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■第一七五夜:祖国を棄てて

         ※


「いやー、マイッタマイッタ。ほーんと今回ばかりはマヂにヤバかったよ」


 救出され、意識を取り戻したイズマは、指揮所の手すりにもたれかかって言った。

 場には微妙な空気がある。

 それはイズマが発案し、仕掛けた今回の策が原因だった。

 

「こんな手でも使わなければ、魔導書グリモア:ビブロ・ヴァレリを出し抜くことなんてできなかった。実際に戦ったボクらだ、それはわかる。だけどスノウを餌に使ったのはやり過ぎじゃないのか。彼女はまだ十四なんだぞ? それも女のコだ」


 食ってかかっているのはアシュレだった。

 足下にはスノウがまだ半裸のまますがりついている。

 アシュレの外套で身を包み、その脚を唯一の寄る辺のように抱きかかえている。


「それもボクになんの断りもなく!」

「んー、だってさあ。こうなるってわかってたら、アシュレくん、この計画のことオッケイって言ってくれた?」

「言うわけないだろ! ダメだ、絶対!」

「だから秘密にしたんだけどナー」

「この、イズマッ!」


 舵輪から手を放し、思わず掴みかかろうとしたアシュレを引きとどめたのは、なんとスノウだった。

 さらに半身を起こした状態で床に倒れているイズマの上に、エレとエルマが身を投げた。


「どうかお叱りだったらわたくしたちに! 実行犯はわたくしとエレ姉さまのふたりなのですから!」

「エルマ、エレ。それに、スノウまで?! どういうことだ?!」


 アシュレは目を丸くして驚くしかない。

 そこに背後から声がした。


「要するにこのビブロ・ヴァレリ奪取作戦は、そなた以外の女子は皆知るところであったということだ。……もっとも、当の本人たるスノウだけは、まさか自分が餌だとは気がついていなかっただろうし、そもそも知らされてもいなかったわけだがな」

「シオンまで……」


 全幅の信頼を置く夜魔の姫に諭され、アシュレは愕然とした顔になった。

 

「みんな……知っていてやらせたのか。スノウはもう、元には戻れない。完全にビブロ・ヴァレリと融合した彼女はもう……もう元には戻れないんだぞ」


 呆然としたアシュレのつぶやきに、スノウの肉体が跳ね上がった。

 だが、その手はアシュレの脚を強く掴んで、離そうとはしない。

 アシュレは驚き、思わずスノウを見た。


「スノウ……」

「ご主人さまは、いまのわたしを恥ずかしいと思う、ますか? こう、なんていうか横に居られると世間に顔向けできないコになってしまったって、そう思う……ます?」

「そんなことは」

「必要、ですか」

「それはもちろんだけど、ボクの言ってるのはそういうことじゃ……」


 言葉を連ねかけたアシュレの瞳を、顔を上げスノウはまっすぐ見つめ返した。


「だったら! だったらいいんです。いいの! これで!」

「スノウ」

「ビブロ・ヴァレリが教えてくれた。わたしは、最初から、《魂》を持つ者を篭絡するための道具として設計され、産み落とされた。でも、だったとして。父さま……ユガディールさまと、母さまの恋もそうやって計画されたはかりごとだっただろうか。もちろんそうであったかもしれない。でもそれだけではない、とわたしは思う。思うんです!」


 スノウがなにを伝えたいのか、アシュレにはまだ判然としない。

 しかし、軽視してはならぬ大切なことを、まだ年端も行かぬ少女が自分の言葉にしようとしているのだけはわかった。

 だから黙って拝聴する。

 スノウはアシュレの沈黙の意味を察したのか、続けて語った。


「今回のことだってそう。わたしがアシュレと出会ったのはたぶん計画されたなにかのせい。アシュレのことが気になって気になってしょうがなくなって、ついてきちゃったのも、大図書館に潜り込もうと思ったことも、たぶんきっとどこかで仕組まれたこと。だから、ビブロ・ヴァレリに取り込まれそうになった」


 でも、とスノウは反証した。


「いま、わたしはこうしてここにいる。ビブロ・ヴァレリと融合し、それを押さえ込んだスノウメルテという一個人としてここにいる。それはアシュレに会えたからであり、イズマが敵の策略を先んじて予見していてくれたからであり、わたしが危険と知りながら危地に飛び込んだからであり」


 つまり、つまりね、とスノウはいっそう真摯にアシュレを見つめて言った。

 それはほとんど、叫びと言っていい言葉だった。


「わたしは後悔なんかしていない。逆に、こうしてビブロ・ヴァレリと一体になることで、わたしはひとつ本当の自分自身への階段を上れたんだと思う。ただ、もし……」


 そこでうつむいて、アシュレの脚にツメを立てる小猫のようにすがりつく。


「もし、アシュレが、ご主人さまがそんなわたしを恥ずかしいと思っているなら、死んでしまいたい。貴方に恥だと思われるのだけは、耐えられない。耐えられないんです」


 スノウの告白に、アシュレは思わず唾を飲み込んだ。

 その言葉のあまりの真摯さに気圧される。

 自分がどんなふうに彼女に想われているのか、やっと理解が追いついたのだ。


 だから、狼狽しつつも息を大きく吸いこんで、答えた。


「どうしてキミをボクが恥じると思うんだ。キミのことを大事に想いこそすれ、恥だなんて考えたことは一度もない。騎士として誓う。決して、一度たりとて」

 

 アシュレの断言に、スノウはこわごわという様子でふたたび顔を上げ、微笑んだ。

 泣きながら。


「やー、ヨカッタヨカッタ。これでボクちんも無罪放免かな?」

「イズマには後で話があります」

「えっ、なに、もしかしてスノウちゃんとなにかあったの、ビブロ・ヴァレリとの戦いの前後で? 不純異性交遊? 不倫?」

「ちがう!」


 消耗しきっているはずなのに減らないイズマの軽口に、アシュレはすべてがもうどうでもよくなってきた。


 スノウ自身が認めているとはいえ、もう彼女はいわゆる常人の世界には戻れない。

 夜魔との混血であるだけで、まずまちがいなく人類圏には居場所がないのだが、いまのスノウはもうどちらかと言えば怪物そのものだ。 

 姿形が人間なだけで、中身はもう完全に別の生き物。

 つまり、アシュレ自身と同じなのだ。


 彼女の人生の責任を取れるのは自分しかいない、とアシュレにはもう分かっている。

 スノウの内部をさんざん暴いた際、どんなに慕われているのかまで知ってしまったのだ。

 

 しかし、相手はイズマの言ではないが、本物の少女なのだ。

 いいのか。

 ほんとうに。

 

 あまりの悩ましさにアシュレが頭痛を覚えはじめたころだった。


「アシュレッ、見えるぞ、オズマドラ陸軍の生き残り兵だッ!」


 船の舳先に陣取ったノーマンが振り返り、大声で知らせてくれた。

 アシュレはその大音声によって現実に引き戻された。


 たしかに眼下には数千の軍団が見えた。

 ヘリアティウムの対岸に運良く泳ぎ着いた人々を、アラム・イクスの信教の別なく救出する彼らの頭上にアシュレたちは到達したのだ。


「どこの軍団だろう」

「アシュレ、あれは我が配下たちだ。間違いない。“砂獅子旅団”だ」


 いつのまにアシュレの側に立ったのか。

 手すりに掴まりながらアスカが断言した。


 舳先でノーマンが巨大な白旗を振っている。

 これはアラム・イクス両方で通じる敵意がないことを示す合図だ。

 こういうものがないと降伏の意図が伝わらずいたずらに戦いが長引くため、戦場で取り交わされた約束事がだんだんと慣習化したものだ。


 真騎士の乙女たちによる襲撃を恐れ、防空戦闘の準備を始めた兵士たちはその旗のあまりの大きさに唖然となり、手を止めた。


「みな、武器を握る手を止めよ! これは空襲ではない! わたしだ、アスカリヤだ!」


 隣りに立つアスカが声を張り上げた。

 アシュレはその全身が震えているのを見てしまった。

 手すりを握りしめた手からは血の気が引いて、白くなってしまっている。


 あんなことがあったのだ。

 どんな顔をして兵たちのまえに顔をさらせばいいのか、ひどい葛藤があるはずだ。


 それでもアスカは己の責務から逃げなかった。

 そして、“砂獅子旅団”の面々の反応は大方の予想を裏切るものだった。


「殿下ァーッ!」

「アスカリヤ殿下ッ!」


 眼下から歓声が上がる。

 アシュレの耳にはどうしたって好意的な呼び掛けにしか聞こえなかった。


「アスカ……キミの兵たちはキミを慕うことをやめられなかったみたいだね」

「オマエたち……礼を言うぞ。ありがとう、ありがとう」


 アシュレの横でひとりごちるアスカの目には、ごまかしようもなく涙があった。

 小型飛翔艇は、打ち寄せる艦隊の残骸をさけ、すべるように海面に着水した。

 アスカを抱えて指揮所を飛び降りると、疾風迅雷ライトニング・ストリームを用いて水の上を走り抜ける。

 遅れじとノーマンが続く。


「損害はどうか」

「対岸に展開していた我らの損失は極めて軽微です。ですが、本隊も艦隊も……」

「それはいま、上空から見てきた。ひどいことになったな」

「殿下こそ、よくぞご無事で」

「無事……とは、なかなか言い難いが」


 多くのものを失った、という意味でアスカは言った。

 相手も、唇を噛んでうなだれる。

 駆けつけた将兵は、なんとティムールだった。

 “砂獅子旅団”の財務担当で、柔和な印象を与える好青年だが、れっきとした《スピンドル能力者》だ。


「それよりも時間がない。アテルイの肉体はどこか?」

「ああ、それならば、こちらです!」


 生存者の救出にごった返す海岸線を走り抜け、アシュレとアスカは“砂獅子旅団”の司令本部である天幕へと駆け込んだ。


「アテルイ! アテルイ!」


 上等の毛皮で何重にも包まれたアテルイの肉体は、しかしいまやすっかり冷えきり、代謝が極端に落ちていた。

 だが、まだ息があった。

 脈も細いが確かだ。


「すまぬティムール、アテルイは連れて行く」

「連れて行く、とはどういうことです? 殿下は戻られたのでは?」

「いや、わたしの居場所はもはやオズマドラにはあるまい。もし、あるとすればそれはわたし自身が戦って勝ち取らなければ得られぬものだろう」


 アスカの言葉を証明するように、陣幕を出たアシュレたちを待ちかまえていたのは、対立する兵たちの姿だった。

 アスカの姿を見て歓呼の声を上げた者と、アラムの教えに背き自分たちを欺き続けてきた女としてアスカを捉える兵たちの間でいさかいが起りはじめていた。

 数としては半々というところか。

 しかし、ここの軍団はアスカが直々に育てたいわば近衛兵たちの集団である。

 それでこれでは、オズマドラ本国の反応は目に見えていた。


「みよ、ティムール。これが現実だ」


 アシュレはその兵たちを沈めようと立ち回る人々のなかにナジフ老と巨漢の女剣士:コルカールの姿を認めた。


「心苦しいが、我らは去る。このままでは味方同士で相争うこととなる。それは看過できん。それにわたしは戦うべき相手を見つけたのだ。それを果たさねば」

「殿下ッ!」

「すまん、ティムール。ナジフとコルカールによろしく伝えてくれ」

「おまちください、殿下ッ!」

「時間がない。わたしたちは行く」

「ひとつだけ、ひとつだけ約束してください」

「約束?」

「はい。いつの日か、いつの日か、必ずお戻りになられると」


 臣下からかけられた意外な言葉に、アスカは泣き笑いのような表情になってしまった。

 アスカは自分と同じように、居場所を持たぬ者たちのために“砂獅子旅団”を作り上げた。

 居場所がないという概念の定義はまちまちだが、だから、この軍団にはほかに行き場のない者たちが多い。

 まさか、その居場所を失う日に、自分がかつて生きる場所を与えた男からこんな言葉をかけられるとは思わなかった。

 だから、アスカは泣いた。

 いつのまにか、ここが、“砂獅子旅団”という場所そのものがアスカの居場所になっていたのだ。


「わかった。約束しよう。わたしが成すべきことを果たしたら、あるいは果たすために、わたしは必ずここ・・へ帰ってくる、と」


 主人の答えに臣下もまた泣いて、しかし満足げに頷いた。


「アスカ、いこう。もう限界みたいだ」


 騒ぎが大きくなりはじめ、飛翔艇への道が閉ざされつつあるのを危惧してアシュレは声をかけた。

 アスカが頷く。

 その肉体をアシュレは抱く。

 アテルイのそれはノーマンが確保してくれている。


「では、さらばだ」

「しばしのお別れです、殿下」


 必ずのご帰還を。

 そう言い添え手を振るティムールの姿はすぐに戦塵の煙の向こうに消えた。

 アスカは霞む視界のなかに自分が育てた軍団が消えていくのを見た。


「遅いぞ、アシュレ!」


 なんとか帰還を果たせば、レーヴからの叱咤が飛んできた。

 アラムの軍勢は完全にこちらを信用していたわけではないらしい。

 みれば戦闘態勢を整えた小舟が、飛翔艇めがけて殺到してくるところだった。


 たまらず飛び乗り、機関を始動させる。

 ゴンゴンゴンゴンゴン、という唸りを上げて、白銀の船体は漂流物の散乱する海面を走りはじめた。

 ごつん、がつん、と嫌な音がして外装に様々な物体が激突する振動が聞こえてきた。


「離水する!」


 小型艇は輝く翼を広げて、海面から飛び立つ。

 射掛けられるクロスボウの矢をかいくぐり、上昇する。

 

 どこへ向かえばいいのか、アシュレにだってわからない。

 だが、進むほかない。

 

 まだ、果たすべき責任が自分にはある。

 アシュレは胸の内で迷いを噛み殺すと、毅然と顔を上げた。


 戦場の匂いのする風が、伸ばしていた髪を強く嬲った。


 


            


 第六話:第六話:ヘリアティウム陥落 Fine


 


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― 新着の感想 ―
[良い点] あのスノウちゃんがここまでたくましく育ってくれるとは! やはり、選ばざるを得ない道を選んでここまでたどり着いたのだ……。 イズマさんが出てくると途端に楽しくなってしまうので、やっぱこの方は…
[良い点] うおあー! 話がめっちゃ動いた一話、一話? 一話だったー!
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