■第十七夜:暗雲を切り裂いて
「《ムーブメント・オブ・スイフトネス》!」
そう叫ぶやいなや、アスカはアシュレの脇を疾風のように駆け抜けていった。
駆け抜けざまアシュレの背に触れる。
途端に《スピンドル》の律動が伝達され、アスカの異能がアシュレにも効果を発揮するタイプのものなのだと知った。
スミレの花にも似た香りを、鼻腔ではなく脳裏で感じる。
アスカの《スピンドル》の香り。
それはアスカの印象にぴったりだとアシュレは思う。
それからアラムの姫君の勇敢さに舌を巻いた。
不安定な足場をものともせず一息にフラーマの巨体へ肉迫する。
恐れなど微塵も感じさせない思いきりのよさだ。
フラーマがのたうち暴れ回るせいで海水が吹き上がり、足場は極端に悪い。
水流に脚を取られれば致命的な事態に陥りかねない局面へ、アスカは躊躇なく飛び込んでいったのだ。
アシュレは事前に交わした会話を思い出した。
直後に起こった会敵で、よく聞き取れなかったが――“助けたいヒトが、いるのさ”――と確かに彼女はつぶやいたはずだ。
アスカのこの果敢な行動は、そこに原因があるように思える。
ぽとり、と一匹のコウモリが墜落してきたのは、すこし前のことだ。
アシュレは頭部でそれを受け止めた。
キリなく湧出するフラーマの落とし仔たちへの牽制と、離れ離れになり、このフラーマの漂流寺院のどこかで、いまも探索を続けているであろう仲間たち送る合図を兼ねた一射の直後である。
竜槍:〈シヴニール〉の光条が大気中にばらまく目に見えぬ粒子のせいで位置感覚を見失ったのだろうそのコウモリに、アシュレは見覚えがあった。
「ヒラリ! 無事だったんだね!」
アシュレは思わずヒラリを胸に抱き、それから頬ずりした。
目を回していたコウモリが、うっとりと官能的な表情を浮かべるのをアスカは驚きを持って迎えた。
「よかった、心配したんだ。キミが無事なら、シオンも大丈夫そうだ」
そう言いながらアシュレはヒラリをしきりに撫でた。
我が子か、愛娘か、というほどの可愛がりようで。
たしかにアスカから見ても、ヒラリは美姫だった。
コウモリの美的感覚はよくわからないが、光沢のある体毛は美しく、首筋だけが白く毛質が違い、高貴な雰囲気をはっきりと纏っていた。
アシュレの胸にすがりつく様子は、可憐な乙女を連想させる。
また、人間顔負けのうっとりと目を細める仕草が、そのかわいらし過ぎる容姿と相まって、たまらなく官能的だった。
許可を得て触れさせてもらったが、こんな肌触りのよいコートをプレゼントされたら、それだけで、ほとんどの娘が、唇を許してしまうのではないかと思ってしまうような感触だった。
おまけに高貴なバラの香りさえするのだ。
「先刻言った、夜魔の姫の眷族だよ」
アシュレは言いながら、自身の襟元を守るフードのなかにヒラリを入れた。
愛しい人の首筋に甘える乙女のような仕草をヒラリがするものだから、アシュレへの愛しさがアスカにも伝播して困る。
「愛されておるのだな」
そんなつもりなどないはずのただの感想に、隠しようのない切なさが乗ってしまっていたことに動揺したのは、アシュレではなくアスカのほうだった。
アシュレが無言でまじまじとアスカを見る。
アスカは、ばつが悪くなって、畳みかけるように聞いた。
「愛しておるのか。その……夜魔の娘を、やはり」
アシュレは一拍だけ間を置いた。
いままでのように、はぐらかしてはいけない質問だとわかったのだ。
それは、誠実な沈黙である。
ヒトが覚悟を固めるときに特有の。
「そうだ。間違いなく、どうしようもなく、愛している」
ずきり、とアスカは胸に隠しようのない痛みを感じた。
それでも感情的にならなかったのは王族としての誇りがあったからだ。
「亡国の姫――おまえの幼なじみと同化したという――はどうなのだ」
「同じだ。愛している。比べられない」
間を置かず、迷いもせず、アシュレは応えた。毅然と。
神が罰を与えるというのなら、臆せず神前に立つと、そう覚悟を決めた男の顔だった。
「わたしも……イクス教側に生まれれば、よかったな」
嘲るような笑みを浮かべて、アスカが言い放った。
アシュレは話の道筋を見失って、アスカをまじまじと見直す。
「そうすれば、異端審問官に告発してやれたのに。聖騎士が重婚、おまけに、魔物との関係だ。火あぶり確定だろうが」
アシュレはアスカの言わんとするところが汲み取れなくて困惑した。
こやつ、ほんとうに朴念仁、とアスカは思う。
途端に笑ってしまう。
どうやっても、アシュレのことを嫌えなくなってしまった自分がいるのを発見して。
「アラムの掟では、未婚の娘が男性に裸を許したなら、結婚するか、相手を殺すしかない。もし、仮にそのどちらもできないというのなら、自刃するほか身の潔白を証明する方法がない」
とんっ、と人さし指でアシュレは胸を突かれた。
「文化的レクチャだ」
悪戯っぽい口調でそう告げるアスカの頬が朱に染まっていて、その青い瞳に涙が溜まっていたのを、アシュレはどう解釈すればよかったのだろう。
アスカが狙いを定めたハヤブサのように衣の裾をはためかせながら、フラーマの巨体を無手のまま駆け上がっていくのを、アシュレは回想とともに見守った。
アスカの真意をアシュレは鈍感にも見抜けなかったが、いまこうして敵陣に突撃して行くアスカが、はっきりとアシュレが大切に思う者たちを救うべく行動を起こしてくれていることだけは、痛いほど伝わる。
ふさわしい感謝の言葉が見つからなかった。
もし、あのときのことをもう一度話せるのなら、アスカの願いを聞き出して、叶えるくらいしなければ男としてはだめだ、とアシュレは思う。
揺れ動く高台から、もう一度狙撃を喰らわせるべきか、突撃系の技でトドメを狙うべきか微妙なところだった。
いずれにせよ、攻撃を加えたことに対する敵のリアクションが、フラーマに取りついたアスカの行動を阻害するようではいけない。
不意の反射的な行動こそが、もっとも恐ろしい。
予測の立てようがないからだ。
それにしても、アスカの足さばきはあまりに見事だった。
超人的、と形容するのがふさわしい。
異能:《ムーブメント・オブ・スイフトネス》は足場の不利だけではなく、強風を無視し、海面すら足場にできる能力らしいと、アシュレはその機動を見て理解した。
だが、それだけではアスカの体術の説明にはならない。
舞姫のような圧倒的な柔軟さがそこにはあった。
剣舞を舞う勝利の女神だ。
シオンのそれに比して、こちらはもっと動的だ。
手足に通した《スピンドル》で無手のまま《オーラ・ブロウ》を点射するように発動させ、落し仔たちを捌きながらまったく速度を損うことなくフラーマの背を駆け上がる。
そのままの勢いで《レイディアント・アーダー》のコアとなっている宝剣:ジャンビーヤに手を伸ばす。
瞬間、陽光が収束し刀身が光になった。
「《アンタレス・フォール》!」
高速で回転する刃にアスカは自身の血を捧げた。
血は細い糸のように尾を引いて導線となった。
アスカはフラーマの頸部に降り立つと、導くように血をしぶく手を振りきる。
そして、輝く刃の球体となったジャンビーヤが激突した。
重力に引かれて地に墜ちた星が発するがごときエネルギーが、その刃には込められていた。
邪悪を打ち据える神罰そのもの。紛うことなき《ちから》、そのもの。
なまかまな魔物では、その存在を留め置くことさえ難しい極限の超技である。
けれども、また、フラーマも邪なりとはいえ、神話に語られた存在だった。
轟きわたる咆哮が、一斉に周囲の船を屹立させる。
――《トーメント・スクリーム》。
アシュレたち一行を壊滅の危機に追い込んだ攻撃が再び発せられた。
アシュレの一撃を喰らい、シオンを解放したフラーマの腕が、今度は頭上のアスカを狙って伸びる。
大技の終了動作中で完全に無防備になっていたアスカを《トーメント・スクリーム》の凄まじい音圧が撃った。
至近距離・それも発声器官の真裏から体動衝撃波となって伝播された異能の爆発は、運動神経をマヒさせ、体内の水分を激しく振動させる。
革袋に詰められて四方から滅多打ちにされるようなものだ。
そして、その革袋自体が自分の肉体なのだ。逃げ場がない。
アスカが《スピンドル》能力者でなければ、内臓がぐずぐずの肉片に変わっているところだ。
ごぶ、とアスカが吐瀉した。
脳震盪を起こし頽れる彼女を、フラーマの二本の腕が叩き潰そうと狙っていた。
「がああああああああああああッ!」
気がついたときには視界が怒りで真っ赤に染まっていた。
いや、《トーメント・スクリーム》の効果範囲内へ突っ込んで行ったせいもあるのだろう。
眼球や鼻腔の毛細血管が切れたのかもしれなかった。
だが、そんなことを意識するヒマさえ、いまのアシュレにはない。
かかったままだった《ムーブメント・オブ・スイフトネス》が疾風の速度を与えてくれた。
――《クロスベイン・ファイアドレイクズ》。
竜槍:〈シヴニール〉の一閃から自身が光をまとって突撃する玉砕覚悟の大技を、アシュレは自身の危険さえ省みず放っていた。通常は騎乗時でのみ行う技だったが、飛び降りとも言える無謀な突進を、超常的な機動を可能としてくれる異能:《ムーブメント・オブ・スイフトネス》が支えてくれていた。
ほとんど垂直に駆け降りた。
世界が吹き飛ぶように加速する。
アシュレは構わず増速し、不意にせり上がった足下を利用した。
ほとんど間髪入れず、光条とともに有質量砲弾となったアシュレ自身が着弾した。
ぎいいいいいっ、と邪神フラーマの巨体が大きく傾ぐ。
沸騰した体液がしぶく。
邪神をして、ひしがせるほどのダメージを与えたのだ。
だが、次の瞬間――アシュレは総毛立った。
ほとんど恐慌に陥りそうなほど。
助けなければならない人命が、少なくとも三つあった。
ひとつは、アスカ。
脳震盪で意識を失い、怨嗟の咆哮:《トーメント・スクリーム》によって運動能力を痛めつけられた彼女の身体が宙を舞っていた。
ひとつは、イリス。
フラーマの眷族に嬲られた裸身を必死で庇いながら、砕けた甲板に座していた。
ひとつは、シオン。
漆黒のドレスを無残に剥ぎ取られ、裸身のまま意識を失って横たわる。
その聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉とともに海中に没しつつあった。
そのどれもが、だれしもが、かけがえのない者たちだった。
どうすべきか、迷ってよい時間などアシュレにはなかった。
一瞬だけ、舞い散る木片の向こうのイリスと目が合う。
シオンを助けて、とその唇が叫びのカタチになるのが見えた。
凄まじい轟音のさなかで。
そして、その瞬間にはアシュレはすでに〈シヴニール〉から手を離し、フラーマの胸板を蹴っていた。
抜き打ちで、腰のグラディウスを構える。
古式なもので、《スピンドル》能力者として覚醒した祝いで父から送られた品だった。
聖堂騎士団の制式装備ではなかったが、聖騎士という兵科の用兵の性質上、予備武器に関してはかなりの融通が認められていたため(画一化された軍隊は人間相手には強くとも、魔物などの変則的な外敵・条件に極端に弱くなるため)アシュレはこの武器を愛用していた。
カーマンドラス(現:エスペラルゴ)地方様式のグラディウス――ファルカタとも呼称される武器で、直剣である歩兵用のそれとは異なり、前湾曲した形状のものだ。
刺突用としても斬撃用としても優れたものである。
実際、馬上で槍を扱うアシュレのスタイルとは相性がよかった。
アガンティリス期ほどではないにせよ、十分に古代の代物――骨董品でもあった。
尖端の近くに意匠化された不死鳥が彫り込まれている。
それを送られた日のことを、アシュレは忘れない。
幼い夢を父に話したことなどなかったが、父:グレスナウはアシュレの想いをきちんと理解してくれていたのだと胸が熱くなった。
アシュレの、もしかなうなら古代の研究をして暮らしたい、という幼い夢を、だ。
貴族に生まれたがゆえ、思う通りには生きられぬ定めを息子に負わすことに対して、父は責任を感じていたのかもしれなかった。
口にして謝罪されたわけではない。
また謝罪するようなことでもない。
ただ、その心づかいがうれしかった。
その切っ先にアシュレは《スピンドル》を通した。
――《オーラ・バースト》。
自身の血に刻まれた《スピンドル》の力を発振し光刃とする《オーラ・ブロウ》の純粋な発展型。
光刃はさらに長大となり、貫通力を増す。
その光刃を松明のように掲げ、アシュレは吹き上がる木片の渦に突っ込んだ。
当然だが無数にそれが突き刺さってくる。
衣服を突き破り、容赦なく血がしぶいた。
だが、臆さなかった。
最小限の面積をさらに光刃で護りながら、アシュレは愛しい夜魔の姫のかたわらに辿り着いた。
瞬間、刃が粉々に砕けた。
強大な呪いで括られているわけでも、ましてや《フォーカス》でもない武具で《スピンドル》とそれが引き起こす異能を扱えば、どうなるか、その証明だった。
刃が、柄が、込められていた想いを失ったかのように、地面に叩きつけられた素焼きの器のように粉々になる。
しかし、アシュレは頓着しなかった。
傷だらけの身体を顧みず、シオンを抱いた。
冷静に考えればアシュレの判断は間違っていた。
人命に優先順位をつけるのなら、不死者であるシオンはどう考えても最後でなければならなかったはずだ。
あきらかな重傷を負ったアスカ、吹きつける木片の雪崩の最中に取り残されたイリス、すくなくとも彼女らふたりのうち、どちらかを助けるべきだったはずだ。
それなのにアシュレは、シオンのもとへ駆けつけてしまった。
危険を省みようともせず。
それは、残酷な選択だったか。
いや、そうではなかった。
アシュレはシオンを左腕に抱えた。
全身に《スピンドル》を通し、基礎筋力を上昇させていた。
異能:《インドミタブル・マイト》。
不屈の力、と訳される《スピンドル》の運用法だ。
シオン自身の体重の軽さも手伝って、軽々と持ち上がる。
降臨王:グランとの戦いを経て、アシュレの《スピンドル》能力者としての腕前は格段の上昇を見せていた。
そして、アシュレは、だれもが予想しえなかった突飛な行動に出た。
ぐんっ、と振り上げた拳に《スピンドル》が唸りを上げていた。
満身の力を込めて握りしめられたそれを、アシュレは叩きつける。
どこへ? 〈ローズ・アブソリュート〉へ。その柄へ。
どくん、と鼓動のような音がした。
それから劇的な現象が起こった。
爆発的な勢いで聖剣が荊の茂みに変じた。
奔流となって吹き出してきたそれが、本来の主ではないアシュレの拳を手袋ごとズタズタに引き裂いたが、アシュレは苦痛を《意志》でねじ伏せる。
たしかに、かつてシオンはその刃を荊の茂みに変じて、敵の目から〈ローズ・アブソリュート〉を匿い通したことがあった。
思えば、アシュレはその茂みに助けられ、シオンと仲間となったのだ。
アシュレは〈ローズ・アブソリュート〉の、その特性を引き出したのである。
なかば、賭けの――いや、勝算はあった。イリスだ。
彼女は、ただその気高さだけから、助けられるべき人選を指示したのではなかった。
眼鏡を模した知識の器:〈スペクタクルズ〉。
その膨大な閲覧資料から、この絶対の窮地を脱しうる術を、最後まで諦めず調べ続けていたのだ。
そして、あの一瞬のアイコンタクトで、それがアシュレに伝達された。
もしかしたら、イリスとアシュレの間に通された愛の呪いが、それを可能にしたのかもしれない。
その理解と、いまだアシュレ自身にも自覚されない――聖遺物や、それに匹敵する神器:《フォーカス》に手を触れただけ、あるいは目にしただけでその用法を、直感的に理解するという才能とが化学反応を起こしたのだ。
それは、ほんとうは古代を愛し、歴史的遺産を愛でる心優しき少年に授けられた――ささやかなギフトであるはずだった。
そのささやかな贈り物を戦場で、死地で振るわなければならない皮肉に、しかし、アシュレは拘泥しなかった。
爆発的な勢いで青い花弁をつけた荊の蔦が吹き出す。
それは飛散する木片を搦め捕り、繋ぎ止めた。
苦悶の声によって打ち据えられ崩壊する世界を繋ぎ止めるアンカーとして。
降り注ぐ巨大な船の残骸から、その庇護にあるべき者たちを守り通す傘となる。
聖遺物の化身であるその青い薔薇の茂みは、不可侵の防壁だった。
そして、アシュレはシオンを抱えたままその蔦の上を疾駆した。
意識があれば、あるいはシオンが夜魔でさえなければ、ひとり、駆け出していたかもしれない。
けれども、意識不明の夜魔の姫を〈ローズ・アブソリュート〉の荊の底に放置してなどいけなかった。
剣の姿をとっているときほどではなくとも、はっきりと人外に対する障害として、この荊は力を持っていた。
アシュレの《スピンドル》に呼応して吹き上がる荊の奔流のただなかに彼女を置いてはいけなかった。
たちまち両方の靴底がズタズタになった。
超人的な移動能力を授ける《ムーブメント・オブ・スイフトネス》のおかげで脈動する荊の上を疾駆することさえ可能だったが、あくまでそれはヒトひとりを支えるための能力だった。
シオンを抱えての疾走は、その限界を超えていた。
分厚い皮の靴底をやすやすと切り刻む荊の棘の鋭さは、まちがいなく〈ローズ・アブソリュート〉のそれだった。
だが、アシュレは臆さなかった。
まっすぐ、アスカの落下予想地点へと向かう。
直前に放った《アンタレス・フォール》の余韻が(技の発動シークエンスには使用者の防護措置が働くため)重力をやわらげるのか、はたまた、《トーメント・スクリーム》の余波が波のように打ちつけるせいか、そのときになってもまだアスカの身体は宙を舞っていた。
血混じりの吐瀉物が飛沫となって散り、鼻からも耳からも出血していた。
毛細血管が裂けたのだ。
アシュレは走った。力の限り。
そのさなか、残酷な試算に襲われた。
それは《スピンドル》によって強化された知覚能力か、あるいは戦士としての勘か、わからなかったが、ある決定的な事実に辿り着いてしまったのである。
間に合わない。
いや、間に合わせることはできるかもしれない。
だが、そのためには余分な荷を捨てなければならない。
具体的には、いま、左手に抱く夜魔の姫を。
振り抜かれる腕の質量と筋力と反作用が作り出す加速が足りない。
人間は脚だけで走るのではない。
全力疾走とは五体すべてを駆使した運動、そのポテンシャルの解放なのだ。
たとえ、どれだけ脚力を鍛えていても、最大加速を得るには上半身の、腕の振りが必要不可欠だった。
そのためには、いますぐに余分なバラストを切り離さなければならなかった。
つまり、シオンを。
できるわけがなかった。
「おおおおおおおおおおっ!!」
アシュレは咆哮した。
あるいはなんらかの技を――たとえば《クロスベイン・ファイアドレイクズ》のような――使い、強引に距離を詰めれば間に合ったかもしれない。
けれども、アシュレはすでに無手だった。
理性では、すでに万策尽きたことを理解していた。
過酷な運命に対して全力で抗ったのだと。
だれしもが認めるほどの行動を示したのだと。
だが、諦めることは許されなかった。
いや、自分を許さなかった。
倒れこむほど前傾になる。
両腕が引きちぎれてしまうのではないのかというほどの過負荷を感じた。
肺が軋み、全身の血管が拡張し浮き上がった。
アシュレの心肺機能と循環器系が酸素を肉体へと、恐ろしい速度で送り込んでいる証拠だった。
ついに荊の棘がブーツを貫ぬき、血がしぶいた。
それでもアシュレは脚を止めなかった。
激痛を肉体が感覚してしまえば、もう走れなくなる。
だから、アシュレは走った。
だが、アスカの落下が一瞬速い。
そのことがわかってしまった。
明晰過ぎる理性が憎い。
獣じみた慟哭が喉から迸った。
落着地点までの予測距離で、あと、たった、数メテル。
そのわずかな距離が絶望的に遠かった。
間に合いさえしたなら、我が身をクッションにして――《インドミタブル・マイト》で強化された筋力をバネに使って――それなのに。
運命は変えられないのか。
アシュレの心が踏み折られそうになった瞬間だった。
ひょう、とアシュレはツバメの幻を見た。
上昇気流? と心のどこかに風が吹くのを感じた。
そして、それが飛来した。
「ヤアアアアアアアアァァアア、Fuuuuuuuuuuuーッ!」
男が宙を舞っていた。
鳥の巣のような髪形で。
極彩色の外套の内張をはためかせて。
身につけたスケイルメイルの装甲はじつはすべて古代の金貨や宝飾品で。
また、バカみたいに楽しげな表情で。
ありえない飛行形式だった。
まるでブーメランのように身体が側転方向に曲がっている。
飛んでいる、というより打ち出された、というほうが正しいような飛び方だった。
超技と咆哮と衝撃によって霧のヴェールに穴が穿たれ、月が見えていた。
荊に変じた〈ローズ・アブソリュート〉の青い花と《アンタレス・フォール》の残滓が灯した炎が、下方からその姿を照らしていた。
アシュレはぽかん、と口を開けて立ちどまってしまった。
イズマである。
相変わらず常識の通用しない登場だった。
その非現実的飛行物体がアスカをキャッチし、そのまま墜落する。
状況が好転したのか、悪化したのかアシュレにはわからなかった。
とにかく、現状が、自分には手の届かぬところへ行ってしまったことだけは確かだった。
どういう異能なのか、説明すらなかった。
ぞんざいすぎる扱いだ。
慌てて落下地点を見た。
いた。
羊である。
まるでこのためについて来たのだと言わんばかりの様子で、ふたりを受け止めていた。
脚長羊の夢見心地の体毛が最高の救命道具であることはアシュレ自身、前回の体験からよくわかっていた。
イズマは目を回している。
すごいのか、おかしいのか、両方なのか、まったくわからなかった。
わからなかったのに、うれしすぎて、涙が出た。
まったく理解不能なところが、とてもイズマらしくて、そんな生き物が生きていてくれること、その生存を世界が許していることが、たまらなくうれしかった。
フラーマの顔が眼前にあった。
アシュレは無手で、火の回りはじめた浮島に茂るこの世ならざる荊の上に立ち、その女神と相対していた。
もし、この孤独な女神に自分と同じように仲間がいてくれたなら、こうはならなかっただろうに、となかば確信じみた思いが込み上げた。
考えてみれば、おかしな話だ。
それはフラーマの落し仔たちのことだ。
フラーマと結ばれ同一化することで「すでに救われている」はずなのに、やつらはどうして「他者を救済しようとする」のだろう。
それは「他者が救済を求めているから」だろうか?
いいや、ちがう、とアシュレは思う。
それは落し仔たちが「ほんとうは救われてなどいないから」に違いない。
だれかを救い続けなければ、救いと称して同化吸収しつづけなければ「自分を騙せないから」だ。
「自分たちは救われたのだ」と。
だから「こんどは救う側になったのだ」と。
あまりにひどい欺瞞だった。
そこには「救うべき自分」がなかった。
すべて他人事、絵空事、丸投げの、たらいまわし。
「自分を救う自分」の存在が決定的に欠けていた。
だれもかれもが押しつけたのだ。
彼女に、フラーマに、その「救い続けてくれるもの」の役割を。
腹立たしかった。
人々に対してではない。
人々を《そうする》力に対してだ。
眼前で、フラーマが泣いている。
素顔を、無残な傷を両手で覆い隠し、血の涙を流していた。
このひとを救いたい、とアシュレは痛切に感じた。
無責任すぎる人々の《ねがい》を断ち切り、ひとりの人間に戻してあげたい。
そう心から思った。
まっすぐ、相対した。
アシュレは、だから気づきさえしなかった。
抱きかかえられたままのシオンが、夢うつつのまま、そのひたむきな瞳に魅入られていたのを。
「あなたを、助ける」
伝説から、神話から、人々の《ねがう》物語から、その呪的回路――呪縛から。
アシュレはちいさく、しかし、はっきりと宣言した。
誓い、といってよい真摯さで。
奇しくもそれは、同胞を救う、というシオン自身の誓いと同じものだった。
その腕のなかで、誓いを立てる騎士を見上げながら、ああ、とシオンは思う。
この男を、わたしのものに留め置くことなど、わたしにはできはしない、と。
この男を束縛して、独占することは、あってはならないと。
ただ……わたしは、もう、どうしようもなく、この男のものなのだと。
そして、アシュレの誓いに応えるように、仲間の最後のひとりが戦場に降り立った。
金色の爪牙を振動させ、龍の咆哮にも似た唸りを上げてながら。
「土は土に、灰は灰に、塵は塵に――フラーマよ、断ち切ろう、その苦悶に満ちた生を」
ノーマン・バージェスト・ハーヴェイ。
カテル病院騎士団が誇る、筆頭騎士。
「重荷を下ろすときがきたのだ。あなたは、もう、充分すぎるほど救った。こんどはあなたが救われる番だ。その役目、我らが引き受けよう」




