■第二十三夜:毒の吐息
「あ、コラ待て、アシュレッ!」
マンティコラの撃滅を確認するや否や、アシュレは聖盾:ブランヴェルに飛び乗り駆け出していた。
アスカとレーヴのふたりのことを考えるだけで、じっとしてはいられなかったのだ。
「クソッ、アシュレッ! 待てと言っているのにッ! まだ、まだだッ!」
その後ろを歯噛みしながらエレが追う。
アシュレには、そんな声すら届かない。
全速力でテントを設営した場に向かう。
「アスカッ! レーヴッ!」
キャンプ地に辿りついたアシュレは、叫びながら駆け込み、倒れ伏すふたりの美姫を助け起こそうとした。
その瞬間だった。
ゴハウ、と大気が鳴った。
濃密なガスによって一瞬で視界が閉ざされ、事態を把握するより早く、アシュレはだれかに突き飛ばされた。
ごろりごろりと転がって受け身を取り、柔らかい砂地の上で体勢を整えたアシュレが見たのは、つい先ほどまで自分のいた場所に入れ替わるようにして立っているエレの姿だった。
そして、そこにもうもうと立ちこめる、あのガスは──。
「まさか──吐息かッ?!」
そのまさかだった。
アシュレがそれを浴びたのはごく少量であり、一瞬だった。
視界を遮る濃い毒ガスの脅威から逃れることができたのは、その効果範囲からだれかが素早く、アシュレを突き飛ばしてくれたからに過ぎない。
もちろんそのだれかとは、追走してきてくれたエレ以外のだれがいるだろうか。
その代償に、エレは全身でそのガスを浴び、大量にその毒を吸いこみ、肌に触れさせてしまった。
がくがく、とその膝が震え、倒れ込むのをアシュレは見た。
「エレ──ッ!」
しかし、アシュレにはエレを助けに行くことは許されなかった。
なぜなら、不意打ちを仕掛けた魔獣=もう一匹のマンティコラが、そこには潜んでいたのだ。
そうだった。
激情のあまり失念していたが、事前にエレは告げてくれていたのだ。
複数の魔獣の足音がする、と。
アスカとレーヴのことを思うばかりに、アシュレはそのことを忘れ、うかつにもまんまと敵の待ち受けるエリアに足を踏み入れたのだ。
そう、マンティコラは二匹いたのである。
「くっ。このッ!」
言いながらアシュレは盾を拾い上げ、竜槍:シヴニールに《スピンドル》を通した。
ヴォン、とその穂先にさらに鋭く長い光刃が宿る。
闘気衝。
初めてマンティコラと相対したときも、アシュレはこの技で勝利を捥ぎ取った。
魔獣たちの毛皮は下手な板金鎧などよりもはるかに強靭な防御性能を持つが、異能によって生み出された光の刃を防ぐことまでは、さすがにできはしない。
不意打ちを躱されたマンティコラは、苛立たしげに乱杭歯をがちがちと鳴らした。
デスマスクに見えていた人面のアゴの部分が、バクリと裂ける。
そこから汚らしい唾液がだらだらと流れ出る。
本物の口は、そこにあるのだ。
なんというおぞましさ、そして邪悪さだろう。
仲間の死を前にしてさえ獲物への執着を捨てない貪欲な性。
そのうえで冷静に不意打ちを狙う狡猾さ。
脳裏に描いた暗い欲望のままに、おぞましい欲望を滾らせた父性の象徴をびくびくと脈動させている。
やはりコイツラはボクらの敵なんだ。
アシュレは認識を新たにした。
いっぽうのマンティコラは、アシュレが戦闘態勢を整えたのを見て取るや、咆哮を上げた。
バインドボイス──魔獣や蛇の一族、そして竜たちが使う《ちから》ある雄叫び。
それに打たれたものは戦意を挫かれ、恐怖に呑まれ手足は萎え、あるいは逃走したり、ときには全身の神経に変調を来し麻痺状態、最悪の場合、心停止によるショック死さえあり得る。
しかし、戦乙女の契約によって護られたいまのアシュレに、そのようなものが効くはずもなかった。
お返しとばかりに、アシュレは光刃を伸ばし、頭上の敵を激しく突いた。
それはマンティコラの首筋を掠め、肉を削ぐ。
焼かれた毛皮が、ぞっとするような異臭を放つ。
ギシャアアアアアアアアア──。
魔獣の口から、恨めしげな叫びが上がる。
アシュレは深追いせず、槍を引き戻し、迎撃体勢を整えた。
頭上の有利を取る相手に油断は禁物だ。
あの巨体がのしかかってきただけで、アシュレは簡単に組み伏せられてしまう。
しかもその尾は大蛇のようにうねり犠牲者に巻きついては、窒息どころか首の骨を折ることだって可能なほどの怪力を秘めているはずだ。
だが、アシュレが防御を固めた瞬間を逃さず、マンティコラは跳躍して遁走に移った。
「逃げる?! 狡猾な──」
させじ、と駆け出したアシュレに、振り向きざまの吐息が襲いかかる。
もちろんそんなものにアシュレはもう引っかからない。
これは事前に察知できていた。
アシュレは聖盾:ブランヴェルを起動し、その力場操作でガスを切り裂き無効化した。
不可視の力場がガスの成分に触れ、バチバチと紫電を生む。
強力な力場の作用が、毒ガスの成分を急速分解している証拠だった。
ただ、それも魔獣の計算のうちだったのだろう。
力場に切り裂かれ、分解されたガスが晴れたとき、そこにはもうあのマンティコラの姿はなかった。
 




