■第一六五夜:生還への道を(2)
アシュレはいま、スノウの心に直接触れている。
正しくはその具現である書籍のページそのものに、だ。
ビブロ・ヴァレリと一体化したスノウは一冊の巨大な書籍を抱えていた。
世界最古のオーバーロードにして希代の魔書との戦いに勝利を収めた少女が獲得したその本は、忌まわしき魔導書:ビブロ・ヴァレリの単なる名残りなどではなかった。
それは《フォーカス》としてのビブロ・ヴァレリ本体でもあり、スノウという少女のすべてが記された秘すべき書物だったのである。
より端的な言葉を用いるなら、物質化されたスノウの心そのものと言ってもよい。
そのページに、アシュレはいま、素手で触れている。
さすがに籠手越しはためらわれた。
女性の真心に触れるのに、戦塵と泥と埃と血と汗で汚れた具足では、あり得ない。
そんなもので彼女を汚す権利など、だれにもない。
だからこそさらにいま、こうやって戸惑っている。
触れた掌にアシュレは、スノウそのものを感じてしまっている。
なめらかですべやかで、傷つきやすい少女の心、それ自体を鷲掴みにしている。
指に、腕に、操作を試みるたびにかかる強い負荷は、秘密を暴かれることへの本能的な怯え。
実際には湿り気などどこにもないはずなのに、熱くぬかるんで疼いている。
そのページに記された秘密を、無理矢理こじ開け、制圧して、暴いていく。
スノウのなかに隠された、この巨大で深遠な迷宮の操作方法。
それを《魂》を用いて紐解き、《フォーカス》に愛される己の才能でもって直感的に理解していく。
当然、その過程でスノウの秘密をいくつも見てしまうことになる。
アシュレだってビブロ・ヴァレリの構造に精通しているわけではない。
だから、その中を探るというのは性急にページをめくり、手当たり次第に記述をむさぼり、意識を走らせるということだ。
落ち着いていられる状況ならもっと丁寧に、優しく、スノウの怯えを解きほぐしながらできたかもしれない。
だが、すでに状況は極まった緊急事態だ。
手荒くてもやるしかない。
なにしろ、戦隊五名全員の命がかかっている。
なりふりかまってなどいられない。
だが、当然のようにミスが起きる。
スノウにとっては決して知られたくないであろう、そしてスノウ自身も知らなかったであろう秘密にまで閲覧が至ってしまう。
迷宮の全体図かと思って広げてみたら、スノウのものだったなどという事故は当たり前のように起る。
触れてはならぬ場所に、なんども手をつけてしまった。
ビブロ・ヴァレリの秘密は、それが重要であればあるほど頑なな場所に厳重に秘されている。
しかし、それはスノウにとっても同じこと。
必然、大事な操作法と能力、迷宮の情報を探そうとすればするほど、危険な領域を攻めなければならなくなる。
スノウのほうも、こうなることを予想していたのであろう。
その肉体はいまや拘束され、目隠しされ、盾の裏面に固定され、猿ぐつわまでかまされている。
なにがあっても絶対にご主人様に抵抗できないように、という本人からの申し出に従ってのことだ。
まさに道具として、スノウはその身を進んで差し出したのである。
その提案は正しかったと、いま自分の下に組み敷かれたまま痙攣し、激しく身悶えするスノウの姿を見て、アシュレは思う。
いまアシュレはスノウの心を強姦しているに等しい。
いくら好意を抱く相手でも、こんなことをされて平気でいられるはずがない。
覚悟したと口で言うのと、それを実践するのは別のことなのだ。
スノウはそのことを知っていて、あらかじめ処置を懇願した。
だからアシュレは操作に集中する。
スノウの覚悟と決意を無駄にしてはならない。
差し出された尊厳は、正しく責任を持って踏みにじらなければならない。
そうでないなら、卑怯にも彼女の覚悟から逃げたことになる。
それだけは騎士として、いやそれ以前に男として決して許されぬことだ。
掌から腕を伝わって立ち昇ってくるスノウの《スピンドル》の薫りに、意識を持っていかれそうになるのを懸命に堪える。
清浄なミントのそれに加えて甘い桃の香の混じるそれは、スノウの個性をよく反映していた。
思わず口に運びたくなる誘惑を退けて、アシュレはひたすらに上方を目指す。
この迷宮の出口がそこにあると、スノウのなかの秘密がそう告げているのだ。
それを信じる。
上方に光を感じたのはそのときだった。
出口か、と一瞬にしてもアシュレはそう錯覚する。
必死になり過ぎて、幻をボクは見ているのか。
この状況からの生還を希求し過ぎて、都合の良い錯覚を起こしているのか?
だが、次の瞬間、襲いかかってきた高熱と衝撃は紛れもない現実の《ちから》だった。
轟音とともに掠め過ぎた閃光が、大気を爆発させる。
光条の直撃を受けた迷宮の壁面が瞬時に白熱して、溶解、破裂する。
「うおッ?!」
「「くううううううッ」」
アシュレが見た光は幻ではなかったが、期待した出口のそれでもなかった。
腕の下に庇ったスノウとアスカの口からかみ殺した悲鳴が漏れる。
数秒遅れて光条を放った本体が、暗闇で形作られた天井部分から姿を現す。
白鯨を思わせる船体を軋ませながら、大質量の舳先がまるで槍のように宙から生えてきた。
「あれは、飛翔艇:ゲイルドリヴルッ?!」
目まぐるしく変わっていく状況を、なんとか把握してアシュレは叫んだ。
瞬間的に足場を構築して衝撃波の直撃は防いだものの、超音速の大気の壁が巻き起こす乱流によって、聖盾:ブランヴェルは嵐のなかの木の葉のように翻弄される。
上昇しているのか落下しているのか、油断していると意識が一瞬で居場所を見失う。
それでもアシュレが冷静でいられたのは、アスカから垂れられた戦乙女の契約の加護のおかげだった。
恩寵の対象となった人物の潜在能力を極限まで引き出し高めてくれる、戦乙女の契約による能力の増強は、判断力だけでなく、三次元空間把握能力までも劇的に上昇させる。
耳目が無事なのも、とっさの判断でかけられたアスカの風霊の護りが効果を発揮してくれていた結果だ。
さらに裸身の美姫は白き翔翼まで展開して、聖盾:ブランヴェルの安定を図ってくれた。
蛇の巫女たちの至聖所でアスカが眠っていた時間はわずかだが、肌を重ね合わせた安心感が相当な回復を彼女にもたらしたようだ。
アシュレたち《スピンドル能力者》の《ちから》の源泉:《スピンドル》は心身の状態に依存する能力だから、使い手の精神状態が出力にモロに反映される。
肉体的にも精神的にも打ちのめされていたアスカが、これほどの技を連続行使できるまで回復できたのは、アシュレとの間にある信頼という絆がどれほど強靭であるかを示していた。
ひとりの男として、これほど嬉しいことはない。
「アシュレ、これでコントロールできるか。いまのわたしでは、飛翔する《ちから》がない。これが精一杯だが」
「充分だ。ありがとう、アスカ!」
アスカの助力に応じながら、アシュレはスノウのページに指を走らせ、リアルタイムで足場を構築していく。
いまばかりはスノウを盾に拘束固定していて、よかったとアシュレは思う。
目まぐるしく天地が入れ替わるこの状況では、女性ふたりの肉体を保持するのは至難の技だ。
アスカはともかく、筋力に劣るスノウでは振り落とされていたに違いない。
アシュレにしても衝撃波が到達する直前、爆発に対する対処として、スノウの猿ぐつわを引きちぎるのが精一杯だった。
「マスター、これ、なに、なにがッ、なにが起きてますッ?!」
「黙って、スノウ。舌を噛む。それにいま外を見ないほうが良い」
「どういう、どういうことです、ソレッ?! このものすごい音と衝撃──きゃああああああッ?!」
「大変なことになってるってのだけは、たしかだ。でも、悪いことばかりじゃない。どうやら、ここから脱出する手立てが向こうから来てくれたみたいだ」
いくよ、スノウ!
叫ぶや否や、アシュレはスノウのページにいっそう強い《ちから》を送り込んだ。
びくん、と拘束された肉体が限界一杯まで跳ね上がる。
アシュレからの《魂のちから》の伝達は、例外なく深奥を突き抜けるほど貫かれ焼かれるような熱さを伴う。
真っ白な首筋が反り返り、許しを乞う声が止めどなくあふれ出す。
秘密を探られ、掌握されるたび、これ以上ないほどの恥辱と快感がスノウの理性を焼き尽くしていく。
全身から汗が、唇からは堪えきれない唾液が流れ落ちる。
それほどに《魂》の伝達は、苛烈な体験だ。
意識を真っ白に焼かれながら、わたしもうお嫁にいけない、とスノウは思う。
伝説の魔導書:ビブロ・ヴァレリと融合してしまった時点で、それは奇跡に等しい願いだとしても、人間は未来を夢見るということか。
ともかく、アシュレはスノウの能力を最大限に振るい、戦隊を暗闇の壁を突き抜けて姿を現した真騎士たちの空飛ぶ船、飛翔艇:ゲイルドリヴルへとブランヴェルを着艦させた。




