■第三十一夜:血の契り
「どう……だろうか。耐えられるかい?」
「耐えるのは……無理だと思う。いままでも必ず屈服させられてきたからわかるのだ……必ず泣かされてしまうに違いない。でもそれなのにああ、ああ、ふしぎだ。こんな恥辱はないと思っていた。死んだほうがマシだと。それなのに、相手が貴公だと思っただけで……たったそれだけで、なにがなにがこんなに違う?」
喉を喘がせながら涙ながらに抱擁を求めてくるマーヤに応えたアシュレは、安堵の溜め息をついた。
マーヤを責め立てる拷問具がごとき《フォーカス》の運指は、残念ながら変わらない。
ただ一点違うとすれば、それの手管はいまやアシュレが選択し、決定したやり方にすべてが書き換えられている。
おぞましくも邪悪な《フォーカス》は頑強な抵抗を示したが、大意としては新たなる仮のマスターに従った。
ただ、アシュレの意図せぬ悪意が、そこに干渉していることも否めない。
がっちりとその華奢な肉体を捉え深々と食い入ったそれが、実際にはどんな種類の不埒を働き信じがたい辱めを蛇の巫女に与えているのか、アシュレには想像することしかできない。
だがどうやらすくなくとも、死を乞い願うほどの恥辱から彼女を解放することはできたようだ。
絶え間ない責め苦に耐えるいじましい姿に、胸が締めつけられた。
はやく彼女を自由にしてやりたいとアシュレは切実に思った。
「待っていてくれ。必ず、きみを自由にする方法を見つけ出す」
「ああ。信じている。姫は貴公を、信じる」
蛇の巫女からの信頼を勝ち得たことが、アシュレにはとてつもなく嬉しかった。
しかし、時間は無情にも迫っていた。
アシュレの様子に、蛇の姫は頷いて見せた。
「言うな。わかっている。水が──清潔な上水がいるのだろう?」
「そう。そうなんだ。すまない。どうしてもいまボクらの戦隊には、清潔で信頼できる飲料水が必要なんだ」
「あいわかった……と言いたいところだが」
ああ、と上ずりそうになる声を必死に堪えてマーヤが告げた。
沈痛な面持ち。
カタチの良い眉が、苦悶するように寄せられる。
「いま姫の《ちから》は枯渇しておる。長きに渡る幽閉の間、ひどく飢えさせられ、そして……屈辱的な食餌を強いられてきたからだ」
「屈辱的な……食餌?」
「訊いてくれるな。後生だ」
アシュレは一瞬、この寺院を取り巻く状況について考えを巡らせた。
この水枯れ果てた大伽藍の底で生きていたものと言えば、二頭のマンティコラだけ。
そいつらが蛇の巫女に与える屈辱的な食餌……。
たしかに、マーヤが訊かないでくれと哀願したのはわかる気がした。
「なにか、ボクに差し出せるものがあればいいんだが。ロクな食料の持ち合わせがいまはない」
「貴公の率いる戦隊は、さまざまな面で物資的に逼迫しているのだろう? 飲み水を得るのに、これほど真剣にならねばならぬというのであれば……姫の肉体に精気を甦らせるほどの供物は難しかろう」
「マーヤ。なにか食べ物以外で代りになるものはないのかな?」
アシュレの提案に、マーヤは顔面に火矢を射掛けられたような顔をした。
「そ、それは。なくは、ないが。そのいくらなんでも……いきなりそれは姫としてもあまりにはしたないと思われてしまうし、そんな、まって困ってしまうし。まだ手も繋いでいないのにそのような大胆すぎる申し出というか……」
「たとえば……そうだな。血とかどうなんだろう?」
騎士の言葉に、蛇の巫女は固まった。
それから叫んだ。
「ッ! あああ、あああああ、そうか! 生き血か! な、なんだよかったその精気がどうとかそういう話かとてっきりな、いや早合点はやがてん」
「???」
「いや、いやいやいや、忘れてくれ。長き幽閉生活のせいで忘れていた。そうか血、生き血か。久しく忘れていた」
焦りまくって否定するマーヤを、不思議そうにアシュレは眺めた。
蛇の巫女は慌てて態度を取り繕った。
「しかし、血か。血とは──貴公、それをどこで都合する?」
「都合というか……ボクの血なら、いまここでボクの独断できみに捧げることができる」
「! あなたの……き、貴公の生き血、だと?!」
それほどとんでもない申し出を、自分はしたのだろうか。
あるいは不快になるようなことだったか。
蛇の巫女の桜色の唇がわななくさまは、アシュレを不安にさせた。
「やっぱりダメかな、ボクじゃ……」
「ち、ちがっ。そんなのもったいない。いや、いや、そうではなく! ……良いのか?」
「死ぬほど吸わないでくれると嬉しいな」
蛇の巫女の態度にアシュレは、ホッと息をついた。
安堵の笑みのまま武装を解いていく。
ヒトの子が約束を果たすため、そして己が率いる戦隊への責任を果たすため、我が身を無防備にしていく姿に蛇の巫女は打たれ、ぶるぶると震えた。
アシュレは竜皮の籠手:ガラング・ダーラも外し、上着を脱いだ。
現れたのは傷だらけの、しかし、いくつもの死闘潜り抜けてきた歴戦の、まさに騎士の肉体であった。
「どうかな。きみの審美眼にかなうかな?」
アシュレの問いかけに、蛇の巫女はこくりこくり、と二度唾を飲み込んでから応えた。
「こんな……こんなことをして、よいのか。こんなの……姫……壊れてしまうかも」
「だいじょうぶかい?」
「い、頂いても、いいのか?」
「そのためにこうして差し出している」
揺るぎない騎士の瞳に見つめられて、蛇の巫女は観念したように顔を伏せた。
アシュレはそっと間合いを詰め、少女の姿をした蛇を抱きしめる。
右手でマーヤの後頭部を優しく抱え、首筋に導く。
熱くて早い呼吸が、肌に感じられた。
「さあ、きみの気の済むようにしてくれ」
返答は咬傷によって行われた。
最初はためらいがちに舐めるように、はじめての食べ物に赤子が口をつけるように、おそるおそる。
だが、ひと口飲み干した後は愛をむさぼるようにして吸血は──行われた。
こくり、こくりと白い喉が動き飲み下すたび、蛇の巫女の肉体がびくりびくりと痙攣し、跳ね、余韻が響くように長く硬直する。
アシュレは宣言通り、彼女の気の済むようにさせた。
長いようで短い血の授受が終わったとき、蛇の巫女はぐったりと力なくうなだれて、アシュレの肩に頭をもたせかけていた。
荒い呼吸。
全身にびっしりと汗をかいていた。
大気をむさぼるように開きっぱなしにされたその唇からは、アーモンドの花と新鮮な血液の入り交じった刺激的な薫りがする。
紅の混じった蛇の巫女の甘い唾液が、アシュレの肌を濡らしていた。
新鮮な血液には生臭さはまるでない。
ただ、その薫りは生物の古い部分に作用して、極度の興奮を呼び覚ます。
「こんなことをしてしまっては、こんなふうに感じてしまっては。姫はもう……戻れない。こんな、こんな……」
夢現のまま蛇の巫女が呟いた。
アシュレは指で、血に濡れたマーヤの口元を拭ってやった。
おそらく水差し(デキャンタ)一杯分くらいの血液を差し出したはずだ。
「足りたかな?」
「ここで止めないとあなたを……貴公を死なせてしまう。でもこんなの美味過ぎて……姫は、姫はダメになってしまった。悪い姫になってしまった」
逢瀬の余韻から戻れぬままに、マーヤは陶然と語った。
「助力を頼めるかい?」
「はい」
「ありがとう。そして……その……これは無遠慮な申し出とは思うけれど。ボクがきみを自由にできた暁には……もう死ぬとか言わないで欲しい。どうか、生きていて欲しい。ボクたちとともに」
自分とともに生きて欲しい。
アシュレのそのひとことが、蛇の巫女の瞳を決壊させた。
ぼろりぼろり、と大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちる。
ああ、ああ、と言葉にならぬ嗚咽が漏れた。
そして、その涙が頬を伝い落ち泉の底に流れ至れば、そこから清き水の流れがこんこんと湧き出し始めたではないか。
これぞ蛇の巫女がその身に秘める神秘の《ちから》。
呼び水の奇跡。
「頼む、マーヤ。生きてくれ」
アシュレは心から望んで、繰り返した。
騎士に望まれていると知った蛇の姫は泣きながら、しかし微笑んで頷いた。
「貴公がそう望んでくれるなら。はい。姫は……生涯を賭して、貴公のお側に」
望外の言葉に、アシュレは思わず蛇の姫を抱きしめていた。
 




