■第一七二夜:救出と脱出と
※
小型飛翔艇を駆り大図書館の地下から通常時空へと帰還したアシュレは、眼下に広がる光景に言葉を失った。
畏怖を覚えるほどに美しかった永遠の都:ヘリアティウムの面影は、もうどこにもなかった。
都市周辺の地形は激しく隆起するか、数百メテルを超えて沈降し、景観を根底から変えてしまっている。
そこに勢いよく海水が流れ込み、轟々と渦を巻いている。
敵味方を問わず、洋上に展開していた艦隊は全滅。
数千から数万の人命が海の藻くずと消えた。
それどころか、オズマドラ陸軍の主力を成していた二〇万の将兵は、そのほとんどが荒々しく口を開けた大地の裂け目に飲み込まれていた。
魔導書:ビブロ・ヴァレリの魔力の喪失によってヘリアティウム市民十万の安否も、皆目検討がつかない。
そして、いまだ虚数空間に囚われている真騎士の乙女たちの最期も。
推定三〇数万の命を飲み込み、ヘリアティウム攻防戦は幕を閉じた。
目をつむるような思いで残念を振り切り、アシュレは船を飛翔させ続けた。
まだ助けねばならぬ仲間がいるのだ。
実際、仲間たちの救出は困難を極めた。
まず助けることができたのはノーマンだった。
道のりを示したのは、アスカの両脚をカタチづくる告死の鋏:アズライールの共振だった。
ノーマンの両腕を成す浄滅の焔爪:アーマーンと出自を同じくするこの《フォーカス》は、虚数空間のなかにあってさえ、その位置を示してくれたのだ。
虚数の海を漂う図書館の残骸に腰を降ろしたノーマンは、一心不乱にそれら書籍に目を通し、己を保っていた。
「おそろしいものでな」
と書架まるまるひとつを抱えて船に乗り込んできたノーマンは、腰を下ろすと述懐した。
「この無限の暗闇を見つめていると、さまざまな幻を見るのだ。カテル島に残してきた同志たちや、ダシュカのこと……。死んだ妻や息子のユージーンが、次々と去来してはオレを呼ぶ。あるいはこの虚数空間というのは、実現しなかった可能性が凝ったものなのかも知れん」
この場に留まる限り、見続けることのできるあったかもしれない未来……可能性の夢。
「こんな場所に長く留まれば、だれでも正気を失う。実際、危なかったよ。かたわらにこの本たちがいなければ、オレは可能性の亡霊に憑き殺されるところだった」
言いながらノーマンが差し出したのは、見事な革張りで装幀された一冊の本だった。
タイトルには「おいしいキャベツの料理法」とある。
ふんだんに図説があしらわれたそれは、きっと名のある料理人が書き綴ったものなのであろう。
「本に護られたよ」とノーマンは締め括った。
次に救い出せたのは土蜘蛛の姫巫女とバートンの三人組であった。
美しい蝶の蛹のように糸を張り巡らし外界との空間的繋がりを遮断した土蜘蛛姉妹は、バートンとともに虚数空間を漂流していたところを、レーヴによって発見された。
こちらは猛禽類にも迫る真騎士の乙女たちの視覚解像度と、天敵である土蜘蛛を感知する勘によってである。
「ヤツらは空を行くものに対して尋常ならぬ執着を持っているからな。真騎士の乙女だけではない。超空の暴君──竜族に対してもだ」
猟犬がするように高鼻を使いながら、レーヴは言った。
周囲では索敵を担う少女たちが目と鼻を使い、同じように周囲を警戒していた。
「ヤツらの罠を見抜き存在を感知する能力は、我ら真騎士の乙女にとっては本能にも近い。それくらい仲が悪いのだ。そもそも策略や暗殺によって世界を操作しようという発想そのものが、我ら真騎士の乙女という存在そのものと相容れん」
嫌悪感を隠さず、それでもアシュレの要望に応えて一族総出で土蜘蛛たちを探してくれるレーヴに、アシュレは感謝を惜しまなかった。
「危ないところでしたわ」
と、助け出されたときエルマも言った。
虚数空間の危険性について早々に察知した土蜘蛛姉妹は、視覚を被膜によって遮断し救出を待つと決めた。
だが、虚数空間はこんどは音声を用いて、ふたりを惑わしたのだという。
「イズマさまの声をなんども聞きました。外部の状況を探るために張り巡らせた糸を震わせて、この空間そのものが擬態するのです。たぶん、あれはわたしや姉さまが心に抱いているイズマさまへの思慕、愛慕の念を空間そのものが増幅させているのでしょう……そして、深み、深みへと誘ってくる」
危ないところでしたわ、ともう一度つぶやいたエルマの声と表情は真剣そのもので、両手で肩を抱き身を震わせる様子は、この短時間の間にどのような試練が彼女たちを襲ったのか、実際を知らぬアシュレにさえ想像させるに充分なものがあった。
一番厄介だったのはイズマを助け出したときのことだ。
アシュレはノーマンやエルマたちが語った虚数空間の恐ろしさを、身をもって経験した。
イズマの名を呼べば、いくどもいくども、高度に偽装された幻が現れた。
レーヴたちの目と高鼻は、もはや用をなさなかった。
視覚・聴覚だけではない、この空間は嗅覚をも擬態するのだ。
そして現れ出でた幻に手を伸ばせば、それは呪詛に変じて襲いかかってくる。
イズマを求め呼んでいる、つまり幻を本物だと思い込んでいる側から見ている分には、本人と寸分違わぬ者にしか思えぬのだが、横合いから観察していると、それがまったくの別物だと気がつく。
なにより恐ろしいのは、幻かも知れないと心積もりをして警戒しているにも関わらず、実際にそれと相対すると、本物だと完全に思い込んでしまうことだった。
なるほど、この空間は人間の心を拡張して、それを幻にして投影する性質を持つらしい。
ノーマンの言った恐ろしさとはこういうことなのだと、
「コレ、たぶんなんだけど、ボクたちがイズマのことを思えば思うほど……ダメなんじゃないのか」
アシュレの言葉に、甲板で虚数空間を見張っていた全員が振り返った。
「なるほど、わたしたちそれぞれの心のなかにあるイズマの像を、空間が読み取って精巧な幻を作り出してくる、とそなたは言うのだな?」
アシュレの考えをいち早く読み取ったのは、やはりシオンだった。
騎士は無言で頷く。
「そんな……それでは事実上、無限に幻の相手をせねばならぬということではありませんか!」
「こちらから冷静に見ていると、やけに美化された姿が多いので、主に幻の製造に関わっているのは土蜘蛛の姫巫女ふたり組だとは思うのだが……」
シオンの指摘に、土蜘蛛姉妹が朱に染まった頬を両手で隠した。
エルマはともかく普段冷徹で通しているエレのこういう姿は、ほんとうに珍しい。
まあ、たしかにアシュレの目で見てもやけに耽美なというか、そういう感じの幻がよい確率で混じっている気はした。
なるほどアレがエレやエルマの見ているイズマ像なんだな。
アシュレは密かに胸中で納得する。
「シオン殿下の言うことが正しいとして! 仮にそうだとして! やはり精巧な幻であることには変わりないのではないか? 確実に幻を見破る方法がなければ、このままでは為す術がない。なにより時間が……ない。ないのだ」
焦りを隠さずエレが言った。
たしかに、時間的猶予はほとんどなかった。
イズマは大量の死蔵知識の墓守を相手取り、ひとりで戦っていた。
アシュレの知る限り、最後の場面で彼は書架の隅に追いつめられ、寄り掛かるようにして倒れていた。
無事なのかどうか、そこがまずわからない。
さらにこの虚数空間がいつまで安定した状態を保ってくれるものか。
それはもう神のみぞ知る領域だ。
「あ、の……」
おずおずと申し出たのは、スノウだった。
救出行のどさくさで、その肉体はいまだにブランヴェルの裏側に縛りつけられたままだ。
「なんだい、スノウ?」
こんな状況だ、どんな意見でも欲しい。
アシュレはいまや魔導書と一体化した少女の瞳を覗き込みながら言った。
「この状況……わたしを使って打破するほかないのでは、な、ないでしょうか?」




