■第二十八夜:死の呪言
「違う。ボクはただ──頼む、すこしでいい。《ちから》を貸してくれ。安心して飲める水が、どうしてもいま、ボクたちの戦隊には必要なんだ」
サル、と自分が揶揄されてきたことは、わかっていた。
それなのにアシュレには、蛇の巫女に対して怒りを感じることは、できなかった。
怒りを覚えるとすれば、彼女にこんな仕打ちを強いてきた相手にだった。
拉致され、害され、いまもなお辱めを受け続ける少女の裸身が眼前にはある。
なんとかしてやりたいという気持ちが湧き上がってくるのを、止められなかった。
長く不遇な環境にいた者が、疑心暗鬼に落ちいるのは当然のことだ。
なんとかその辛苦をやわらげ、和解することはできないのか。
苦悶にも似た感情が胸の奥で渦を巻く。
そんなアシュレを封じられたままの瞳で睨めつけ、蛇の巫女は鋭い言葉をぶつけてきた。
「そのような口先三寸で、姫から清水を絞り取れると思うなよ。貴様はそうやって騎士ぶりを見せつけはするが竜のヤツを召し捕ったわけでもない。束縛を解き自由にしてくれたわけでもない。詳しい経緯を話そうともしない──それでどうやって姫の心を動かせると思うのかッ!」
「竜ッ?! やはり竜なのか、キミをこんなふうにした相手は。トカゲっていうのは、まさか」
驚愕するしかないアシュレを、蛇の姫は吐き捨てるように嗤った。
「貴様、ここをどこだと心得る。そうともかつて竜王を僭称した獰悪にして狡猾なる赤竜:スマウガルド・ガラルゴルムの居城だぞ?」
赤竜:スマウガルド。
その名前にアシュレは戦慄した。
それは西方世界の昔話にも出てくる最も有名で、最も邪悪な竜の名だったからだ。
「どうした、若き騎士よ。ふふん、臆したか。無理もない」
「……つまり、そいつを倒せば、キミは真の意味で自由になれるというわけか」
嘲りを含んだ蛇の姫からの挑発に、努めて冷静にアシュレは応じた。
ほほう、と少女が唸って見せた。
「真の意味で自由になれる、とはなかなかよい言い回しを思いついたな。まさにサル知恵というやつか。そうとも。復讐を遂げたなら、姫はようやく怨みから解き放たれ、己があるべきところに還れる」
「己があるべきところ。わかる気がするけれど……帰る……いや、還れると言ったのか?」
蛇の巫女の言葉使いが、妙に気にかかった。
生まれ故郷に帰るという意味とは、なにか違うニュアンスがそこにはあった。
その違和感は、正しかった。
蛇の巫女は、アシュレの問いかけに、さも楽しげに答えた。
まるでそれだけが、いまの自分に残された唯一の希望だと言わんばかりの口調で。
「それは、死ねる、という意味だよ。若き騎士よ」
「死ぬって……どういう、それはどういう理屈なんだ。なぜ、復讐を遂げ自由を得て、そのあとできみは死のうというんだ?!」
「いま姫がどんな辱めを受けているか、これまで受けてきたか……理解できないのか。もはや今生に留まることなどできぬ。死して来世に生まれ変わることにしか、希望などないわッ!」
カッ、と真っ赤な口腔を見せつけて少女がアシュレを罵った。
叩きつけてくるような呪力がアシュレを打ち、周囲を疫風のごとき瘴気が吹き荒れた。
神託を聞くほどの蛇の巫女の言葉は、心の弱い者が正面に受けたなら、ただそれだけで死に至るほどの強い呪力を秘めている。
だが、アシュレは、あえて少女の呪言を真っ向から受け止めた。
アスカ、そしてレーヴから二重に授けられた戦乙女の契約の《ちから》が、その死の呪いを退けてくれることを信じて。
ほう、と蛇の巫女の顔に驚きのようなものが浮かんだのは、このときだ。
「我が呪言を退けるか、人の子よ」
驚嘆が蛇の巫女の唇から、こぼれ落ちた。
死の呪いを込めた呪言を受け止めてなお健在たる人間は、すくなくとも勇者であり、もしかしたら英雄と呼ばれるべき存在に違いないと蛇の巫女は認めたのだ。
やがてその口が諦めたよう開かれ……条件を並べ立てはじめた。
アシュレはそれを黙って聞いた。
「口惜しいが、いまの我が《ちから》では貴様を退けることすら叶わぬらしい。であれば、対話しかないということになる。貴様があのトカゲ同様、恥知らずなやり口で姫から搾取するのではないと言うのであればな」
アシュレは試練に打ち勝ち、交渉のテーブルにつけたことに胸をなで下ろした。
危なかったのは間違いない。
戦乙女の契約の護りがなかったら、正真正銘、即死していた可能性だってあるのだ。
「ボクは搾取というやり方は望まない。取引であるなら、貴女にもなんらかの見返りがなければならない。そこのことには全面的に同意する」
「見返りを認める、とな? ふむん、そこまで言うのであればしかたあるまい。ならば交換条件だ、若き騎士よ」
もったいをつけるように、蛇の巫女は言葉を選んだ。
「いまここで、姫に死をもたらしてくれるか。あるいは姫を自由にしてくれるか。はたまたあの忌々しい赤竜:スマウガルドの首を持参するか。この三つのうちいずれかの条件を満たすなら、すこしだけ貴様らに助力をしてやる」
ようやく引き出された助力のための条件。
だが、そのどれもがアシュレにとって厳し過ぎる条件だった。
まず、蛇の巫女を殺すという提案だが……これはアシュレにとって論外だった。
もはや望みないほどの病を得ていたり傷を負っているならともかく、いくら乞われたからといって無抵抗の女性に、致命の一撃を見舞うなど、騎士としてのアシュレには到底許されぬことだった。
さりとて「自由にせよ」いうのも難しい。
そもそも、こんなことをアシュレひとりで決めて良いのかどうか、おおいに悩ましい案件だ。
いまは少女の姿を取ってはいるが、自由を得た彼女は強力な大蛇なのだ。
カテル島で戦ったヘリオメデューサしかり、先のヘリアティウム攻略戦で相対したシドレしかり、蛇の巫女とは、いずれも人間の手には到底負えぬ暴風や雷、大雨に地震の化身たちのことである。
しかもいましがたアシュレは、強力な死の呪言を浴びせかけられたばかり……。
これを戦隊に相談なく独断で野放しにしてしまうというのは、かなりの葛藤がある。
彼女が抱く竜への憎悪に関しては疑う余地はないが、その蛇の巫女が人間に対してどのような感情を抱いているのかまでは、本当のところはわからない。
アシュレに対するサルなどという揶揄の言葉を考えれば、人類はすくなくとも尊敬を受けているわけではないだろう。
第一、蛇の巫女がヒトの子との約束に本当に応じてくれるかどうか、それすらわからないのだ。
対等でない者同士の間の約束事など履行されるとでも本気で思っていたのか、と切り返されたらそれまでだ。
そういうやりとりが、人間同士の階級社会ではあたりまえのようにまかり通っていた時代のことだ。
そして、三番目の赤竜:スマウガルドの討伐という条件には、さらに時間的な問題と、相対する脅威の強大さが加わる。
あと数日のうちにまとまった量の真水を確保しなければならないアシュレたちにとって、この条件は確約も達成も難しい一番の難題と言えた。
左手を額に当てて、アシュレは必死に思案した。
強く握りしめた右腕の竜皮の籠手:ガラング・ダーラがギシギシと鳴る。
それから、絞り出すように言った。
「わかった。きみを自由にすることにする」
「な……んと?」
ぽかん、と口を開いたのは条件を突きつけた蛇の巫女の方だった。
「貴様……いや、貴公。いま、なんと言った?」
「きみを自由にする。そう言ったんだ」
「貴公、気でも違ったか?」
あまりのことに、さすがの蛇も動転したのか。
貴様という呼び掛けが、貴公と敬意を払われたものに変わっていた。
アシュレは、どうして自分が蛇の巫女を解き放つという選択肢に辿り着いたのか、そのわけを話した。




