■第四夜:国境の村――パロ
国境の村:パロでアシュレは城壁に遭遇する。
古代の遺跡を利用したものだというが、街道から幅十数メテル・長さ数キトレルに渡り行く手を阻むそれが、いまだ現役であることを知り驚く。
城壁に沿う村々に常駐の兵が五〇〇名もいた。
五〇〇名といえば、人口五万人の都市国家が捻出できる軍隊に匹敵する戦力である。
常時戦力と考えれば、大変な出費のはずだった。
「この城壁の向こう、旧イグナーシュ領は、ひとことで言えば地獄です」
部屋のテーブルに地図を広げ、パレットが言った。
今後の方針を決定する会議、その席上にアシュレたちはいる。
聖遺物を奪取したと思われる馬車が、兵の制止を振り切って旧イグナーシュ側へ進入したからだ。
その際、制止に入った兵士数名が惨殺されている。
完全な強行突破だったのだ。
兵たちは歩哨用の簡易な胸当の上から、骨ごと真っ二つにされていた。
簡易といってもそれは鋼鉄製で、ひとりが数箇所の切断をそれぞれに受けている。
戦慄するほどの剛剣、そして手並み。
鋼の鎧を両断するなど、辻講釈の世界での話でなければ、切り込むことさえ難しい――いや、《スピンドル》能力者や魔の十一氏族の使い手ならば、あるいは。
アシュレはその切断面を観察しながら思った。
それにしても胴、首、手足……どれも致命の一撃である。
つまり、兵たちは致命傷を何度も負わされたことになる。
戦場で手足を失えば人間は簡単に死ぬ。
止血が間にあわなければ、あっけないなものだ。
それなのに重傷を負い、すでに死に体になった相手を、こうまで手酷いやりかたで殺害する必要がどこにある?
トドメをさす、というのとはこれは違う。
慈悲など、どこにもない。一片も感じられない。
アシュレはパロの神父とともに検死につきあい、怒りを覚えた。
さらに死体の断片は、どれも紫色に変色していた。
これほどの殺傷力に加えて、犯人は毒を用いていたのだ。
人間離れした剣技と残忍さ。
許せない、と思った。
兵士たちの無念は必ず晴らさねばならない。
だが、その無残な死に様を見るにつけ、ますますあの夜、遭遇した夜魔――美しい少女の姿をした――と、この残忍な手口との間に違和感を覚えた。
むしろ、確信さえ抱いた。
この手口は彼女ではない、と。
「聖騎士:バラージェ? どうかなさいましたか?」
いつのまにか、思考に浸り込んでいたのだろう。
ソラスが声をかけてきた。
「あ、ああ、すみません……考えごと……推理みたいなものです」
「お話はあとにしましょうか?」
「いえ、ぜひ聞いておきたい。旧イグナーシュ領について、でしたね?」
アシュレが促すと、ソラスは心得た様子で話を続けた。
司令官がうわの空では全体の志気に関わる。
アシュレは思考を断ち切り、話に耳を傾けた。
「旧イグナーシュ領はかつてはこのイダレイア半島有数の穀倉地帯でした。ですが、いまでは人災に天災が加わって、それはもう神の罰を受けた土地としか言いようがありません」
瘴気渦巻き、疫病と飢餓と貧困と無秩序が人々の肉体だけではなく、心までも踏みにじる地だとソラスがつけ加えた。
「なぜ、そんなことに」
「偉大すぎる王を失ったことが、そもそもの始まりだったのです」
ミレイがアシュレの顔をまじまじと覗き込んで言った。
「グラン・バラザ・イグナーシュ。時の法王に降臨王と呼ばわしめたほどの名君です」
アシュレも、その名だけは聞いたことがあった。
善政によって民から慕われ、公正な裁きによって悪よりは恐れられ、敵対する諸外国に対しては果断な処置さえ辞さなかった救国の英雄。
篤信なイクス教徒であり、法王からの信任も厚かった男。
お伽噺に聞いた古代の英雄譚から抜け出してきたかのごとき存在。
それがアシュレにとってのグランだった。
「それほどの方なら世継ぎもまたそれなりの徳を持っておられたろうに」
たしかに、と沈痛な面持ちでソラスが言った。
「皮肉というのはこのことでありましょう。
それなり以上の徳を、残されたご子息ふたりが、ともに受け継ついでおられたのです。
そして、グラン王そのヒトが国の行末を頼んだ兄弟ふたりが王座を争った。
ガシュイン兄王殿下とベルクート弟殿下のお二人です」
心臓を掴まれるような心持ちをアシュレは味わった。
この時代には珍しくひとりっ子であったアシュレにとって、兄弟同士で争うという発想そのものが埒の外だったのである。
なぜ、愛し合うべき家族のなかでそれほどの争いが生じるのか、アシュレには理解できない。
「血で血を洗う争いは二年の長きにわたりました。ガシュイン殿下が勝利したのです。しかし、その時にはガシュイン殿下はヒトが変わられておりました」
「無理もない。実の弟を手にかけたのだから」
はい、とソラスは同意を示し、続ける。
「けれども王となられたガシュイン様の所業は常軌を逸しておられました。圧政につぐ圧政。そして、ある日、民が蜂起したのです。反乱、と史書には記されています」
専制君主制と法王による統治世界で生きてきたアシュレにとって、民が王に取って代わる蜂起の話は、まったく理解の外だった。
執政と国の代表たる王を失って、どうやって国体が維持できるというのだろう。
ソラスの話は、アシュレにとってお伽噺に近かった。
「それで王国はどうなったのですか?」
アシュレの率直な問いに、ソラスは一瞬、怪訝な顔をした。
事実を口にすべきかどうか迷った様子だった。
「革命が起こったのです」
革命。
アシュレは、その単語を知らなかった。反乱ならわかったが。
無理もありません、とソラスは理解を示した。
「民主主義、自由、革命。これらは一種の思想的病です」とソラスは断じた。
「神より与えられた王権に対し、民が叛旗を翻すというのですか? それは治世に対する暴動ですか? 敵対する国家による侵略や貴族同士の内紛ではなく?」
狂気の沙汰だ、とアシュレはうめかざるをえない。
「ヒトは本来自由であり、平等であり、国家政府はその人々の中から公正な選挙によって選ばれた人間が行うべきだという考えです。つまり国民に権力を委譲せよ、という」
パレットが冷静な口調で革命の主旨を述べる。
それは専制君主国家で教育を受けてきた彼らには、到底受け入れ難い概念だったのである。
「国を迷わすだけではないのか?」
アシュレの問いかけに、おっしゃる通りです、とミレイが首肯した。
「自由、とはなんですか?」
それまで沈黙を貫いていたユーニスが口を挟んだのは、そのときだ。
本来、従者であるユーニスが同室するのはありえないことだったが、騎士たちの身の周り、特に食事の世話はユーニスの腕前が群を抜いていたため許されていた。
騎士たちが一斉にユーニスを振り返る。
その場にいた全員の視線を一身に浴びて、ユーニスは身を強ばらせた。
「正直わたしにも得体の知れない考え方なのだが――ヒトはどこへでもいけるし、どんな職業にもなれる。だれと結婚するのも可能だ、ということらしい」
「そんなバカなこと、できるわけない。つまり、荒唐無稽――絵空事ということですか」
「その絵空事のために、国を危うくしようというのが革命という言葉の実体だな」
「だが、それでも――革命は成った……のか」
アシュレは感慨深げに言った。
たとえ狂気の沙汰であっても、天地をひっくり返すほどの行いを成し遂げた人々に少なからぬ畏敬を覚えていたのである。
だが、続くパレットの言葉が、その感慨に冷水をかける役割をした。
「そして、恐怖政治がやってきたのです」
「恐怖政治?」
「革命軍はいくつもの派閥の寄せ集め所帯でした。実際、ガシュイン公の軍勢が内戦で疲弊していなければ、勝つことなど到底できなかった烏合の衆。ひとたび政権を握った彼らは、気付いたのでしょう。
自らと自らを支持するものたちだけで政権を独占しなければ、いずれ、かのガシュイン公と同じ運命を辿るのは自分たちのほうだと」
「それで彼らはどうしたのです。実際には?」
「粛正です。断頭台の登場ですよ」
あまりに殺さなければならぬ人間の数が多かったため、断頭台を作ったのです。パレットは言った。
愚かなことを、と続いてミレイが吐き捨てるように言った。
騎士の仕事は戦争だが、そこには名誉と誇りがある。
すくなくとも騎士たちはそう信じている。
信念はヒトを律する礎だ。
だが、ただひたすらにヒトを殺すためだけの機械に心などないだろう。
「密告と裏切りが人心を惑わし、疲弊が頂点に達したころ、イナゴと疫病が国を襲いました」
果てない飢餓と業病に国土は死に絶え、ついには天変地異によって瘴気渦巻くこの世の地獄となったのです。
パレットとソラスが補足しあいながら話をしてくれたおかげで、アシュレはイグナーシュ王国について、かなり具体的なイメージを持つことができた。
「そこへ聖遺物を奪った賊が向かった……厄介なことになりましたね」
パレットが感想し、たしかに、とアシュレも同意した。
それで今後の我らの行動は――と向けられた視線に、
「今夜はここに逗留します。これまでの道程で使いを出していますから、ほぼ間違いなく法王庁からの早馬があるはずです。その情報を待ち、明日の行軍方針を決めましょう」
そう切り返した。
「他に質問は?」
もしできればですが、とミレイが控えめに手をあげた。
どうぞ、とアシュレは促す。
「聖遺物の外見的特徴と効能をお教え願いたい。互いが命を落としてもおかしくない場所に赴くなら、最後のひとりになっても任務をまっとうするために」
アシュレはソラスと視線を交わした。
概要については副官であるソラスとユーニスには伝えてある。
基本的に聖遺物に関する一切は法王庁の秘事であり、法王そのヒトであるか、その直属となる聖遺物管理課の長の許可なくしては口外が禁じられている事項であった。
ミレイもそのことは充分承知しているはずで、それをあえて訊く、というのだから、そこにはなにか考えがあるのだろう。
だから、アシュレはこれを一種の連帯のための儀式と判断した。
「わかりました。皆さんをボクは信頼しています。ボクの一存でお話しします」
無言でソラスがうなずく。
よい指揮官になれる、と得心した笑みが髭の奥にあった。
凝り固まった規律や保身を戦場に持ち込む上官を、現場は、部下は決して信用しない。
そして、アシュレは責任の所在を明らかにした。
訊かれたから話したのではない。部下への信頼ゆえに話すと決めた、と明言したのである。
ヒトはまず自分を信じてくれる人間を信用する。
若年ながら、アシュレは自然にそれを会得している。
たいしたものだ、とソラスは感心した。
聖なる籠手:〈ハンズ・オブ・グローリー〉。
そして、聖遺物:〈デクストラス〉。
卓上に図解が並べられた。
聖遺物管理課に仕える職員だけに貸与される図鑑を前に、騎士たちが息を呑む。
実物さながら彩色されたふたつの聖遺物は、たしかに騎士たちを魅了したようだった。
鈍い銀色のガントレット。
それが〈ハンズ・オブ・グローリー〉だった。
凹凸を織り込むように作られた装甲表面は、恐ろしく高度な鍛冶技術の賜物であり、同時にそれは女性的な曲線さえ合わせ持ちつつも、明らかな戦時の道具としての骨気を感じさせる品だった。
だが、〈ハンズ・オブ・グローリー〉を真に聖遺物たらしめていたのは、その素晴らしい外観ではない。
表側からはうかがい知れぬ内部素材にこそ、その証はあったのである。
指先から肘までを守る皮の素材に秘密は隠されていた。
それが聖人の肉体だった。
ルグィン・ラディウス・パルディーニ。
かつて異端の烙印を押されながらも、夜魔と戦い続けた男。
その肉体から作られたこの聖遺物は、ルグィンの佩刀であった異形の大剣:〈ローズ・アブソリュート〉を扱うために必須の武具だとされた。
けれども現在、肝心の剣のほうが遺失してしまい、人類世界は夜魔に抗するための切り札を欠いた状態だった。
また、これこそは、アシュレの父が夜魔の公女より奪還した聖遺物であった。
夜魔の大公、スカルベリの息女――シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ・ガイゼルロン。
シオンザフィルの詳細なスケッチが参考資料として残されていた。
美しい夜魔の姫。
そして、今回の第一容疑者。
驚いたことに描いたのはアシュレの父:グレイだった。
アシュレですらこの図鑑を見るまで、知らなかったことだ。
そして、いまひとつの聖遺物〈デクストラス〉は一見して槍の穂先を思わせるものだった。
びっしりと刻まれた文字と記号。
いまでは遺失した文字の刻まれたそれが刃だとするならば、それを突き込まれたものは「文字の意味そのものを挿入されることになる」のではないか、という恐ろしい想像をアシュレに起こさせるほどの品である。
そして、それこそは降臨王:グランの遺品でもあった。
いったい、いかなる効能がその刃に秘められているのか、その謎を解き明かすための全てが、王国とともに失われてしまった品物である。
ただひとつ確かなことは〈ハンズ・オブ・グローリー〉と〈ローズ・アブソリュート〉の関係がそうであるように〈デクストラス〉にも、また対となる品物が存在したのだという。
名前だけは明らかであった。
――〈パラグラム〉。
古い森の祭祀たちの言葉で『散在』――つまり「あらゆる場所に存在する」を意味するそれが、どのような品であるのか、アシュレには想像もつかない。
ただ、この二品をなんとしても奪還せねばならないということ、そして容疑者のうち一人は夜魔の公女であるということ。
そのことをアシュレは全員に正直に話した。
「それじゃあ、ご存知だったんですね」
イグナーシュ王家の話は。パレットが頭を掻く。
「師に教えを説いてたわけだ、オレたちは」
「もうしわけない」
直截にアシュレは詫びた。
聖務に関する事項を口外せぬため、無知を装った無礼を謝罪する。
「けれども革命や民主主義、自由という概念については本当に知りませんでした」
騎士たちが互いに顔を見合わせそれから破顔した。
騙されていたと憤る様子ではない。
むしろ必要であれば無知を装える、頼りがいのある男だと思われたようだ。
「その歳で腹芸までできるとは、いや、恐れ入りました」
どうやらアシュレの評価は、信ずるに足る指揮官として及第点に乗ったようである。
※
ユーニスの祖父であり密偵でもあるバートンが、アシュレを訪ったのは夜半過ぎのことである。
「出張ってもらって、ごめんね。事前調査をする暇がなくてさ」
「面倒はいつものこと。若の勘、あまり悦ばしいことではありませんが、当たりのようです」
「アルマのことだね」
口頭では長くなりますので、これをと、バートンは簡潔にまとめられた資料を差し出した。
読み進めるうちアシュレの手は震えだした。
水差しに入れられたワインをゴブレットに乱暴に注ぎ飲み干す。
「わたくしもいただいても?」
バートンが平坦な声で言い、返答がないのをよしと見なしたのか手酌でやりはじめる。
「アルマステラ・オルテ・イグナーシュ――アルマがガシュインの娘? グランの孫?」
こめかみに手を置いてアシュレはうめいた。
同僚の過去を洗うなどコソ泥のすることだとわかってはいた。
だが、聖遺物をあずかる聖騎士の勘がアシュレに命じた。
アルマの生存を信じるなら、つねに例外的な事態を想定しろと。
その勘は残酷な真実を引き当ててしまったようだ。
「法王庁は?」
「おそらくこの情報は得ていないでしょう。キレイに繋がりが消されていたもので。史実では死んだことになっている娘です。アルマなんて名前はその辺にいくらでもありますから、まさか、と思ったのですが」
それから、とバートンは言った。
「ここ三ヶ月の間でアルマは数回、男と会っています。奉仕活動中、造り居酒屋、自室」
尼僧とはいえ聖遺物管理課の職員にはプライベートな時間が存在する。
礼拝を最優先するただの僧たちとはちがう。
行き先の届け出の義務はあるものの夜間の外出も認められていた。
自室へは、さすがに男のほうが忍んできたものだろう。
それにしても法王庁の敷地内だ。
大胆にもほどがある。
「男の素性は?」
本気でコソ泥の気分になってきたよ。アシュレは嘆いた。
「ナハトヴェルグ・パロウ。旧イグナーシュ王国の騎士。ですが、これはどうも眉唾のようで」
「怪しいのかい?」
「騎士崩れというにはどうにも……拠点の選び方などが手慣れていすぎまして……どちらかというとわたくしと同業と言ったほうがよいくらいでして。またイグナーシュ王家の紋章系図を紐解きましてもパロウ家というのはあるにはありますが、とうの昔に絶たえた血筋のようで」
「どういうこと?」
「端的に申しますに、テロリスト。それも民主主義なる世迷言を掲げる活動家の一派『群狼士団』のメンバーと思われます」
その瞬間、ぱちり、となにかがアシュレの脳裏で音を立てた。
パズルの噛み合った音とでもいうのか。
頭の片隅で火花が散るような感覚だった。
言葉が自然にこぼれ出ていた。
「アルマは生きているよ。そして〈デクストラス〉を持ち出したのはアルマステラ本人だ」
「なぜ言い切れるんです?」
「ボクは〈デクストラス〉の実物を見ている。あの夜、アルマが聖書に挟んでいたペーパーナイフがそうだったんだ。あまりに堂々としていたから怪しむことさえ忘れていた。
第一、極秘資料だから目録でさえこうして任務につくまでは目を通すことさえできなかったけれど、実物を目にしたことのある人間なら区別はつくだろう。ましてや王家の秘宝ならなおさらだ」
素晴らしい勘ですな、とバートンが言う。
見た瞬間に気がつけ、と皮肉られたのだ。
「それから、若、もっとも重要な情報が。アルマステラとナハトヴェルグ両名の逃亡先・旧イグナーシュ領は、すでに《閉鎖回廊》となっております。――ご武運を」
バートンの去った自室でアシュレは自問していた。
アルマステラ、そして、ナハトヴェルグ。
このふたりが〈デクストラス〉を奪った容疑者だというのなら、あの夜魔――シオンザフィルは、なんのために彼らと共闘しているのか。
どうしてもそこを結ぶ線が現れなかった。
なによりあの涼やかな紫色の瞳の持ち主が「聖遺物の奪取とそれに伴う殺人」――つまり、夜盗・強盗の真似事をよしとするなどという想像が、アシュレにはできなかった。
昼間見た、兵士たちの無残な死体が脳裏を過る。
だが、だからといって関与を否定する材料もない。
疲れが澱のように身体にあった。
問いを繰り返すうちアシュレの意識は暗闇に呑まれていった。
翌朝、装備を調えて広間に降りれば全員が揃っていた。
夜明け前である。たるんだものはひとりもなかった。
直前に法王庁からの使いがあった。アルマステラとナハトヴェルグの名が上がった。法王庁も無能ではない。
ただしアルマステラの血統については言及がなかった。
それでもナハトヴェルグとイグナーシュ王家の線から辿り着くのは時間の問題と思われた。
さまざまな憶測が、隊員の胸中で渦を巻いていることがアシュレにはわかっていた。
だが、あえてその話題には言及しなかった。
あくまで聖遺物の奪還こそが第一であると説く。
それよりも、バートンのもたらした情報のうち、もっとも重要な事項を明らかにした。
「《閉鎖回廊》?」
ソラスを含む全員がオウム返しに訊いた。
アシュレは説明する。それこそは敵の封土、この世にありながら隔世として敵の定めた法則が優先される土地だと。
「イグナーシュ領はいまや、この世の理の及ぶところではありません」
アシュレは淡々と説明した。
――《スピンドル》とその能力者以外を拒む、この世に現われた異界。
そこに居座る絶対的な敵対者――オーバーロードたちのことを。
「そこではいかに優れた剣技も、鍛え上げられた肉体も、信仰さえ意味をなしません。ただ《スピンドル》のトルクなしには、あらゆることが前へ進められぬ世界なのです」
説明しながら胸の苦しさに戸惑う。
それは自身が人外であると説いていることに他ならなかったからだ。
ヒトならざるものと対峙しうる者がいるとするならば、その者はすでに人外である。
父がなぜ、こちら側に来て欲しくなかったと吐露したのか、わかった気がした。
聖堂騎士たちも《閉鎖回廊》の名を聞いたことは、あるはずだ。
しかし、そこは異能者たる《スピンドル》能力者、すなわち、聖騎士を筆頭とする異能者たちの戦場である。
そこは《スピンドル》能力を持たざる多くの者たちにとって、実感の伴わぬお伽話の、英雄譚のなかにだけ存在する異境、魔境と同等として認識される。
アシュレの発言はだから、その物語のなかへ飛び込む、と言い切ったに等しかった。虚構の側へ侵攻すると、断言したに等しいのである。
必然、それは決別の言葉となる。
陽の光満ちる世界との。
こちら側の世界との。
「ここから先はボク、ひとりでまいります」
アシュレは深く頭を下げた。
ひとりで行く。それが別れの言葉だった。
父が教えた。大切なものを守りたければひとりで戦え、と。
「にわかには承服できません」
断固たる声で言ったのは意外にもソラスだった。
他の全員が虚を突かれた。アシュレはソラスの瞳を見た。
アシュレを案じてくれていることが一目でわかる。涙が出そうになった。
「信じられませんか」
「この目で見るまでは」
「それからでは遅いこともあるのです」
アシュレは握手を願うように右手を差し出す。
義理堅いソラスはわざわざ立ち上がって手を握り返した。
その瞬間である。ソラスの巨体が宙を舞ったのだ。
上背があり筋肉質のソラスは一〇〇ギロス近い。
対するアシュレはせいぜい六十ギロス。
それを右手一本で投げ飛ばすなど、どだい無理な話のはずだった。
だが、それどころか、もっと恐ろしい芸当をアシュレはやってのけたのである。
ソラスは一回転した。側転。
ぱちくり、と実は愛らしい目が瞬きした。
「これが《スピンドル》。たったひとつでこれほどの力を発揮するんです」
アシュレは、ふたたび右手を差し出した。掌を上に向けて。
そこにはなにもなかった。
だが、触れたソラスにはわかった。
とんでもないエネルギーがそこには集約しているのだと。
見えずともあるのだと。
「皆さんを足手まといだと言いたいのではありません。ただ、向こう側ではこちら側の理屈は通用しないということを、わかっていただきたいのです」
淡々とした言葉に一同が押し黙る。決まりですね、とアシュレはつぶやいた。
「イグナーシュへはボクひとりでまいります」
皆さんは法王庁に帰還してください。
そう伝え終えるとアシュレはひとり、食事を摂りはじめた。
そっと隣席者たちが立ち去るなか、もくもくと。
※
「どういうことですか、これは!」
食事を終えたアシュレが装備を調え、愛馬:ヴィトライオンとともに国境に赴くと城壁の前で部隊が待っていた。
誰ひとり欠けることなく。フル装備で。
アシュレはオロオロと狼狽し、檻のなかのクマのように彼らの前を歩くしかない。
「我々は我々の意志で、隊長に同行します」
「軍規違反です!」
「現場の判断であります」
「軍法会議ですよ!」
「全員覚悟の上であります!」――喜劇みたいなやりとりだ。
涙があふれそうになってアシュレはまぶたに拳を押しつけた。
「バカなんですか、あなたたちは」
「隊長ほどでは……」
「上官侮辱罪!」
言いながらアシュレは前列のソラスとミレイを抱きしめた。
このヒトたちは数日前に出合った自分に同道しようと言ってくれる。
地獄の道行きだと知りながら、自分のような若輩をひとりで行かせることなどできないと言ってくれる。
父がひとりで戦えた理由がアシュレにはわかった気がした。
こういう人々が自分の後にはいるのだと知っていたからなのだと。
「あなたたちは、全員、ボクが守ります」
泣きながらアシュレは言い放った。全員が笑う。
「あーあー、女のコか、キミは」
ユーニスの容赦ない突っ込み。
そこにパレットが同意する。
「でもほんと、ときどき、ドキッとするくらい美人ですよね。聖騎士:バラージェって」
身分の違いなど感じさせないパレットの合いの手に、思わずユーニスも過去の衝撃的事実を暴露してしまう。
「ちっちゃいころ病弱で、しばらく女のコとして育てられてたせいもあるかも、ですね」
「なんとっ、それは……萌えますね」
「ゴラー、なにばらじでんですかー!」
本気で泣きの入ったアシュレが暴れ回りはじめたが、笑いは収まらなかった。
けれどもアシュレは後になって、この時のことを死ぬまで悔やむことになる。
己の判断の甘さ、厳しさの欠如を。