■第二十四夜:ムカデの手鏡と追撃
「エレ! アスカ、レーヴッ!」
いったん追撃を諦め、アシュレは倒れ伏す美姫たちの元に駆け寄った。
アシュレの声に一番初めに応じたのは、アスカだった。
「アシュレ……すまない。カラダがもう、ぜんぜん言うことを聞いてくれないのだ」
震える腕で上体を起こしながらアスカが謝罪した。
アシュレはその肉体を抱き留めると、かぶりを振った。
「なにを言うんだ、アスカ。キミたちのせいなんかじゃない。ボクの判断の誤りと毒の──媚薬のせいだ」
「ああ、やはりそうだったのか……あのちいさな蜘蛛たちに噛まれた後から、おかしくなって……。気がつけばオマエのことしか考えられなくなっていた」
首筋にすがりついてくるアスカを抱きしめたアシュレは、背後から別の美姫に抱擁された。
その正体を確かめる必要はなかった。
このリンゴのようなさわやかな《スピンドル》の薫りの持ち主は──真騎士の乙女:レーヴ以外にはありえない。
「すまない。わたしも……ずっと我慢していたんだ。それなのに……エレとキミが出ていったあとアスカとふたりでキミのことを話していたら、その……切なさが止められなくなってしまって……胸の奥が苦しくなって……気がついたら……。恥ずかしいことだが不意を打たれた」
レーヴの声は涙に濡れていた。
ぽたぽた、と首筋に水滴が降りかかるのを数秒、アシュレは甘受した。
だが、いまは無事を確かめなければならない女性が、もうひとりいる。
「エレ、大丈夫かい」
アスカとレーヴを優しく振りほどいて、アシュレはエレの側に膝をついた。
土蜘蛛の凶手は耐えるように身を震わせ、膝立ちの姿勢のまま荒い呼吸を調えていた。
その口元は凶手たちが強襲を仕掛けるときに巻く、独特の面布に覆われている。
「慌てて飛び出すな。いまの調子で敵の待ち受ける領域に乗り込んでいったら、罠にハマり放題だぞ。わたしが面布をしていたことと、致命的なタイプのガスではなかったから良かったようなものの」
苦しい息のままエレが訊いた。
「それで、殺ったのか、ヤツを?」
「ごめん──取り逃がした。でも、エレやアスカ、レーヴを放ってはいけない」
「バカ、すぐに追撃しろ。体勢を整えたら、ヤツはまた来る。巣穴を叩け」
「だけど」
「案ずるな……ヤツの吐息は毒とは言っても……出血毒や神経毒のように肉体を害したり命を脅かするものではないようだ。言っただろう、致命的ではないと」
「じゃあ……」
いったいどうして、アスカやレーヴたちは動けなくなっているんだ?
そう言葉にしかけたアシュレの唇を、エレは人さし指で封じた。
「ここの元々の主は明らかに嗜虐趣味がある──そう言っただろう?」
そのひとことでアシュレは、マンティコラたちの吐息がどのような種類の毒素を含んでいたのか理解に及んだ。
「エレ、それじゃあ」
「くそ、解毒薬をケチッたのが運命の分かれ目だったな……ああ、くそっ。面布で大量に吸いこむことは防げたが、目の粘膜や肌に付着した成分までは防げなかったか。く、オマエの匂いが、こんなに近くでする、く、う……カラダの芯が燃えるようだ」
寄り掛かられ、アシュレは慌ててエレを抱き起こした。
というか手で支えて距離を作った。
「まって、ちょとまって」
「わかっているさ。本命の姫たちの前だと言うのだろう。そのくらいの自制心はある……」
「薬を取りに……いや、持ってきてもらおう」
アシュレの提案に、しぶしぶエレは頷いた。
「やむをえまい。人員はエルマにしておけ。あれならば、少々の荒事だろうと自分で対処できる。隠し扉には栞を挟んでおいたし、アラクネの糸を手繰るよう伝えればあっという間だろうよ」
だが、そのまえに、とエレは付け加えた。
「オマエはマンティコラを叩け」
「!!」
「そう驚いた顔をするな。手傷を負わされたヤツが体勢を調えて復讐を考えたりするまえに、徹底的に脅威を排除するんだ。いまならまだ間に合う。ここはわたしが守る」
エレの剣幕に、アシュレは頷いた。
たしかにエレの言い分はもっともだった。
相手に準備するヒマを与えてはいけない。
ここは敵のテリトリーなのだ。
「そうだ。それでいい。単独でこちらに向かってきてくれるエルマを、ヤツが的にかけないとも言い切れん。様々な意味で、ヤツの排除は必要なんだ」
たしかにそうだった。
狡猾なマンティコラのことだ。
単独でこちらに向かうエルマを認めたなら、これを襲撃するのは当然あり得る話だった。
エルマだって相当な使い手だが、地の利は相手の側にある。
不意を打たれた場合、どのような展開が待っているかわからない。
なにより、エルマが運んできてくれる解毒剤がいまのアシュレたちには、どうしても必要だった。
エレが無事でも途中の遭遇戦で霊薬が失われてしまったりしていたら、元も子もない。
「わかった。まずマンティコラを排除する」
でも、どうやって追跡を……言いかけたアシュレにエレは懐から掌に収まるサイズの鏡を取り出した。
「使え」
「これは?」
「飛んでいった虹色田鼈と紐づけてある」
手渡された鏡は、驚いたことに掌のなかでもぞり、と蠢いた。
「うわっ」
「裏面を見ろ」
「わ、なんだこれ、ムカデ?!」
アシュレが驚愕するのも無理なかった。
銅鏡の裏側には巨大なムカデがとぐろを巻いて潜んでいたのである。
アシュレは驚愕のあまり、うっかりそれを取り落としそうになった。
「気をつけろ。それなりに貴重な品だ。というか、この空中庭園では入手できない種類の呪具なんだからな」
「このムカデ……彫金なのか。精巧すぎて本物かと思った」
「いや、本物だよ。百年を生きる黄金百足を生きたまま彫刻として呪術で繋ぎ止めているんだ」
「わあっ」
今度はそれを投げ出しそうになって、アシュレはあわてて空中でキャッチした。
「そういうのは先に言って欲しい!」
「急いでいるんだ。由来など後にしろ。ともかく、そのムカデが頭を向ける方に虹色田鼈はいる」
「虹色田鼈が? でもそれとマンティコラの住み処と、どういう関係が……」
「わからないのか? 奴らは番兵だ。この上水施設の守護者なんだよ。それがわたしたちの侵入に呼応して目覚めた」
「! そういう、ことか」
「湖の古代魚と同じ理屈だ。奴らは元の主がこの地に縛りつけた阻止装置だ。主以外の何者かが飲み水や、湖水を自由にできないようにするためのな」
「上水の汲み出し口に獅子像の額には女神の顔があったのは……そういう暗示……」
「おそらくはな。きっと湖水の岸辺にも、あのバカでかい古代魚を戯画化した彫像かなにかがあるはずだ」
人面獅子、媚薬を媒介する蜘蛛たち……そういうことだったのか。
アシュレは思わず呟いていた。
「そこまでわかっていたのか……エレ」
「はっきりとわかったのは、つい先ほどだ。言っただろう、この空中庭園の元の主は嗜虐趣味で徹底している、と。そして、こうも言ったな。わたしにはその趣味がとても理解できる、と」
「つまり……」
「元の主たる竜が、どんな嗜好と思考を持っていたのか、わたしは理解に及んだ」
アシュレは素直に感心していた。
先ほどまで、エレの言うこの空中庭園の本当の主への共感には、戸惑いを憶えていた。
エレにもそうやって、ヒトを辱めいたぶり嬲る嗜好があるのだという、心根の吐露だとだけ理解していた。
しかし、そうではなかったのだ。
「善悪という色眼鏡を排さなければ見えないものがある。そう言いたいんだな、エレ。悪徳のなんたるかを理解するのには、善意の枷を取り外さなければならないってことなんだな」
ボクは──悪党として、まだまだぜんぜん未熟だ。
思い至り、アシュレはエレを抱き寄せていた。
「ば、バカ、わかったなら早く行け! 脳髄に電流が走るように感じるんだぞ、こっちは!」
言葉とは裏腹にしがみつかれて、アシュレは我に返った。
時間がないことを思い出し、エレをやはりやさしく引き剥がすと立ち上がった。
手鏡のムカデは明確に行き先を示してくれている。
いま自分にできることをするしかなかった。




