑った。
そのモデルですか、とアシュレもひきつった笑いを浮かべた。
数百年も生きているイズマの話は、いったいどこからどこまでがホントなのか、冗談なのか、あるいは寝言なのか、ちっともわからない。
だいたい、ゲッコー・ブーツとイズマは言うが、現物はサンダルだ。
いろいろ、ダイナミックにずさんすぎる。法的にもだいじょぶなんだろうか。
「じゃあ、これはそのオリジナルなのかな?」
「いんや、職人から買いましたよ? ちゃんと」
レプリカ、レプリカ。
イズマは手をひらひらと振る。
「でも、呪いの力で脚への衝撃を和らげたり、壁面を駆ける助けになるのは本当だヨン」
「なんで、サイズまでぴったりなんだろう?」
アシュレはなにか大事なことを聞き忘れた気がしたが、それよりもずっとはるかに大事が迫っていた。
「それよりさ、アシュレ」
なんでしょう、とアシュレはイズマに向き直った。イズマがいつになくキリッとした顔だったからだ。
「アスカ姫のことだけど」
やはり、それか、とアシュレは思った。
だれよりも計算高いイズマは、すでに戦後処理について考察していたのだ。
ノーマンだって口には出さないが考えているであろう。
アシュレ自身、悩みはじめると止まらなくなるから、意識的に止めていたぐらいだ。
「さっきいろいろ宣誓してたけど……やっぱりあれはマズイよね。彼女の背負うお国のことも考えたり、アシュレの立場を考えると」
「ですよね」
考えると胃が痛くなってきた。
そんなアシュレをイズマは痛ましそうに見つめる。
「わかるよ、アシュレ。その苦悩」
「イズマ」
アシュレは兄のように自分を気づかってくれるイズマに感謝した。
ひとりっこで兄どころか姉も弟も妹さえいなかったアシュレだが、もし、兄がいて、それがイズマのような人間であったなら、と考えた。
「でも、はっきりしなきゃだめだ。答えをごまかしちゃいけない」
はい、とアシュレは頷いた。わかっています、と。
ならいいんだ、とイズマも首肯した。ちゃんと言うんだよ、と。
「助けたのはボクちんだって」
は? とアシュレはイズマを見た。限りなく間抜けな顔だったはずだ。
そこ? と思った。そこが問題なの?
イズマと長くいると、やがてこの間抜け面が、自分の表情の初期状態になるのではないかと不安になった。
「たぶん、あれは一度目に助けたときのことだと思うよッ! 二度目はもう返してもらったし! この《コーリング・フロム・ザ・ヘブンズ・キングダム》で!」
アシュレは語気荒く言い放つと、くるりとイズマに背を向けた。
なぜか怒った様子のアシュレにイズマは対応できなかった。
ど、どゆこと、と慌てるイズマにイリスが噴き出した。
これ、借りときますねっ、と怒鳴るようにアシュレが足を指さしてゲッコー・ブーツを示した。
「なんの話をしていたんだ?」
所定の位置につくとアスカが話しかけてきた。
短衣からのぞく美脚がまぶしすぎる。
黄金の草原に立つ彼女は神々しくさえあった。
アシュレは目をそらして答えた。
「いや、ちょっと、タイミングの問題を」
そうか、とアスカも視線を合わせようとせず、ぶっきらぼうにつぶやいた。ぽしょぽしょ、という感じで。
「あの誓い――迷惑なら、破棄してくれ。その……なんだ、いままで、あそこまで命を張ってくれたヒトは、いなかったから……本気で怒ってくれたヒトも……。ほんとうに、うれしかったんだ」
え、とアシュレは向き直り聞き返した。
あまりに小声で、戦闘音楽鳴り響く戦場ではうまく聞き取れなかったのだ。
なんでもないっ、とアスカは前方を向き、ジャンビーヤを引き抜いた。
なにかを振りきるように叫ぶ。
「さあっ、騎士たちよ、突撃の時だ。生きるも死ぬも友のかたわらならば恐くなどないッ! 悔いを残さぬよう戦い抜けよッ! 誉れの道ぞ! 栄光への道ぞ! つづけッ!」
それを合図に全員が突撃を開始した。
ノーマンが続き、遅れじとアシュレも駆け出した。




