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■第十六夜:坩堝の主


「解けない呪いはない。というか、解けない呪式は組めない、てーのが正しいか」

 呪式は数式に構造がそっくりなんだ、とイズマは自身の理解を広げた羊皮紙にペンを滑らせながらレクチャした。


「呪いってのはさ、だいたいにおいて、相手をできるだけ長く苦しめることに第一義があってね。相手がすぐ死んじゃうような呪いって、強力だけど程度の低い呪法なんだよ」

 殺したいだけなら、そんなの剣で刺しゃ済む話じゃん。

 それなのにわざわざ呪いを使って殺すだなんて、おつむの程度が知れるよ。

 イズマは溜息をついてそう言った。ナンセンスだ、と。


「数式の一部が隠されていて、でも答えは出ている。あとは隠された部分になにを代入するか、ってのが呪いとその解法の基礎構造ストラクチャーでさ。

 x+y=zってこれね。yが不明だったり、xがそうだったり、間の学術記号がそうだったり、ときにはzがそうだったりと、いろいろあるけど、基本はコレ。

 カードとかで一部を隠すと分かりやすいよね。


 答えの部分が呪いの効果。

 すでにあきらかな数式が、かけられた手順。

 見えてない部分が呪いを解く鍵だ。


 ようするに代入する数字や計算記号がドンピシャなら、解けるようにしか作れないのよ。

 まあ、これはほんとに簡単な例示だから、ほんとは、もちょっと複雑なんだけどさ」


 そんでまあ、普通のレベルの呪いはだね、とイズマが真剣な顔をした。

 ふむふむ、とイリスはメモを取りながら身を乗り出す。

 豊かな胸が腕と机の間で潰れてカタチが見えていることに気がつきもせず。


「この代入すべき数が不明なんだ」

 だから、解くのに四苦八苦する。

 その間にも呪いは効果をあげ続ける。わかる? 

 イズマは言う。

 イリスは頷く。

 イズマの視線はイリスの特定の部分に釘付けだ。

 そんで、上級の呪いってーのはだね、とイズマは指を振り立てた。


「ぜんぶ、ぜーんぶ明らかなのさ。式も、答えも、呪いの効果も、解法も!」

 ずびし、と指でイリスの胸を突くふりをして、そのやわらかな球体に指を突き込む。

 イリスはイズマの話術に釣り込まれて、いま行われたハラスメント行為を流してしまう。


「ど、どういうことでしょう、教授」

「わからないかね? つまりはこういうことさ『呪いを解こうとすることこそが、最大の苦痛を与える呪式』。それこそが上級者の呪いなのだ、と言っているのだよ」

 イズマは再度、イリスの胸を突いた。

 核心を突くように。


「呪いを解くことはできるけれど、解くために必要な品や行為を、呪われた対象が使いたくない、行いたくない、ってものに指定してあるものなんだ」

 呪いの効果で苦しめ、解法でも苦しめる。

 場合によっては解法を実行する過程が対象の人格や尊厳そんげん、地位や名誉を著しく傷つける。

 それが上級者の呪いなのさ。


「解き方がわかっているのに解くことができない。その狭間で相手を苦しめる……アンビヴァレンツ」

 すごい、とイリスはイズマの手を握りしめる。

 わかりやすい、と絶賛した。

 イズマは、にやけないようにするので必死だ。

 手が胸に挟まれていた。

 イズマは知らないが、これはかつてのアルマの癖だったのである。

 アシュレは男子として、騎士として、なんどもこの誘惑を断ち切ってきたのだ。スゴイ。


挿絵(By みてみん)


「だ、だれか、呪う予定があんの?」

 レクチャ、しちゃおか? 個人的に。

 イズマが鼻の下を伸ばして言った。

「だれかに聞かれると危ないから、ボクちんの部屋で、内密に」

「あっ、いえいえ、そんなんじゃありませんから」

 イリスは慌てて手を離した。


 その話からイリスは自身がアシュレにかけてしまった呪式に、あたりをつけた。

 そして、そうかからず解法を見出した。

 それから、絶望した。


 すくなくともイリスに限って言えば、解きようがなかったからだ。


「愛の放棄」

 それが解法の鍵だった。つまり、相手への愛が冷めれば呪いは弱まり、ついには自動的に解呪される。


 できるはずがなかった。


 ともに過ごす日々が重なり、事情を知れば知るほど、イリスはアシュレへの想いが増してゆくのを痛感した。

 呪いは日ごとに猛威を振るうようになる。

 なにより、アシュレが呪いを解けないでいる理由に思い当たってからは——つまり、イリスを好いていてくれている事実を知ってしまってからは——なおさらだった。


 だから、シオンと彼女にかかった呪いについては、ごく軽度のものだろうと踏んでいたのだ。

 むしろ大きな要因は、夜魔特有の記憶の完全さに起因するのではないかと思われた。

 たしかに、シオンは毎日のようにアシュレと顔をあわせ、身近で話していても、いっこうにそのような素振りを見せない。

 鋭い棘で護られた孤高の青きバラのように。


 それはこう読み取ることもできた——アシュレへの想いなど口先だけのものではないのかと。

 しょせんは長命種・夜魔の姫の戯れなのではないのかと。

 イリスなど意識して距離をおいているというのに。

 それでも耐えきれないのに。


 だが、違ったのだとイリスは、いま理解した。

 シオンは、この健気な夜魔の姫は、意志の力で襲いくる呪いに必死に耐えていたのだ。

 ずっと。


「だめだっ、アシュレ、いまは、いまはだめっ、だから、さわってはならんと、首筋を撫でるなッ!」

 這いつくばり呪いに耐えるシオンの姿は、イリスの胸に迫った。

 人間の女から見れば――老いず衰えず、もっとも美しい瞬間をとどめ続ける――嫉妬と羨望の塊のような存在である夜魔の姫が、その実、どんなにアシュレを慕い焦がれていたか、イリスは本当の意味で、ようやく知ったのだ。


「シオン、落ち着いて、リンクをッ、リンクを切ってッ!」

「それがっ……切れんッ!、切れんのだ。なぜだ!」

 イリスにはその理由が手に取るようにわかった。

 シオンの心の表層と深層に大きなズレがあるからだと。

 もっと直截な物言いをするなら、アシュレへの愛に翻弄ほんろうされ困窮こんきゅうするシオンは、ただのうわっつら、ジェスチャーに過ぎず——本心では離れたくないからだと。


 アシュレの腕のなかに飛び込んでいきたい。

 それがシオンの本心だからなのだと。


 だが、そのことを訳知りに伝えたところで、この誇り高い姫を傷つけるだけで、なんの解決にもならない。

 そのことをイリスは分別していた。

 自分がそうであるから、なおさらだった。


 ちゃぷり、と水音がしたのはその時だった。

 イリスは弾かれるように振り返り、全身が総毛立つのを感じた。


 それを『目』と呼ぶことは、はばかられる気がした。

 あのフラーマ像だった。ただし、デザインが異なる。

 祈りの姿ではなく、膨らんだ下腹を抱える母の像。

 その下腹が瞳だった。

 下腹には大ぶりなクリスタルがはめ込まれ、クリスタルは虹彩のごとき模様を内部に射込まれている。

 フラーマの像は錫杖の一部であった。

 認めたくなくとも、それは『目』であった。


 そうして——その錫杖が、浮島に開いたいくつもの穴、海中へと続く裂け目からのぞいている。

 イリスは錫杖を支える青白い腕を見た。

 そして、『目』を見た。

 吹きつける深い霧の奥で、それら『目』がふたりを視ていた。

 ちゃぷり、とまた水音がした。


挿絵(By みてみん)


 シオンッ、とイリスは叫んだ。

 窮地だった。気がつけばとり囲まれている。一匹や二匹ではない。

 気がつけば、周囲の水面、島の破れ目のそこここから、『目』がのぞいている。

 錫杖に『目』をいただくそれらは、これまでの敵とは狡猾こうかつさ、いやらしさという意味で格が違った。

 たとえるなら、それまで相手取っていたフラーマの落し仔たちは、ただの信徒たちであり、『目』の持ち主は司教とでもいうべき存在だったのである。

 イリスにはわからないことだったが、全部で十二体しか存在しない精鋭にしてフラーマ直属の尖兵であったのだ。


 司教たちはフラーマの『目』であり、同時に『手』、あるいは『口』、さらには『舌』でさえあった。

 目鼻どころか手足の有無さえ定かならぬ、まるで臓腑そのもののような風貌でありながら、統一された意志を持ち、一糸乱れぬ連携でふたりに迫った。

 血の気の感じられない真っ白な肌の上を青い静脈が這っている。

 怖気のくるような生物だった。

 ただ錫杖と、それを保持する腕だけでできているような存在だったのである。


 イリスが身につけた〈スペクタクルズ〉に表示される情報が正しいのだとすれば、このフラーマの司教たちは病や害毒に冒されず、ただの鋼は受けつけない。

 またフラーマとともに永劫の存在であるというのだ。

 決定的な破滅——たとえば聖遺物による征伐せいばつを受けるまでは。


 これが死を超越したものの姿、今生のあらゆる業苦から逃れたものの姿だというのなら、イリスはそんなもの永久にご免こうむると思う。


 しかし、包囲は確実に狭まり、ふたりは追い込まれていった。

 シオンは、ほとんど動けない。

 愛という名の禁断の媚薬に冒され、前後不覚だった。

 現状を把握できないのだ。


 無論、イリスもむざむざと接近を許したわけではない。

 フラーマの司教たちのいいようにさせるつもりなど毛頭なかった。


 思いきりよく、足下に転がる〈ローズ・アブソリュート〉に飛びついた。

 夜魔であるシオンには専用の防具:〈ハンズ・オブ・グローリー〉を介さねば触れることさえできない猛毒でも、人類であるイリスは躊躇なく握ることができるはずだった。


 覚醒したばかりだとはいえ、これでも《スピンドル》能力者のはしくれだという思いが、イリスにはあった。

 これまで自分を護り、それどころか自身を襲い続ける呪いの元凶であるイリスを責めるどころか対等な立場の——恋の好敵手として認めてくれた夜魔の姫に恩を返すときが来たのだと奮い立った。


 長い大剣の柄を握りしめ、全身のバネを使って横薙ぎに振う。

 技を発動せずともイクス教圏最強格の聖遺物である〈ローズ・アブソリュート〉であれば、あらゆる魔物に致命傷を与えることが可能なはずだった。


 一瞬の後、イリスは肩が抜けるのではないかというほどの衝撃を味わった。

 遅れて、両の手から血が噴いた。

 数秒して、やっと痛みが。

 剣は微動だにしなかった。


 かみそりでできた柄を掴んで思いきり振ってしまった、そんな状態に掌が裂けていた。

 深い傷が何重にも走り、皮が剥け返っている。

 指が落ちていなかったのが不思議なくらいだった。

 聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉は、はっきりとイリスを拒絶していた。

 文字通り、バラには棘があったのだ。


 ああっ、ああああっ、と声が漏れた。

 罰だ、とイリスは思った。

 なんの代価も支払わず罪をあがなえると慢心まんしんした自分への罰なのだと。

 うずくまり苦痛にのたうった。

 抑えようとしても嗚咽おえつと涙が、次々とこぼれ落ちる。


 そしてフラーマの司教たちは、この機を逃したりはしなかった。


 イリスたちはあっという間に捕らえられた。

 せめてシオンだけでも逃したいというイリスの願いは、あっさりと踏みにじられた。

 アシュレの愛と感触に翻弄される夜魔の姫は、さしたる抵抗もできず捕縛された。


 それから先に起きたことは、ひとことで言うなら恥辱の極みだった。


 フラーマの信徒たちは、それが最底辺の落し仔たちであろうと、上位格の司教たちであろうと体組織を自由に融合し、都合してそのつどつどで最適なカタチに自身を編み上げなおすことができるようだった。

 イリスは毛糸で作られるあみぐるみを連想した。


 ばらしてしまえば同じ一本の毛糸が、編み手の技と意図によってさまざまなカタチに組み変わる。

 二本、あるいは幾本かの糸を混ぜ合わせればいくらでも好きな色味、模様を作り上げられる。

 母親が娘に手芸を習わせるとき、刺繍ししゅうと同様に、一番はじめに教える手慰みの技だった。


 ただし、それを生物同士で行うことの是非については、吐き気をもよおすほどの嫌悪感をイリスは感じた。


 なぜなら、イリス自身も、このようにしてふたり分の人格で編み上げなおされた存在だったからだ。

 自分もまた同じく、吐き気をもよお唾棄だきされるべき存在なのだと、イリスは自覚してしまった。

 不意にアシュレへの申し訳なさで、胸が潰れそうになる。


 そして、フラーマの司教たちは、イリスのそんな心の傷につけ込んできた。


 外部から客観的な視点を持って観察するならば、編み上げなおされた司教たちの姿は生物の掌、あるいは天に向けて触手を這わす頭足類かヒトデの類いのように見えた。

 ぬらぬらと全身から吹き出る体液は、温められたミルクそっくりの匂いがする。


 フラーマの司教たちは六体ずつが一組となり、都合二体の『手』に自らを編み上げなおした。

 六体分の質量を持つふたつの掌に、イリスとシオンはひとりずつ捕われ、玩弄がんろうされた。


 おぞましさで気が狂いそうになったのは、だが、最初のうちだけだった。


 着衣を破り取られ無防備になった身体にフラーマの手が襲いかかった。

 それは『手』であり、さきほどイリスが見抜いたように『舌』でもあった。

 際限なく玩味がんみされた。

 味見するようにそれらが肌を這うたび、イリスは自分の正気が壊されていくように感じた。


 イリスとシオンのありさまは、ちょうどつぼみに包まれた花芯だった。

 ただ、異なっていたのは本来、花芯を護るべく働く花弁たちが、食虫植物に捕らえられた蝶のごとき彼女らに牙をいているということである。


 熱い、とイリスは手の内部でもだえることしかできない。


 そして、実際、フラーマの手は外部化された臓器(心を蕩かす特殊な消化器官?)であり、その青白い外観からは想像できない熱を持っていたのである。


 不意に吹きつけられる体液は、火傷を起こさないギリギリの温度まで高められていた。

 暴れたりもがいたりすると、抵抗への懲罰ちょうばつのようにそれは吹きつけられる。

 もちろん、イリスが脱力して抵抗できなくなるのを確認したあとでも、不意打ちで、より陰湿なやりかたで体液は注がれた。


 襲われるふたりの姫君たちに知るよしもないことだが、これは一種の人体・人格改造器官だったのだ。

 これを《炉》――そう言い換えてもいいかもしれない。

 フラーマの手たちの吐き出す体液は、高濃度の《ねがい》を含んだ触媒であり、肌から浸潤しんじゅんし、それにより犠牲者の身も心も改変しようという、おぞましい器官だったのである。


 慈愛の女神:フラーマの新たな姫巫女として、ふたりの美姫を仕立て上げようという企てだったのだ。


 ただ、かつてグランが《フォーカス》:〈デクストラス〉をもってそうしたように高純度の《ねがい》を直に撃ち込む術はなく、かわりに触媒である体液を介し改変を迫る――時間をかけた儀式が必要なのだった。


 自らを改変するべく注がれるその熱さのなかで、イリスは幻覚を断続的に視る。


 これがフラーマによる攻撃なのだとイリスは理解した。

 強固な意志を持つ《スピンドル》能力者を、自らの眷族に堕とすための。


 ただの人間に比べて格段に強い自我境界面を持つ《スピンドル》の使い手たち——なぜなら《スピンドル》とは確固たる《意志》の発現だから——を籠絡するための手管なのだと。

 感覚器としての肉体を嬲りながら、同時に心の間隙に潜り込み自我境界面を蕩かし《意志》を放棄させる試みなのだと。


 だが、わかってはいても、どうしようもなかった。

 己の非力さに涙が出た。


 状況はシオンのほうが悪かった。

 夜魔はあらゆる状態異常に対して強力な耐性を持つ種族だ。

 病、毒は言うには及ばす、精神に作用する系統の異能にも極端に強い抵抗力を示す。

 それは種に練りつけられた永遠生の呪いが、精神の変化に対してさえ働くからだ。


 だから、この手の攻撃は夜魔にはかかりにくいか、上位種であるならば完全に無効化されることのほうが多い。

 たとえ、相手が廃れたりとはいえ、神であろうとも、だ。

 伝説が確かなことを伝えているのなら、最上級の夜魔は地方の亜神程度ならば、一騎打ちでも互角以上に渡り合える強大な存在なのだ。


 そして、シオンはその夜魔の真祖のひとり、スカルベリの直系だった。


 だが、今回ばかりは事情が異なった。

 フラーマはイリスによってかけられた愛の呪いを、シオン籠絡ろうらくの足がかりに使った。

 こう言い換えてもいい。

 アシュレに対するシオンの愛の深さ、また、その想い人の体温と匂いを触媒に使ったのだと。


 界面活性剤。

 水と油、決して混ざりあわぬはずのふたつの液体の境界面に、石鹸を投げ入れた時に起こる現象を思い起こせばいいのか。


 すでに心に深く根を張った呪いを回路として利用されたなら、そして、そこへの接触を許してしまったなら、いかな上位の夜魔といえど、抵抗など望めないのだとイリスは思い知らされた。

 ちょうど岩山に落ちた雷がクラックを走っていくように、それは通り道を得て、走っていく。深奥へと。心の。


 いや、これこそは古来より人類が超常の存在を調伏するために編み出した技法でもあったのだ。

 自然災害としか思えぬほどの力に対し、名づけ、物語り、まつることで、神話的回路を練りつけ、それを足がかりに攻略、あるいは自らの宗教に取り込んでいく。

 この才能がゆえに、人類は他の強力な種族を圧して地上世界の覇者となりえたのだ。

 あらゆる事象を己と結びつけ、己という存在の根拠へと変えていく。

 それはこう言い換えてもいいかもしれない。

 その対象へと《ねがい》を練りつけていく過程だ、と。


 つまり、想像力——共感する力、によって。


 その手練手管が逆用されていた。

 そして、と朦朧もうろうとした意識のなかでイリスは仮定に辿り着いている。

 もしかしたら、これはフラーマ自身がその身を持って受けた仕打ちの、その再演ではないのか、と。


 こうして仕立て上げられ、貶められた、という過去の。

 神話に語られた遠いむかしの。


 無数の《ねがい》を注がれて。



         ※



 シオンは夢に囚われている——。


 夜魔の見る夢と、いわゆる人類のそれは決定的に異なる。

 完全記憶――その種族特性を備える夜魔という種族にとって、記憶や感情の処理装置としての夢の機能には、ほとんど意味がない。

 人類が目の前のワイングラスをその手に捕らえるのと同じ感覚で、夜魔たちは己の記憶に手を伸ばし、注がれた葡萄酒を飲み干すように再生することができるからだ。


 そして、その再現精度も制御も、上位種となるほど巧みになる。

 耽溺たんできしようと決意さえすれば、自分主演の、自分好みの演目を、好きなだけ楽しみながら微睡まどろんでいられる。

 血の渇きに起されるまで。


 ただ、それはまた、長い年月を生きた夜魔の多くが狂的になってゆく原因でもあった。

 現実と同じ精度、感覚を伴って再現される過去は、もはや現実と変わらない。

 だから多くの夜魔が、やがて現実と夢との境を見失ってゆくのだ。


 それがよい記憶であればあるほど、その揺籃ようらんの誘惑に抗うことは困難になる。

 春に暁をおぼえられぬように。

 秋の午睡シエスタに落ちるように。


 ゆえに、シオンは自らの血脈が穿うがつ深い塹壕ざんごうのごとき墓穴に足をすくわれぬよう、厳にこれを戒めてきた。

 思い出に拘泥こうでいするだけに止まらず――逃げ込むことを。


 だが、あの日、オーバーロードと成り果てた降臨王:グランの墓所での一夜以来、どんなに拒んでも、眠りに落ちるたび、あの記憶がシオンのなかに、忍び込んでくようになった。


 それは、アシュレとの初めての逢瀬おうせの記憶だ。


 グランとその孫娘:アルマステラによって飽和量の《ねがい》を聖遺物:〈デクストラス〉を媒介とし撃ち込まれたアシュレを救うべく、シオンはその身を挺した。

 尊厳を代価として、すべてを受け止めた。


 恐怖がなかったかといえば嘘になる。


 シオンだってすべてが初めてだったのだ。

 恐ろしくて合わなくなる歯の根を、必死に食いしばった。

 夜魔は記憶を忘れるということができない。

 だから、その身に振われた暴虐の傷は、いつまでも記憶として残る。

 手負いの獣のように《ねがい》に追い詰められたアシュレは、シオンを押し倒した。


 乱暴に組み敷かれた。

 すべてを受け入れる、と覚悟したのに本能的な怯えに身がすくんだ。

 そのシオンの腕を、膝を、《ねがい》に操られたアシュレが恐ろしい力で押さえつけ、こじ開けた。


 そうして、あらわになったシオンを貪るように口にした。

 尊厳を引きむしられ、秘密を暴き立てられ、強く幾度も刻印された。


 だが、真にシオンを追い詰めたのは、痛みではなかった。


 上流階級の結婚とはすなわち政略を意味し、また、そうであるからには男女の寝室での営みも重要な調略ちょうりゃくの舞台であったのが、この時代の現実だ。


 表向き、いかに妻の尻に敷かれているように見えても、寝室で、ベッドの上で女に言うことを聞かせられるかどうかが、夫として、支配者の力量のうちに明確に含まれていた時代なのだ。

 妻さえ思いのままにできぬ者に、為政者たる資格などない。

 そう考えられていた。


 国家に真の友人はいない。

 民衆と為政者の関係も同じ。

 そして国王が統治すべき、最初の国民は妻であった。

 それゆえ、その機微、手管に通じることは為政者の義務・器量だと当然のように考えられていた。


 残酷だが、しかたがない。現実だからだ。


 アシュレはその意味で、年若いながら充分に貴族流の作法を学んだ男だった。

 生前、ユーニスがその身を文字通り捧げて鍛えたのだ。

 肉体も、一見柔和な印象と裏腹に、そのための道具として恐ろしく有能だった。


 そして、その夜、相手を屈服させるための道具としてのアシュレを、アシュレのなかに充填された《ねがい》が操っていた。


 簡易裁判権さえ持つ聖騎士には尋問・拷問のカリキュラムが、修養必須項目として設けられてもいた。

 人間の肉体構造を理解する人体学と相手を破壊する戦技、人命を助ける医学と相手の《意志》をくじく尋問・拷問の技術は、隣同士に存在する体系だ。


 当然、アシュレもその技術を学んでいた。


 いかなる手段を講じても聖務を完遂する、とはつまり、そういうことだ。

 きれい事だけで世界は廻っていない。


 そのすべてが、シオンに行使されたのだ。

 なにより、アシュレによって射込まれる《ねがい》が、シオンを翻弄ほんろうした。


「悪意に、はぜてしまいそうなんだ」というアシュレの叫びは、なるほど間違ってなどいなかった。

「キミを穢すくらいなら自刃する」とまで、それはアシュレに言わせたほどのものなのである。

 もっとも、そんなアシュレにだからこそ、シオンは我が身を捧げたのだが。


 覚悟はしていたつもりだった。

 白熱するまで熱せられた鋼鉄を射込まれるようにシオンには感じられた。


 それは、凄まじいエネルギーだった。

 シオンほどの高位夜魔でなければ、一度でも耐えられまい。

 その《ねがい》の通り、家畜に成り果てたはずだ。


 相手の尊厳を踏みにじり、隷属させ、屈服を強要する《ちから》にそれは充ち満ちていた。

 それがあらゆる場所を介して、体内に注がれた。

 微塵の容赦もなく。


 射込まれるたびにシオンは身を弓なりに反らした。

 生のままのそれを浴びていたなら、シオンですら無事ではすまなかっただろう。

 その無慈悲な蹂躙じゅうりんにシオンが耐えられたのは、その暴れ馬のごとき衝動を、必死にアシュレが操ろうと奮闘してくれたからだ。

 手の皮が裂け、血がにじんでもなお手綱を引き絞り、あぶみで御し続けてくれた。


 シオンを想うまっすぐな心が《ねがい》とともにシオンに流入してきた。

 だからこそ《ねがい》に陵辱されているのではなく、アシュレに愛されているのだとシオンには感じることができた。


 そのことだけで、恥辱よりも心を満たす温かさが勝った。


 それどころか、アシュレと自分が本当の恋人同士であるかのようにさえ、シオンには思えた。

 気がつけばアシュレをいっそう深く受け入れていた。

 なんども名を呼ばれ、呼び返した。


 もし、アシュレが自分を好いてくれていて、ふたたび同じく望むなら、拒めないとわかってしまった。


 そして、この夜の記憶に囚われてしまった。

 アシュレを愛すると決め、そう宣言し、恋敵であるはずのイリスにはっきりとそのことを告げたあとでさえ、シオンはあの夜の記憶から逃れられない。


 いや、むしろ、夜を重ねるたびに、記憶はより鮮明さを増し、シオンの内側に射込まれたままの《ねがい》が冬の嵐の海のように荒れ狂うのだ。


挿絵(By みてみん)


 火を全身にかけられたような苦しみ。胸の痛み。愛おしさ。


 そして、それはまた、シオンのなかの古い夜魔の血に訴えかけるのだ。

 あのひとがほしい——と。

 その血の一滴、肉片の、骨片のひとつにいたるまで、ひとつとなりたい、と。

 あのひとが時間の流れのむこうに去ってしまうよりもはやく。

 そうでなければ、くるってしまう、とシオンの耳元でささやくのだ。

 永劫の時間のうちに、たったひとり、取り残された自分を想像して。


 記憶が再現する残酷な官能の頂きで、個人の存在を変容しかねないほどの《ねがい》に、いま、シオンは翻弄ほんろうされている。

 それが、フラーマの手たちによって引き起こされた、新たなフラーマの巫女への変転儀式の一手順だと気づかぬまま。


         ※


 イリスは思う。

 すでに自分は気が触れてしまったのだろう、と。


 ざぶり、と海面を割ってそれは現れた。

 フラーマ、と思わずつぶやいた。

 ついに、邪神の本尊が姿を現したのだ。


 それはあまりに哀しい女神の姿だった。

 巨大な鮫を思わせる肉体に無数の信徒たちが群がっている。


 救われること——病にも、傷にも、それゆえ不安にも脅かされないことの代償に“ヒトであること”を放棄した群れ。

 うごめく寄生虫のようにイリスには見えた。


 女神は左右非対称の数の腕で、腹から胸部に渦巻くエネルギー塊を抱き止めていた。

 朦朧もうろうとした視界のなかで〈スペクタクルズ〉だけが正常に働き、それが《フラーマの坩堝》であると判別する。

 それが本当は《フォーカス》ではなく常時発動型の——自分の《意志》で停止不可能の——異能であり、かつ状態異常バッド・ステータスであることも。


 強大な異能の多くは《スピンドル》だけでなく、その維持に膨大な代償を要求する。

 文字通り血肉を、骨身を削られることになる。

 イリスはフラーマが課せられ続けてきた苦痛に胸を痛めた。


 だが、ほんとうにイリスの憐憫れんびんに訴えかけたのは唯一、かつて救いの使徒であった時代の面影を残すフィギュアヘッドとしての彼女自身だった。


 顔面から引き剥がされた仮面の傷を癒すこともできず、恥じ入るようにその面顔を両手で覆っていた。

 呪われた永遠生の時の流れのなかで、いったいどれだけ彼女が傷ついてきたのか。

 それが、イリスにはわかり過ぎるくらいわかってしまった。


 たぶんそれは合一を促され、そのためにイリス自身に加えられ続けている玩弄がんろうがフラーマの精神との間に精神的なリンク、回路を結びはじめているせいでもあったのだろう。


 きっとフラーマの姿は、砂漠に湧くオアシスのように人々には見えたのだろう。

 必然として彼らは救われようと、一口でも多く水を飲もうと殺到した。

 汲めども尽きぬ、無償の、無限の愛——そんなものは、この世にはない。

 あるはずがない。


 だが、だからこそ愛は尊いのだ。

 必死に護らなければならないのだ。

 かならず尽きるものだからこそ、受け継がれなければならないものなのだ。


 与えあわなければ、枯れるものなのだ。

 それなのに、ひたすらに求められ、貪られ、奪い取られて、フラーマは邪神となった。

 無責任で飽くことのない《ねがい》にさらされて。


 イリスがくやしいのは、どうして、その役をフラーマだけにまかせたのか、ということだ。

 どうしてだれか一緒になって、井戸を掘ってやらなかったのか。

 砂漠に水をまき、雨を受け止める草原を、林を、森を育てようとしなかったのか。


 神はなにをしておられたのか。


 図らずも、かつて、まだイリスがアルマと呼ばれた尼僧であったとき、荒れ果て、寂れ果てた祖国のありさまに吐いたセリフが、そのまま、時制だけを変えて、イリスの口からこぼれ落ちた。


 それから不意に、かつてアルマを謀り、それどころか過去には陵辱し、祖国・イグナーシュ滅亡の引鉄となった革命を率いた男:ナハトヴェルグの言葉が脳裏を過っていった。


「ヒトを救うのは神ではありません。ヒトが、ヒトのわざだけがヒトを救い得る」


 ああ、と途端にわかってしまった。

 神が救ってくださらなかったから、フラーマは、この哀れなヒトは、自分で救おうとしたのだと。

 かつての祖父、降臨王:グランがそうしたように。


 そして、また、同じようにあまりにはやく、イリスは強い怒りを覚えた。

 フラーマを見放した騎士:ゼ・ノと炎の天使:アイギスに。

 フラーマが堕ちてしまうまでの間、なにをしていたのか、と。

 彼女ひとりに、なにをさせていたのか、と。


「とりもどしたい」

 いつしかフラーマの声が聞こえた。

 両手で尊顔を覆い、泣き伏すフラーマの眼前に、プラズマで出来たかのような純白の天使が現れていた。

 それが《投影プロジェクタイル》だとイリスには一目でわかった。

 降臨王:グランと同じ理屈の質量ある影絵のことである。


「ちからをかして」


 それは大気を震わせない——つまり音声ではない——声だった。

 全身に触れる手から直接注ぎ込まれる思念の塊。

 大き過ぎる伝播の力にイリスはあえぐ。

 肉体を蹂躙じゅうりんする手と、伝達されたフラーマ自身の思念の落差に翻弄ほんろうされた。


 フラーマは哀願していた。

 奪われた正気を取り戻して欲しいと。

 ぎ取られた銀の仮面——〈セラフィム・フィラメント〉——それは正確な未来を知るための聖遺物。そして、行方不明の鋏——〈アズライール〉——あやまった生命のくびきを立ちきり、あるべき姿に返すための力。

 フラーマに与えられたあやまちを正すための力——を。


 そして、

「目覚めて、否定して、逃げ……て」

 悲痛な哀願が、はっきりと聞こえた。

 それは《ねがい》に翻弄される、フラーマ自身の声だ。

 彼女は、フラーマはこんな所業を望んでいない。


 イリスは理解する。

 フラーマは自らの肉体を制御できない。

 肉体はすでに《ねがい》によって占領され、わずかに残されたフラーマとしての自我は、その牢獄と化した肉体が他者に対して行う無軌道な《救済》という名の仕打ちを、拷問のように何千万回も体験させられ続けてきたのだと。


 だが、だれが、いったいだれが、と憤る心を正しく自覚する暇もイリスたちにはない。


 ごおう、とフラーマの腹部の坩堝が唸りをあげた。

 巨大で凄まじい融合のエネルギーが渦を巻いていた。

 文字通りまったく異質な存在をひとつに統合するための器官。

 フラーマに群がるかつて人々だったものの《ねがい》が、いまやフラーマに強いているのだ。


 それがこんどは、シオンを捕らえようとしていた。


 融合しようというのだ。

 自らの=フラーマを信奉するすべての民の、あらたな象徴、姫巫女として、次の数百年を司るシンボルとして。


 イリスは咆哮した。

 獣のように。悔しかった。憎かった。世界が。

 彼女たちを、イリスを、シオンを、フラーマを《そうする》力のすべてが。


 そして、祈るように叫んだ。たったひとりの男の名を。

 あの日、イグナーシュ王家の墳墓の底、一万の死者の軍勢が守るその中枢へ、男はたったひとりで飛び込んできてくれた。

 聖騎士としての任務のためではない。


 ――《ねがい》を交わし合ったイリスだからわかるのだ。

 愛する者を救うため、命を賭けて戦ってくれた男の名を。


 アシュレ——。


 そして、その叫びに呼応するように閃光が霧の夜空を切り裂いた。

 超高熱のエネルギー塊が周囲の大気を圧しながら槍となって、フラーマの《投影》を撃った。

 見紛うはずもない。

 それは竜槍:〈シヴニール〉の一閃。


 残酷な仕打ちに苦しみ続ける堕ちる天使:フラーマとしての《投影》は光の粒となって飛散し、その巨体が大きくのけ反った。

 畳みかけるように小さな太陽が頭上で爆発した。

 輝ける焦熱球:《レイディアント・アーダー》。

 アラムの姫:アスカの異能だった。

 

 おぞましい改変器官にして牢獄=『手』として機能してはいても、本来は『目』であるフラーマの司教たちが、この世のものとは思えぬ叫びをあげて悶え苦しんだ。

 拘束の力が緩んだが、自力でそこから抜け出すだけの余力がもはやイリスにも、シオンにもなかった。


 だが、イリスは朦朧もうろうとする視界の隅でたしかに見たのだ。


 座礁した船べりに姿を現した男が、邪神に向け槍を構えるのを。

 その脇を美しい衣装をまとった異教の姫が駆け抜けていくのを。


 また助けに来てくれたんだ。

 そう思うだけで、救われた気になる自分がおかしかった。






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