■第六夜:どうか想いだけは
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「あ、あのだな。その……昨夜のことはどうか皆には……内密に頼む」
翌朝、飛翔艇の指揮所に座して、レーヴは言った。
昨夜、湖水にゆっくりと揺れる飛翔艇のなか、その居室のひとつでアシュレと肌を重ねながらレーヴはすべてを打ち明けてくれた。
アシュレと契りを結ぶことになってしまった顛末を。
あのとき──満身創痍のアシュレたちの戦隊がこの空中庭園に辿り着いたとき、《魂》の顕現とその代償によって衰弱したアシュレを助けることができたのは、実際にはレーヴだけだった。
思い起こしてみれば当然だった。
比較的にしても余力を残していたノーマンとバートンは戦隊全体の安全と食料や燃料、宿泊施設の確保に動いていた。
なにしろ、この空中庭園はアガンティリス期の遺跡なのだ。
それがいまだに機能し続け、空を飛び続けている。
そこに脅威、つまり強大な敵が存在しないと誰が言い切れるだろう。
時間の流れを生き延びた強力な太古の生物や、侵入者を自動的に排除する防衛装置の類いがこちらを発見した場合、アシュレが回復するより以前に、疲れきった戦隊は全滅の憂き目を見ることになる。
そしてことのとき、イズマもまた消耗で倒れていた。
当然のように、その治療と回復に土蜘蛛の姫巫女姉妹はつきっきりだったのだ。
アスカとアテルイも、上陸し安全を確認したあとで気を失った。
あたりまえだが、ふたりの疲労困憊の度合いも想像を絶するものだった。
アスカは蛇の巫女:シドレを相手取っての大立ち回りの後、不死の騎士:ガリューシンとの死闘を経てのこと。
アテルイに至っては、ガリューシンの手に落ちた後、筆舌に尽くしがたい拷問と玩弄を休む間もなく加えられ続けていたのだ。
魔導書:ビブロ・ヴァレリと融合することになったスノウに関しては、言うまでもない。
急激な肉体と心の変化が人間に課する負荷は、言葉などではとうてい言い表すことなどできない。
だとすれば、戦隊内でアシュレの危地に対して、あのとき力になることができた人間は、ふたりしか残されていなかったことになる。
すなわちシオンとレーヴのふたりだけ。
だが、シオンはアシュレが支払うことになった《魂》の代償を出来る限り肩代わりするので精一杯だっただろう。
なにしろ、アシュレの胸の奥に息づく心臓は、同時にシオンのものでもあるのだ。
シオン自身が限界を迎えてしまっては、こんどはそもそも生命体としてのアシュレが維持できなくなる。
存在の消滅よりはマシかもしれないが、人間の《ちから》では死は覆せない。
永遠の別れといういう意味では大差はなかった。
だから託したのだ。
シオンは。
レーヴに。
アシュレを飲み込みにかかる虚構から、自分たちの騎士を護って欲しいと。
その頼みをレーヴは引き受けた。
あるいは……提案したのは──レーヴからだったかもしれない。
いまとなってはもう、どちらが先だろうと、どうでもよいことだが。
結果として、レーヴは三日三晩、その全身全霊を持ってアシュレダウという男を繋ぎ止め、生かすための供犠として己を捧げた。
真騎士の乙女としての誇りも、女性としての尊厳も……そして、愛も。
すべて。
そして、レーヴは自らのその行いを、アシュレやシオンの窮地につけ込んだ非道であると規定していたらしい。
「卑劣なことをした。卑劣な手で、わたしはキミの歓心を買おうとした。これはどれだけ謝ってもゆるされないことだ」
昨夜、肉体を重ねながら誤解を解いたはずなのに、レーヴは納得できないようで、まだその話題を蒸し返す。
恥じ入るレーヴの姿に、このヒトは本当に気高い存在なのだと、アシュレは改めて確信した。
いや、本来的には真騎士の乙女たちは皆、本当に心を捧げた相手以外との交わり、すなわち不義を蛇蝎のごとく憎むものなのだ。
オズマドラ帝国での一件は、妹への愛とそれを奪った男への憎悪に目がくらんだ黒翼のオディールが異常・異質だったというだけのことだ。
「レーヴ。ほんとにありがとう。キミがいなければ、ボクはもうこの世にいなかった。改めて礼を言わせてくれ」
真騎士の乙女の右手を取って口づければ、その指先はみるみるうちに朱に染まり、紅潮はついに頭頂にまで達した。
「と、とにかく、そのなんだ。あの三日間は、特例であるからシオン殿下も許してくださったわけで。わ、わたしはその、正式な手続きを踏んでキミのものになれたわけではない!」
真面目くさって厳しい表情を作ったレーヴは言い張った。
「えっ。でも、それじゃあ、昨夜は……」
「わー、わー、いうな、思い出させるな! あああ、あれは、あんまりにもキミが、キミのことが、キミのことしか考えられなくなって──」
わあああああ、と頭を抱えてのたうち回りはじめたレーヴをアシュレは呆然と見つめた。
それから、思わず噴き出してしまった。
「な、なにがおかしいッ?!」
「いや、ほんとにきみは、おもしろいなって」
「な、なにがおもしろいというんだ。わ、わたしは協定に違反した。シオン殿下がキミとの契約を許してくれたのは、それがキミという存在の存続に深く関係していたがためだ。戦隊そのものがキミの存在を必要としていた、つまり公益のための必要に迫られた、緊急措置であったからで、こういう個人的なすなわち私心からの情欲……とか、肉欲とか……恋愛感情は……」
「たぶん、そのへん全部を含めて、シオンは許してくれたような気がするんだけど。それはいくらなんでもボクの驕りが過ぎるかもしれない、な」
苦悩するレーヴの隣りに腰掛けて、アシュレはつぶやいた。
能天気過ぎるアシュレの意見に一瞬呆然としていたレーヴだが、すぐまた頭を抱えた。
「そんなわけ、そんなわけない。あるわけないじゃないか。どこの姫君が愛する騎士さまをほかの女と共有するなんて破廉恥を許容できるものか! やってしまった、わたしは、なんてことを! 信頼に対する裏切りだッ!」
「アハアハ」
「なにがおかしいッ!」
別にアシュレだってバカみたいな笑い方を、したくてしたわけではない。
独りごとのつもりだったのだろうレーヴの言葉が、クロスボウ隊百名による一斉射撃に感じられただけだ。
「レーヴ、あのさ。たぶんなんだけど……きみは思い詰めすぎだと思う」
「思い詰めすぎ?! それはどういう意味だ、アシュレダウ。ことと次第によっては、いくらキミであっても許さないぞ!」
「いや、そのだから……ええとこれはどう説明したらいいんだ」
「キミ、アシュレダウ、もしかして、わたしを慰めようとしてくれているのか」
「あー、ある意味ではそうかな」
複雑にこんがらがったボクの女性関係について、この清廉潔白を絵に描いたようなお嬢さんにどう説明したものか。
アシュレは寝起きの頭で一生懸命考えてみたが、どうにも妙案が浮かばなかった。
どうやらレーヴは、シオンとアシュレがすでに切り離せぬ運命共同体であることまでは理解してくれているらしい。
それはありがたいことだ。
しかし、アテルイやアスカ、それからスノウとの関係性については……たぶん、ほとんど知らないだろう。
もしかしてこれは情報の出し方やタイミングを誤ると、激昂した真騎士の乙女に殺されるヤツではないのか?
ともかくアシュレはシオンにことの詳細を確認するまでは、うかつに深い話に持っていかないほうが良いだろうと確信した。
「とにかく、シオンは昨夜の話を聞いてもキミを罵ったり怒ったりはしない。ボクに対して怒ることはあるかもしれないけど──それはボクの責任だし当然だから、しかたがない」
「そ、それはどういう……どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。ボクを助けるためにキミは自分自身を捧げてくれた。必要に駆られてのことだった、とキミは言うけど……その前にこうも言った」
アシュレは狼狽えるレーヴを見つめて伝えた。
「真騎士の乙女が誰にでもこんなことをすると思うなよ、って」
アシュレの言葉は静かだったが、だからこそ響いた。
真騎士の乙女は、深く息を吸いこんだ。
言葉は、ない。
「同じ言葉をシオンにも言ったんじゃないのかな、キミは、レーヴ。ボクが虚構に食われかけたとき。ボクを助けようと決意してくれたとき」
彼以外のためにこんな提案をするとは思わないでくれ、って。
アシュレは問いかけるようにつぶやいた。
レーヴの瞳がアシュレをまっすぐに捉えた。
ちいさく、しかし確かに頷く。
「言った。たしかに」
「誰にでもこんなことをするわけではない、と?」
「彼のためにだけしかしない、と」
レーヴの断言に、アシュレはちいさく微笑んだ。
その言葉を受けたシオンが許したのなら、それはもうレーヴのすべてを許したのだ。
「なら、大丈夫だ。ありがとう」
こんどは自分から言い切って、アシュレは笑みを広げた。
いっぽうのレーヴは複雑な、厳しい表情のままだ。
「どういう信頼関係なんだ、シオン殿下とアシュレ、キミたちの間柄というのは……」
「もう何度も、ボクらはそうやって死地を潜り抜けてきたってだけさ。正統であるとか、正解であるとか、正しい手続きに基づいているとか……道徳的で模範的で倫理的であるって言葉を超えて──なんとか、ここまで来たんだよ」
いささか概念的過ぎるアシュレの説明に、レーヴは眉根を寄せて困惑を示した。
すぐにはわからないだろうなあ、とアシュレは溜め息をつく。
なにしろボクだって、どうして許してもらえているのかわからないんだから。
「と、ともかく、今夜のことは皆には黙っておいて欲しい。その……シオン殿下にはいまから、わたし自身で説明しに行くから」
「レーヴ、それは……」
「いや、行かせてくれ。あの日、すべてを信じて委ねてくれたシオン殿下を裏切ることはできない。その上で……その、なんていうか……わ、わたしの全部がすでにキミのものなんだということだけは憶えていて欲しい」
意を決した様子で立ち上がるレーヴをアシュレは押しとどめようとした。
けれども、恋する真騎士の乙女はあまりに一途だった。
いや、一途というよりそれはもうまっしぐらに恋路に向かって突撃する猪そのものであった。
「わたしは本来、キミのかたわらに侍ることは許されない者だ。その資格がない。だけど、その、あの……どうかキミのことを想うことだけは許して欲しい。アシュレダウ、後生だ」
一息にそう言うがはやいか、レーヴは光の翼を展開して矢のように飛んでいってしまった。
アシュレがすがりつくヒマもない。
おいてけぼりを喰らったアシュレは、呆然とそのあとを見送るしかなかった。
伸ばした手が空を切り、そのままぱたり、と甲板に倒れ込む。
「昨夜、ボクが宴から抜け出せたの……さてはアレ、みんなしてレーヴとふたりきりになれるよう仕向けてくれていたんじゃないかなあ」
いまあらためて思い返すと、アスカやアテルイの態度にも、なんだかそんな空気があった気がするアシュレだ。
レーヴの去ってしまった甲板に座り込み、手すりにもたれて、ひとり呟いた。
払暁の時間が終わろうとしている。
星々は闇のヴェールの向こうに去り、太陽の時間が始まろうとしている。
伝説を信じるならアガンティリスの空中庭園は、世界中のあらゆる山嶺よりもはるか上空に位置しているという。
それゆえ、世界のどこよりも早く朝日を浴びることになるともいう。
ではこれが、今日、人類が見る最初の朝日ということになるのか。
鮮やかな陽の光に射られて、アシュレは瞳を細めた。
脱出に使った小型飛翔艇の船体には、大小の傷跡がいくつも残されている。
この空中庭園に辿り着くとき、周囲に張られた嵐の結界を抜ける際につけられたものだ。
《フォーカス》である飛翔艇にこれほどの損傷を与えるということは、やはりあの強烈な嵐は普通のものではなかったのだ。
その傷跡が朝日に射られ、乱反射を起こして様々な角度からアシュレの顔を照らす。
強い輝きから逃れるように視界を巡らせると、湖岸に釣り竿を担いだイズマが現れるところだった。
釣り糸を垂れているイズマは、こちらには気がついた様子もない。
危ないところだった、となぜかアシュレは胸をなで下ろす。
レーヴとふたりきりでいるところを目撃されていたら、またなにかややこしい事件に発展しそうだったからだ。
しばらく眺めていると、大物がかかったようでイズマは狂ったダンスのように、しなる竿と格闘しはじめた。
「あはは」
その姿のあまりの滑稽さに、アシュレの口からは笑いが漏れる。
思わず手を振ろうかと思った瞬間だった。
アシュレは奇妙な振動を、船の下から感じた。
それでも、いつものアシュレであれば、たぶん、手を振り声をかけるくらいはしただろう。
直後、鏡のように凪いだ湖面を断ち割って巨大な……八メテルは優にあるだろう凶悪なシルエットが宙を舞ったりしなければ。




