■第一六四夜:生還への道を(1)
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「うわわわわわああああっ。ちょっ、アシュレ、オマエ、いまコレいまどこを走っているんだッ?!」
どこと言われても、ボクはスノウの《ちから》を信じて聖盾:ブランヴェルを走らせるしかない。
盾の背面にポジションを決めつつ叫ぶアスカに対し、アシュレは内心でそう答えることしかできない。
なにしろ、いまアシュレがブランヴェルを疾駆させているのは、次々と生まれては崩れ落ちていく不安定な迷宮の断片の、その上だ。
生み出される迷宮のかけらは次の瞬間には崩れながら、しかし螺旋を描きながら、ひたすらにはるか上方を指向して伸びてく。
アシュレはタイミングを見計らって、階段のように上昇していく断片に跳躍を試みる。
そうやって高度を稼いだアシュレたちは、すでに秘密の砂浜から五〇メテルは高い場所を走っている。
滑落すれば下が水面でも、すでに即死は免れない高度。
かといって行き先は一片の光すら透らぬ漆黒の暗闇で──見通せない。
そこから不意に巨大な迷宮の破片が落ちてくる。
貴重な書籍群が蝶々の群れを思わせて、舞う。
上を見て下を見て、このまま進んでいいのかと問われたら、アシュレだって答えに窮する。
だが、いまは信じるほかない。
自分自身の行いを。
そして、アスカと身を寄せ合うように並んでアシュレと正対するスノウと、彼女が獲得した《ちから》を。
「心理迷宮の支配者──これか」
スノウたっての頼みで、彼女の内部からその能力の座標を発掘したのは、つい先ほどのことだ。
それはビブロ・ヴァレリが持っていた、迷宮の構造そのものを組み替える強力な権能の名である。
この能力を見つけ出す過程で、またまたすったもんだあったのだが、とりあえずいま思い返すのはやめておこう。
あまりリアルに回想すると、スノウに対する罪悪感で前に進めなくなるとアシュレは思う。
ともかくビブロ・ヴァレリとの同化を果たしたスノウは、その能力を振るい、崩れ落ちる大迷宮を脱出する手立てを考案した。
アシュレたちはいま、その提案に従い、崩落しながらも次々と空中に生み出される足場に必死で飛び移り、全力で走っているワケだ。
「アシュレ、まだか。こちらは、そなたたちが示す次の予想地点へ向かって小転移を繰り返すのが精一杯だ。こんな無茶、そう長くは持たんぞ──」
そなた自身の心と身体が、という意味でシオンは叫んだ。
アシュレはそんなシオンの警告を聞きながら、流れ落ちる汗を振り払う。
悪魔の騎士:ガリューシンとの戦い。
魔導書:ビブロ・ヴァレリとの奇妙だが激しい闘争。
アスカの救出に、その後のスノウのケア。
さらに、いまシオンが繰り返す小転移=星渡りの代償やブランヴェルの操作、さらにはスノウの振るう心理迷宮の支配者の代価の大半を、アシュレは肩代わりしている。
いかにアスカから垂れられた真騎士の恩寵の《ちから》が強力とはいえ、さらに《魂のちから》が胸の内でまだ息づいてるとはいえ、ここまで来ると、さすがに大盤振る舞いが過ぎる。
八面六臂、獅子奮迅の大活躍と言えば聞こえはよいが、あきらかに《ちから》の過剰放出だ。
ブランヴェルの積載重量も、ぶっちぎって超過中。
いかに姫君たちの体重が軽いとはいえ三人乗り、そこにときどきシオンも着地となれば、まっすぐ走っているだけでも奇跡といわねばならない。
もはや蛮勇を通り越して無謀と言ったほうが、これは正しいだろう。
だが、無理だろうが無茶だろうが、ここで立ち止まるわけにはいかない理由がアシュレにはある。
この脱出行にはアシュレ自身のほかにアスカ、スノウ、シオン、そしてアスカの内側で眠るアテルイの精神──四人の命がかかっている。
それだけではない。
アシュレは生還を果たして、なんとしても“再誕の聖母”を追わねばならないのだ。
そうでなければアシュレを信じ、このヘリアティウムの上と下でいまも戦い続けてくれている戦隊の他のメンバーたちの《意志》と命を、ないがしろにしたことになる。
なにより、イリスを“再誕の聖母”にしてしまった己自身の責任が果たせない。
その想いがいま、アシュレを走らせていた。
「ビブロ・ヴァレリみたいに迷宮全体を把握・掌握できるならよかったんですが──能力についいて未熟な上に、わたし自身が、この新しいのわたしのすべてに不慣れだから。なにもかもうまくできなくて。なにがどこにあって、どれを操作したらいいのか、ぜんぜんわからないんです。その、触れるたびに電流が走るみたいに感じてしまうし……」
アシュレの《魂のちから》を借り、ともにビブロ・ヴァレリを封印することに成功したスノウは、自分自身の現状を認め申し訳なさそうに告白した。
自らの腕を責めるように強く掴んで、うなだれる。
それは当然だとアシュレは思う。
迷宮の構造を操作するビブロ・ヴァレリの能力は、つまるところ構造も機能も複雑に絡み合う立体パズルをリアルタイムに、しかも並行作業で破綻なく組み替える技術だ。
神業──オーバーロードを指して神を持ち出すとは比喩の仕方が不遜だが──としか表現するほかない超技を、ビブロ・ヴァレリはアシュレたちとの戦闘の間中、裏面で行使し続けていたわけだ。
並の人間の頭でそれを再現するのは、ほとんど不可能と言ってよい。
その難物をスノウはポンと託された。
これまでのたとえをそのまま当てはめれば、複雑怪奇を極める迷宮の操作教本と、実物そのものの巨大パズルを当日に手渡され実戦に放り込まれた新着の技師が、いまのスノウの立場ということになる。
こんなもの、アシュレだって根を上げるに決まっていた。
「正直に言って、なにがどうなっているのかさっぱりわかりません。崩壊していく迷宮に対して変更や操作を命じることはたぶんできるけれど……。ビブロ・ヴァレリが封じられたことで《ちから》の源泉として《ねがい》を用いることはできなくなってしまったし。わたしの《スピンドル》だけでは、たぶん、大したことはできない……」
それ以前に、とスノウは言い募った。
「さっきも言いましたケド、わたし自身が、まだわたし自身のことをぜんぜんわかっていないことが最大の問題です。どこになにが収納されてて、どんなふうに使えばいいのか……全部が手探りで、試行錯誤。でも、試したり、操作を間違えていい時間はほとんどない。だって、みんなの命がかかっている」
なのに、わたしは。
申し訳なさそうにスノウは頭を垂れた。
たぶん、これまでの彼女だったらそこで自責と自虐に囚われてさらに時間を無駄にしていただろう。
だが、アシュレたちとともに死地と己のコンプレックスを乗り越えたスノウはもう、以前とは別人だった。
うつむいていたのは己の未熟と無力を噛みしめる、わずかな時間だけ。
それから顔を上げると、アシュレの手を取った。
「ですからご主人さま、どうかお願いです。わたしを使って。その《ちから》で、みんなを救って。ビブロ・ヴァレリと《魂》を通じて戦ったあなたこそ、いまここにいるだれよりも彼女とわたしの──こ、こころの構造に通じている。だから、」
わたしをあなたの道具にして、とスノウは告げた。
なるほど。
スノウの結論に面食らいつつも、アシュレは理解を示した。
ビブロ・ヴァレリは数千年という、たとえオーバーロードであっても気の遠くなるような時間の流れを泳ぎきるために、自らその身を巨大な本=《フォーカス》と融合させた存在だ。
それは名画や彫像などの優れた美術品、古代の楽器や宝飾品、そして古代の物語が人間の治世の時間をはるかに超えて、後世に受け継がれていく理屈そのものでもある。
ビブロ・ヴァレリと融合してたスノウは、本能的にその理屈を理解したのだろう。
もうすでに自分は半分、そういう時間を超えるための物品・道具と化したのだ、と。
そして、その道具としての特性をアシュレに使いこなして欲しいと言ったのだ。
なにより躊躇していい時間などない、とその目が言っていた。
若い意気に打たれ、アシュレは頷いた。
アシュレの返答にスノウは微笑んだ。
「もちろん全力で後方支援します。容赦なく申し付けてください!」
そのスノウの申し出を、アシュレは誠実さと受け取った。
これまで執拗に自分自身の立場や役割……つまり役に立ちたいという意思表明を繰り返してきた彼女だったから、それは余計に響いた。
だからこそ、その提案を受け入れた。
のだが……。
まさかそれが具体的には、こんな感覚になるのだとは思わなかったのだ。




