■第三十二夜:泉水の姫君
「じゃあ、行くね」
装備を調え直し、アシュレは蛇の巫女を振り返った。
すでに泉には満々と水がたたえられ、小舟かそれに類する機材を用いねば対岸に渡ることは難しくなっていた。
その中央にある台座に囚われたままのマーヤとの距離は、十五メテルは優にある。
「あ、あの、その──今度はいつ……いつ逢えるのだろうか?」
別れ際、恋をしてしまった少女のように、マーヤが聞いた。
その口調には、まるで今生の別れに脅えるような響きさえある。
実際、人類圏に伝わる神話でも、蛇の巫女はヒトの英雄に孤島に置き去りにされる運命だ。
あるいはそれは、こういうやり取りが実際にあったからなのかもしれない。
けれども、アシュレにはそんなつもりは毛頭なかった。
絶対に約束を果たす。
そのつもりで返事をした。
「できれば三日と空けず来るつもりだ。ほかにも対処しないといけない案件がたくさんあるケド……きみをひとりにはしておけない。それで、きみは大丈夫なのかな?」
アシュレの問いかけに蛇の巫女は、目に見えて落胆を示した。
「三日……三日も……か」
長い睫毛が特徴的な瞳を伏せ、噛みしめるように約束の期日を確かめる。
ぎゅう、と胸を締めつけられるような想いにアシュレは駆られた。
「ほんとに、ごめん。飲み水の話だけじゃない。ボクらの戦隊はいま問題だらけなんだ。一刻も早く戻って、指揮官たるボクが対処しなくちゃ……ごめんよ」
「あい、あいわかった。姫は、姫は我慢する。貴公と貴公を待つ戦隊のためだ。貴公は指揮官としての責任を果たしてくれ。そのためなら姫は……我慢する。我慢できる姫だと知って欲しい、から」
「ありがとう、マーヤ。ここで出会えたのが、本当にきみでよかった」
自分の欲求を押さえ込み、アシュレたちの事情を尊重してくれた蛇の巫女のことを、アシュレはもうほとんど好きになってしまっていた。
「そのかわり」
「そのかわり?」
「貴公……名を、どうかお名前を教えて欲しい」
指摘され、アシュレはハッと息を呑んだ。
そうだった。
あまりのことに名乗りを忘れていたのだ。
騎士としてあるまじきこと。
アシュレは慌てて、その場に跪いた。
「アシュレ。アシュレダウ・バラージェ」
「元聖騎士……そう言っていたな。エクストラムの聖騎士か」
「法王庁からは故あって離反──いまはどこにも属さない遊歴の身だけどね」
出合い頭、アシュレ自身が口走った経歴を、蛇の巫女は覚えていたようだ。
「名乗るのが遅れて申しわけなかった。大変な失礼をした」
「いいのだ。アシュレ。アシュレダウ。たしかに貴公の言うとおり、名乗っているような場合ではなかったのだから。だが貴公の名さえあれば、姫はきっと耐えられる。貴公の名前を繰り返していれば……どんな恥辱に玩弄にも耐えられる。貴公の再訪を信じて。だから、これは姫のお守りなのだ」
いじらしいことを言うマーヤをもう一度、抱きしめてやりたかった。
しかし、いまアシュレには本当に時間がなかった。
寺院の外では、マンティコラの吐息と媚薬の効果で立ち上がることもできないアスカやレーヴ、それに彼女らを護るエレが、いまや遅しとアシュレの帰還を待っているはずだ。
解毒薬を持ってきてくれる手はずになっているエルマも、出迎えてやらなければならない。
「ごめんよ。つらいだろうけど……待っていてくれ」
「今度は、今度はあなたの──貴公のことをもっと聞かせてくれ。貴公がどんなヒトなのか、姫は姫は……知りたいのだ」
蛇の巫女からの要請に、アシュレは槍を掲げて応じた。
そして、駆け出した。
自分でも言ったが──まだまだやるべきことが、戦隊を預かる若き騎士には山積み残されていた。
第七話:蒼穹の果て、竜の棲む島 エピソード1「泉水の姫君」完→エピソード2へ続く。
これにて第七話エピソード1完結です。
エピソード2もすでに書き終えておりますので、週明け2月22日から連載を再開したいと考えています。
どうぞよろしく!




