■第十四夜:引力
※
「じつは、小さい頃からこの神話で疑問だったことがある」
神話を語り終えたアスカが、言葉の調子を戻して言った。
アラム教の信徒、その規範でなければならないはずの王族であるアスカが、自らが拠って立つところの神話に疑問を挟む――その行為に、アシュレは動揺した。
下手をすれば背信に問われかねない行為である。
「……たしか、オズマドラの王って、敬虔なアラム・ラー信徒であることを民衆に証し立てる必要があるんだったよね? その娘的には……大丈夫なの? 神話に疑問って」
「だからこそ、だ。普段こんなことを口にしたら、それこそ舌を引っこ抜かれてしまう」
「ボクに話してもいいの、ソレ?」
「オマエ、わたしを売る気か? 神官どもに?」
「いやっ、それはない。絶対ないっ」
「……あやしいな。既成事実を作って口止めにするか」
「きっ、既成事実っ?」
「既成事実がなんのことかはわかるようだな。まあ、その歳で初めてということはあるまい。むしろ、なにやら女の扱いには馴れた手つきだったが」
先ほどからのリードといい、抱擁といい。
アスカは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
神話を語り終えたアスカは、あの男勝りの性格に戻っていた。
巫女的資質を備えているのだろうか。役者のように物語にはまり込んでしまえる特技の持ち主なのかもしれない。
そういえば、身のこなしも舞姫のように優雅なところがある。
「さっきの抱擁も、自然だったしなあ?」
いやっ、あ、あれはっ、とっさのことで。アシュレは言い、狼狽した。
思い当たることが多すぎた。
「よいのかなー、聖騎士的には?」
「いやっ、あのっ、けしからんですっ!」
けしからんっ、のところでアスカは爆笑した。
オマエといると退屈しようがないな、と身を寄せてくる。
手を握られた。
オマエが気に入った、と評価された。
「亡命の話、真剣に考えてみてくれ」
「け、検討は、するっ」
アシュレのリアクションにひとしきり笑ったあと、アスカはまじめな顔になった。
さっきの話だが、と切り出した。
「わたしが気に入らんのは、姉:アイギスのことだ」
「アイギスさまのこと?」
「アシュレ、これはオマエたちの聖人を辱めようというものことではないのだ。わかってくれるか?」
アスカの真剣さに、アシュレは頷く。
ああ、とアスカは心底、嬉しそうな顔をした。
「偏見がなく、感情と理論・推論をわけて語れる、というのは素晴らしいことだな。気兼ねなく思いを伝えられる。存分に議論できる。これほど、嬉しいことはない」
アシュレはそこに、これまでのアスカの鬱屈を見た気がした。
思うことを聞けない。聞こうとすることを許されない。
それは、考えを抑制されることと同じだ。
なぜか、ユーニスとアルマのことが脳裏を過った。
社会制度の犠牲者という意味での。
「結果として、騎士:ゼ・ノは元の鞘に収まり、アイギスの剣として邪神フラーマを討った。
神話・説話としてはそれでよいのかもしれん。
過剰な“救い”への志向は、はっきりとヒトを邪な道へと走らせる。
だから、節度ある厳しさ、浄化は必要なのだ。
そして、それは神と神からその権利を与えられた王族によって管理されるべきことである——そういう教訓としては、充分なお伽噺なのだろう。
なにしろ神話は為政者の正しさの後ろ盾でもあるのだからな。歴史的事実をかえりみれば」
けれどもな、とアスカは言い募った。
「アシュレ、フラーマは実在の邪神だぞ? アイギスの実妹だ。お伽噺ではない。現実に我らと相対する脅威だ。
つまり、この神話は、すでに現実なのだ。
妹に、自らの部下をあてがい、恋仲にして、幻滅するまで手出しせず、男が舞い戻れば厚く遇して逆に手駒にする。
そして自らは手を汚さず、男に妹を始末させる。
結果として、アイギスは寛容で情け深く妹思いの天使という歴史的評価を得るが、漁夫の利を得たのは他ならぬアイギスなのではないか?
そういう疑問が生じるのは当然ではないか?
これは自らの妹を、そのために謀殺した話だとは受け取れぬか?」
アスカは歯に衣を着せぬ分析で神話を論評した。
アシュレはその明晰さに舌を巻く。
それから同時に同情もした。
アスカのその明晰すぎる考え方は、己の利益に癒着した宗教的偏向とそれが生み出す陰謀の蔓延する宮廷では窒息してしまうのではないか。
そう思えた。
籠のなかでは生きられぬ空の鳥のように自由だったからだ。
「そこまで言うなら、ほんとうは神さまさえ――いや、そうじゃない。神さまの名を借り、威を借りて誰かに強制する制度――すべてが疑わしいよ」
アシュレは真情を語ったアスカへの返礼として、同じく真摯に言葉にした。
それを感じ取ったのだろう。
アスカがアシュレの言葉を待った。
まっすぐな視線を向けられた。
「この話が実話だとするなら、本当に利を得たのは、神そのヒト——いや、神さまの名を借り誰かに強制する制度そのもの——じゃないのか? つまり、彼女たちの悲劇を神話に仕立て上げた連中じゃないのか?
フラーマという同情すべき、しかし、明解な“悪”と、アイギスという苦悩する正義、そして、その狭間で苦しんだ騎士:ゼ・ノの心を利用して、神の威を借りて強制する制度は、ボクたちに別の物語を伝えている」
それは、なんだ、とアスカはアシュレを無言で促した。
たぶん、アスカ自身もすでにそのことは気がついていたのだろう。
もっと、ずっと昔から。
ただ、だれにも口にできず、己のなかに閉じこめてきた言葉だったのだろう。
神、そのものではなく“神の威を借りて強制する制度”に対して。
その躊躇は当然だった。
なぜならそれは、自分たち為政者を支える基盤に対して、一撃を加えることと同義だったからだ。
アシュレは、だからできるかぎり真摯に答えた。
ひとりの人間として。
「それは“ヒトは定められた領域から出てはいけない”という物語だ。
表層的な悲劇という――あえて言う――糖衣を剥ぎ取れば、ふたりの天使とひとりの騎士の物語には暗渠としての寓意が込められている。
こうも言えるかもしれない。
このアイギスとフラーマ、そして騎士:ゼ・ノを巡る神話は“ヒトは定められた役割を演じなければならない”という意識を伝播させているのだと――逸脱を許さぬ、という潜在的なメッセージを」
アシュレは己の語る世界の摂理に、どうしようもなく否定的なニュアンスが乗るのを止められなかった。
だが、それは神そのものを否定しているのではない。
たぶんそれは、イグナーシュ領で戦った魔剣士:ナハトヴェルグや、救世主を生み出すため自ら悪を引き受けた降臨王:グラン、そして、その悲劇を止めるため自らの血肉、いや命さえ賭けて戦った仲間とともに、あの暗すぎる夜を駆け抜けたせいだった。
過ぎていってしまったふたり――幼なじみの従者:ユニスフラウと、尼僧:アルマステラの、血を吐くような愛の告白を、その身に受けたせいだった。
あの暗い夜を経て、神そのものにではなく、神を騙るなにものかの影に――神や偉大な者たちの威をかりて語る者たちに拭い去れぬ疑念を抱くように、アシュレはなっていた。
この物語を仕立てたのは、神ではない。
人間だ。
物語を紡いだヒトの《ねがい》そのものだ。
もしかしたらそれは、フラーマを邪神に仕立て上げた《ちから》と同質・同様のものかもしれないのだと、アシュレは気づきはじめていたのだ。
「決められた役目」
たとえば、とアスカが言った。いつの間にか唇が触れるほど近くにあった。
アシュレは動じず、アスカの瞳をまっすぐ見て答える。
「たとえば、王族」
「たとえば、貴族」
「たとえば、神官」
「たとえば、司教」
「たとえば、農民」
「たとえば、商人」
「たとえば、農奴」
「たとえば、奴隷」
それぞれの役割——ふたりは交互に歌うように言った。
連祷のように。
あるいは睦言のように。
それはまるで、ふたりのこの世界に対する叛意を確認し合う作業のようだった。
ふたりは、語り終えたあとも、視線を絡ませたまま動かなかった。
アシュレはアスカの息を感じた。
同じようにアスカも。
それから衝撃的なことをアスカが告白した。
「アシュレ、わたしの母は誇り高い騎士であり、同時に奴隷だったのだ——そうならざるをえなかった。父、オズマヒムに見初められたからだ。恋をしたからだ。
帝王の妻は、同時に奴隷でなければならない。そういうキマリなのだ。それはかつて、帝王の妻が捕虜となった際、敵国の貴族たちの端女とされた故事に由来する。
二度と王族が辱められるようなことがあってはならぬから、という配慮だ」
さも自然だったから、アシュレは一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「アスカ?」
あまりの衝撃に、アシュレはアスカの名を呼んでいた。
告げられた言葉の意味が浸透するまでには、時間が必要だったのだ。
それほどの内容だったのである。
アシュレの顔は、驚きを隠せていなかっただろう。
その顔を見て、アスカは微笑んだ。
「アシュレが己の神についての考えを正直に答えてくれたのだ。わたしも答えねばならんだろ?」
アラムの世界ではな、とアスカが言った。
「我が国では女が歴史の表舞台に立つことは許されない。
もし、わたしが女性であると露見すれば、王位継承権を失う。
わたしが女であることを受け入れるということは、なかば同時に、檻に囲われる人生を認めるようなものなのだ」
アシュレは言葉をなくしてアスカを見つめた。
この聡明な姫君は、連綿と語り継がれてきた神話の——ヒトの生きる規範として——背後にある、あまりに暗い《ねがい》のさまを独力で暴き、指摘した。
それは、アスカ自身がその“制度の犠牲者”だからだということに、アシュレは気がついたのだ。
アスカは続けた。
「世界を変えたい、と《ねがう》ことは罪だろうかな。あまりに大それていて、そうでありながら、はかなすぎる夢だろうかな? これは野心と揶揄される感情だろうかな?
だが、それなら、どうして、わたしたちは運命に抗う力:《スピンドル》を得てしまったのか?
それなのに、どうして人々は定められた役割について説くのか?
そこからの逸脱を罰する、と脅すのか?
出られはしないから、超えてはいけないから諦めろと言うのか」
それから、ちいさく己の罪を告白するように言った。
「それではまるで、この次元、世界そのものが《閉鎖回廊》のようではないか」
青い瞳にトーチの炎が反射していた。
そして、強い決意がそこにはあった。
「ならば、わたしが変えてやる」という。
アシュレはアスカという姫の本質を見た気がした。
それから互いに振り向き、背中合わせになって構えた。
アスカが湾曲刀を引き抜き、アシュレが竜槍:〈シヴニール〉を準備する。
熟練の戦士の勘が告げていた。
敵が迫りつつあったのだ。
「《レイディアント・アーダー》!」
短い祈りの聖句とともに、左手の黄金の指輪を湾曲刀の腹に滑らせながら、アスカが刃を頭上に放った。
ある高度に達した湾曲刀は重力に逆らい、ゆっくりと速度を落としながら落下するようになる。
まるで真昼の太陽のような光を放ちながら。
絶対的な自然法則である重力にさえ逆らうことを可能にする《ちから》――それが《スピンドル》だった。
ぎいしゃああああっっ、と包囲を狭めつつあった落し仔たちが跪き、悔いるように頭部を——例のフィギュアを——抱えて啼いた。
事前に目を庇うよう指示されていたアシュレは、眼前の一匹の腹部に〈シヴニール〉の穂先を叩き込み、最低出力の技で敵を葬った。
――《オーラ・ブロウ》。
伝導する《スピンドル》のエネルギーを収束させ、短い光刃を数メテルというごく近距離に撃ち出す、もっとも基礎的な技だ。
武具を選ばず使えるが、聖遺物やそれに匹敵する伝説の武具=《フォーカス》でなければ、一回の使用で使われている金属がボロボロになり砕け散る。
アシュレは父であり先任聖騎士であるグレイから、突撃時に間合いを外されたときか、相手が近接を嫌って離れる瞬間に使うように教えられた。
いずれも、相手が安全圏に出たと思う瞬間を狙う奇襲的な用法で、若いアシュレには納得しがたい使い方だったが、グレイは嫌というほど思い知っていたのだろう。
オーバーロードやそれに準ずる亜人種、魔物との戦いは首筋まで腐汁に浸かったまま生き延びなければならぬ戦いなのだと。
汚い、などと言ってはいられない。
そういう戦いなのだと。
落し仔の背を光の刃が貫き、乳の焦げるような甘い異臭が鼻をついた。
「やるじゃあないか、イクスの聖騎士殿!」
感嘆してアスカが言った。戦いの高揚に喜色を隠そうともしない彼女のことをアシュレは不思議に思った。アイギスとフラーマ、そして騎士:ゼ・ノのことを語る彼女と、いま戦神のごとく瞳を輝かせアシュレを褒める彼女の変わりように戸惑った。
「さっきの話なら、忘れろ。それこそお伽噺だ。世迷言だ。しょせんは血塗られた道。ヒトの一生は、なるほど神のご意志によるものだ!」
三匹を近接戦闘で仕留め、一息ついたアシュレにアスカが走り寄りながら言った。
皮肉げな、どこか諦めたような笑顔だった。
「生まれがどうであれ、至った理由がどうであれ、王族として生まれ《スピンドル》能力者としての力に目覚めたからには、民のため、王国のため、命果てるまで戦う義務がある。そうだろう?」
それは「ちがう」と否定して欲しい。そういうふうにアシュレには聞こえた。
人間は嘘を言うことで本当のことを言う。
父から教えられた言葉をアシュレは思い出していた。
アスカが心の底からそう思っているのなら、いま、そんなことを言わなくてもいいはずだった。それなのに、踏ん切るようにアスカが言うのは、どこかで納得できず、言葉にして確認しなければならない自分がいるからなのだとアシュレは思った。
「なんだ」
自分でも気がつかないうちに、痛ましいものを見るような目でアスカを見てしまっていたのだろう。
憐れまれることと蔑まれることは同じだから、王族としてのプライド、癇にさわったアスカが眉を吊り上げるのは当然だった。
大股で間合いを詰められた。
「ずいぶん、高台から見下ろすような目をするじゃないか、アシュレダウ!」
胸を突き飛ばされた。
アイギスとフラーマ、騎士:ゼ・ノの逸話を語るアスカが震えていたことを抱擁したアシュレは忘れてなどいない。
それが寒さのせいでないことはアシュレにはわかっていた。
だが、アスカは悲恋の神話に流されて真情を吐露したことを後悔しているのだ。
こうして、粗暴に振る舞うことで、必死に打ち消そうとしているのだ。
王族には決して許されぬ《ねがい》を口にしたことを。
その弱さをアシュレに見せてしまったことを恥じている。
世界を変えたい、などという幼すぎる夢の告白を。
それは自分の心を相手にさらすことに馴れていない人間に、共通の癖だった。
アスカの心の動きがアシュレにはよくわかった。
人間は嘘を言うことで本当のことを言う。もう一度、アシュレは反復した。
ともに来い、とアスカはアシュレに言った。
王道楽土を築こう、と言った。
それはこう言っているのと同じだった。
自分は孤独だと。この世は王道楽土ではない、と。
なぜなら、友がすでにあるのなら道連れを得る必要はなく、世界がすでに王道楽土であるなら、また、それを築く必要などないからだ。
アスカはただの人間ではない。世界に覇を唱えるオズマドラ帝国の王女だった。
なに不自由なく育ったはずだった。不足など、どこにもないはずだった。
それなのに、癒されぬ餓えと渇きが彼女にはあった。
なぜだか、アシュレにはそういう人物のことがわかってしまう。
「アスカ——キミこそ、ボクと来るべきなんじゃないのか?」
そのアシュレの一言は、まさにアスカの急所を捕らえる一撃だった。
みるみるまにアスカの顔から笑みが消えた。
いや、表情という表情、感情という感情がそこから失せた。
「なんだ、やぶからぼうに」
硬質な声がやたらと虚ろに響いた。
「キミはボクと来るべきだ、と言ったんだ。あてなんて、ないけど……。キミは、なんていうか……ひとりになっちゃだめだ」
「……おまえ、たらしだろ?」
アシュレの態度を皮肉ることで、アスカはようやく剥ぎ取られてしまった感情の仮面を身につけ直すことができたのだ。
「ようやく、わたしの美貌に気がついたのか? ふふん、それは遅きに失するというものだよ。イクスの聖騎士よ」
けれども、アシュレはその虚勢の仮面をもう一度、あえて無理矢理剥がすようなまねをした。
力づくで。すこし前までのアシュレは決してしなかった、できなかったやり方だ。
たぶん、大事な人間をごっそり失ったあの暗い夜の経験が、決して引いてはならぬ時と場合を嗅ぎ分ける力をアシュレに授けたのだ。
そして、それは、まさにいまだった。
「そうとも。ようやく気がついたんだ。……アスカ、いくらキミが《スピンドル》能力者だとは言っても、たったひとりで《閉鎖回廊》に、それも姫君を送り込むなんて、おかしいじゃないか」
アシュレの声は冷静だった。
相対するアスカが高くそびやかした虚勢の城塞が哀れに見えるほどに。
「なぜ、そんなことがわかる」
「キミはどうして生き残りの仲間を捜さない? もし他にひとりでも《スピンドル》能力者がいるのなら、ボクたち同様生きている可能性の方が高いのに。なんで、ボクなんかとこうして歩いてるんだ?」
「それは、味方と合流するまで、オマエといたほうが生存確率が高いから……」
「嘘だ。アスカ。キミはだれも捜していない。なぜか、理由を言おうか? さっきの技だよ。《レイディアント・アーダー》。あんなに目立つ技があるなら、いくらでも友軍に自分の存在を知らせることができたはずだろ」
それなのに、キミはそうしなかった。
「ボクに出会うまで、キミはなかば海水に浸かって死にかけてた。それ以前にも仲間といたわけではない。すくなくとも《スピンドル》能力者とは。そうだね?」
「それは」
「いいや、誤魔化されないぞ、アスカ。もし、ボクの言うことに間違いがあるなら、どうして目覚めたあと、すぐに友軍と合流しようとしなかったんだい?」
「だから、それは」
言ってごらん、とアシュレはワザと沈黙した。そうして相手に時間を与えた。
けれどもアスカの唇はわなわなと震えるばかりだ。アシュレの指摘は図星だったのだ。
アシュレはそれ以上、アスカを追い詰めるのをやめた。
かわりに自分のことを話した。そうやって懸念を伝えようとした。
「ボクの父、聖騎士:グレスナウ・バラージェは、第十一回の十字軍で死んだ。自分で志願したんだと聞かされてきた。
でも、本当は、それは謀殺だった。
父は、この世界の真実に迫りすぎたんだ。
それで法王庁に謀られて殺された。——にわかには信じられない、信じたくないことだ。
でも、法王庁のこれまでを総合するなら——それは、事実である可能性が高い。
そう判断するしかない」
それから、まっすぐにアスカを見た。
「同じじゃないのか」
アシュレははっきりと言った。
ボクの父さんと同じじゃないのか。キミが、いま、されていることは、と。
「これは謀殺なんじゃないのか」
「艦艇十隻、四千人以上の戦力をつけてくれた。ひとりでは、ない」
はた目にも哀れなほどアスカは動揺していた。
震えるアスカをアシュレは思わず抱きしめそうになった。
言葉では否定しても、その可能性をアスカもまた、考えてはいたのだ。
「第十一回十字軍は、十万以上の軍団だったという話だ。木を隠すなら森のなかだと言う。ヒトの死も、たぶん、そうなんじゃないかな」
努めて平静に告げるアシュレとは対照的に、必死にアスカが反論した。
「《スピンドル》能力者は希少だ。無駄に消耗できない。だから、だからオズマヒムは」
だが、その反論を遮って、アシュレは言った。
「《スピンドル》能力者は、一万人にひとりの才能だって言うんだろ。
でもね、オズマドラはたった一国、君主:オズマヒムの一声で十万人の陸軍を揃えられる大帝国なんだ。十万の軍勢って、総人口一〇〇〇万人以上という巨大な国家規模でなければ揃えることさえ考えもしないような大戦力を、だ。
それを軽々と成してしまうだけの力が、キミの父上にはある。
よく聞いてくれ、アスカ。
同規模十万人の十字軍は、西方世界全体の総力だったんだよ? 騎士や兵士だけじゃない、志願した農民たちまでかり出しての話なんだ」
それに、とアシュレは言った。
「それにボクの持っている情報が正しいなら、オズマヒム旗下の《スピンドル》能力者は一〇〇名を超えるとも言われている。エクストラム法王庁の聖騎士がどんなに最精鋭だといっても、現在二十二名しかいない。キミなら、言いたいことがわかるはずだ」
アスカに言葉はない。アシュレはすこし声をやわらげて言った。
「一見して、どんなに大戦力であっても、《閉鎖回廊》においては意味がない。《スピンドル》能力者でないかぎり、本当に無力な存在でしかないんだ」
それがわかっていて、どうしてオズマヒムはキミをひとりで行かせたんだ?
「アスカ、キミは……」
両手を広げ近づこうとしたアシュレを、アスカは後退って拒もうとした。
「父は——オズマヒムはそんなことはしない。そんなことをするような男ではない。西方世界でさえ、東方の騎士と認めた男だぞ!」
ほとんど叫ぶように言うアスカに相対しても、アシュレは躊躇しなかった。
追いすがり、その胸にアスカを抱き締め、言った。
「そうだろうさ。だが、彼の側近、大臣たちは違う!」
裸の胸に刃を当てられたような顔をアスカはした。
羞恥と恐怖がないまぜになった表情。アシュレはよく知っていた。
本心を言い当てられた人間の顔だった。
「知っているさッ!」
言葉の勢いのまま、どんっ、と突き放して逃げようとしたアスカの手を、アシュレのそれがもう一度、捕まえた。
「キミは、ボクと来い!」
アスカの瞳がこぼれるほど見開かれた。
唇がなにか言おうとして、震えて、それからきつく噛みしめられた。だめだ、と血を吐くようにアスカは言った。
「わたしには、夢がある。必ずか叶えねばならぬ事がある」
アシュレはアスカを見た。
「どんな夢だろうと、死んだら叶えられない」
「死にはしない。それに——いまはオマエがいる」
アスカもアシュレを見上げて言った。
「投げ出すわけにはいかない。それを投げ出してしまったら、わたしは運命の奴隷と変わらない」
「だけど」
ふたりのあいだを沈黙が通った。互いが言葉を探す、あの時間だ。
白い呼気だけが互いの間にあった。
どう切り取っても、心底、心配してくれているのだとわかるアシュレの顔を見て、ふふ、とアスカは笑った。
肩に頭を預け、ちょっとは落ち着いたよ、とこぼした。
もう大丈夫だ、とアシュレに言った。強がっている様子ではなかった。
どこか諦念したような、ともそれは言えたが。
「大臣たちがわたしを疎んでいることは無論承知だ。これが謀殺ではないか、という問いについても、おそらくその通りだろう。その謀略に、なぜ、オズマヒムが応じたのかという疑念については、いまは話せない。だが、理由がある」
みるみる冷静さを取り戻してゆくアスカに、こんどはアシュレが驚嘆する番だった。
なるほど、王の資質をアスカはその血筋とともに受け継いでいるのかもしれなかった。
感情を制御するということは、爆発させない、あらわにしないということとは、まるでちがう。
どんなに癇癪を起してもかまわないが、そのあと必ずもっとも重要な案件に戻ってくる。
あるいは冷静に向き合うために、あえて先に爆発させる。
帝王学を我がものとして生きる、とはそういうことだ。
「阿呆みたいな顔になっているぞ、アシュレ」
アシュレには言葉がない。
ただ、アスカが一度、感情の安全弁を解き放った後、途端に冷静な執政官としての辣腕を自身に対して振うタイプなのだと理解できた。
「取り乱してすまなかった。オマエのように、剥き出しの心で心配されたことがなかったから、動揺してしまった。だが、言葉にして吐き出したことで、明晰になった」
一緒に来い、との言葉、生涯忘れまい。アスカは微笑んで言った。
「だが、侮るな、アシュレダウ。
わたしも謀られてばかりで、ここへ赴いたのではない。目的があるのだ。
ひとつは死地を切り抜け生還すること。
虎穴と知りながらあえて飛び込むことで、大臣どもの思惑を食い破ること。
それは力だ。具体的には、宮廷内でのわたしの発言力を増す、というな。
だから、オマエの申し出は受けられない」
そして、大臣どもは知らない。
「わたしが唯々諾々と、その薄汚い思惑に乗せられてやった理由がまだ、ほかにもあることを」
「ほかの理由?」
「オマエにも明かしてよいものかどうかわからず、迷いがあった。
それで、感情を爆発させてしまったのだ。
告白する、オマエの優しさに甘えていたのだ。
だが、さっきのオマエの言葉で踏切りがついた。
一緒に来い、と言ってくれたな? 友として思わねば口にできぬ言葉だ。
それゆえに、わたしはオマエを信じよう。
だが、話して聞かせるには約束が必要だ。
生涯の友として、だれにも、言わない、と約束できるか?」
「生涯の、友」
アスカの言葉に力みがなかったぶん、その重みが逆に伝わった。
アシュレは頷いた。
つぼみが綻ぶようにアスカは笑った。いいだろう、とこちらも頷いた。
「鋏さ、アシュレ。フラーマの失われた神器、《フォーカス》:〈アズライール〉が、ここにはある」
「運命を、命脈を断ち切る鋏?」
アシュレは、アスカが語った神話のなかで天使としてのフラーマが司る真の象徴がそれであったことを思い出した。
そうだ、とアスカは頷いて見せた。
「それを取り戻しにきたんだ」
「なんで、そんなことが、わかるんだ?」
「簡単な推理だよ、アシュレ。もちろん、裏づけを得るためにさんざん図書館に籠るはめにもなったがな。
フラーマの持ち物であったふたつの《フォーカス》=未来を見通す銀の仮面:〈セラフィム・フィラメント〉、そして、運命すら断ち切るという鋏:〈アズライール〉。
騎士:ゼ・ノが剥ぎ取り、アイギスに捧げたのは〈セラフィム・フィラメント〉だけ。それはいま、我が宿敵、カテル病院騎士団の大司教位に受け継がれている。
では、〈アズライール〉はどこへ?」
それは、とアシュレは口ごもった。理由はふたつある。
ひとつにはカテル病院騎士団とフラーマとの接点を指摘されて動揺したから。
そしてもうひとつは、所在不明の〈アズライール〉の現在に目星がついたから。
取り返されていないのであらば、それはおそらく。
口ごもるアシュレが言葉にするより早く、性急な性格なのだろうアスカが先んじた。
「それでは、もう少しヒントをやろう。ほとんどの神話では意図的に省かれていることだ。
なにしろ、神の御使いたる天使が不具であったなどと書き記すことはできないからな。
だが、なににでも例外は存在する。たとえば、この外典がそうだ」
アスカは言いながら帯を解いた。
いや、それは帯ではなかった。
その内張に刺繍によって物語られる一連の絵巻物だったのだ。
受け継がれた物語を風化させない工夫だった。
そこには、精緻な刺繍で不具の天使が描かれていた。
フラギュール、と名がある。間違いない、イクス教圏で語られる天使:フラーマだった。
「見ろ」とアスカがアシュレにその図を示した。
帯からはアスカの匂いがする。アシュレはその図案に衝撃を受けた。
フラーマの両脚は明らかにヒトのものではないカタチで描かれていた。
「まさか、これが〈アズライール〉……義足のカタチなのか?」
「騎士:ゼ・ノの〈アーマーン〉は義手であったそうだよ」
もしかすると、聖女:アイギスは自らのその腕をゼ・ノに託したのかもしれないな。
アスカは瞳を伏せて言った。
「じゃあ、騎士:ゼ・ノとアイギスがフラーマから〈アズライール〉を取り上げなかったのは……」
「どれほど変わり果てても、自らの妹から義足を取り上げることはできなかったから。あるいは、自害の手段を残したかったから——妹の最後の《意志》を信じて」
始末は自分でつけろ、とわたしには聞こえるのだがな。
どこか皮肉げに笑いアスカはアシュレから身を離した。
帯を巻き直すようにアシュレにジェスチャーした。アシュレは素直に従う。
「アラム圏から奪われた神器をひとりで奪い返した英雄となれば、大臣どももおいそれと手出しできまい?
わたしには権力が必要なのだ。肩書きも、な。
フラーマを打ち倒し、〈アズライール〉を手に帰還すること。
それがわたしの当面の身の安全を保障する策なのさ」
もっとも、それは足がかりにすぎんがな。にやり、と笑ってアスカが言った。
帯を巻き直すたびに、あの乾性で陽気なアスカが戻ってくるようだった。
「だからって」
「そんなに心配なら、生死を共にすると約束するがいい。褒美は望みのままぞ」
すっかり王族の顔になってアスカは言った。
それから、打ち倒されたフラーマの落し仔たちを見下ろした。
「見るがいい、アシュレ。運命に翻弄され、蹂躙されたものたちの遺骸を」
融けかけた遺骸の多くはまだ、アラムの衣装を身に着けていた。
おそらくは奴隷であったのだろう、手枷足枷を帯びたものがあった。
皮鎧に長衣の男は弩兵か。そして、一際豪奢な帽子の姿は高級士官だろう。
けれども、その生前の位に関わらず、そのすべてがおぞましき怪物と成り果てていた。
「わたしの指揮したアラム海軍は、刃も交えず全滅した。
落し仔どもが、あの無粋な短剣を武器として振るうのはよほど強い《意志》の持ち主か、《スピンドル》能力者にだけさ。
奴らの哀れな鳴き声は、常人にはまるで慈母のささやきに聞こえるらしい。
男たちは次々と魅入られ、自ら船べりを離れていってしまったのさ」
アスカの告白に、アシュレは《スピンドル》能力者だけを選抜した威力偵察を選択した自分たちの正しさを実感した。
「落し仔たちの鳴き声は、それを聴く者の内にある望みに訴えかけるのだろう。
わたしには、さっぱり理解できなかったが。オマエは皆と同じ輪には入れない、と言外に言われたようで、じつはすこし寂しい思いをしたものだ」
本気とも冗談ともつかぬ表情で、アスカは言い、肩をすくめて見せた。
「なまじ夢など見るから苦労する……そう言われた気がしたよ」
アスカが兵たちを悼んでいるのだとアシュレにはわかった。
ただ、この砂漠の国の姫はその悲しみ方も乾性なのだ。
「……アスカ、ひとつ聞かせてくれ」
「いいとも、我が生涯の友」
「もし、ここに〈アズライール〉があったとして、それを手に入れたとして、キミはそれでなにをしようというんだ」
知りたいのか、とアスカは小首を傾げて見せた。どこかはにかむような顔だった。
「……助けたいヒトが、いるのさ」
その答えをアシュレはうまく確認できなかった。
ぱしゃり、と水音がした。船べりに新たな影が湧出しつつあった。
「やつら、まだまだ来るようだぞ」
素早く身を離しながら、完全に調子を取り戻したアスカがジャンビーヤを構えた。
アシュレも即座に騎士の顔となり、応じる。
「アスカの言うようにこの船の全員が下ったのなら、その眷族は西方の船も合わせれば数千から一万という数だ。まともに相手などしてられない。
一刻も早くみんなと合流して、本体を叩かなきゃ」
「あてはあるのか?」
「牽制と目印を兼ねるさ」
アシュレは《スピンドル》を励起させ、技を放った。
宙へ向かって。昼とも夜とも判別のつかぬ濃い霧の世界を白銀の光条が貫いた。
《ラス・オブ・サンダードレイクズ》。
本来このような場面で使うことのない大技をアシュレは仲間たちへの生存証明と位置確認のために使った。
切り裂かれた乳白色のカーテンの向こうに星空が一瞬だけ見えた。
落し仔たちだけではなく、アスカが身をこわばらせ、竦み上がった。
それから、朝日に霜が溶けるように笑った。
「それが、オマエの実力か!」
やっぱり、オマエはわたしと来い! 猛烈な勧誘を受けた。
笑みだけでそれを受け流し、あぶないよ、とアシュレはアスカを左手に庇った。
焼けた〈シヴニール〉に触れたら一瞬で皮がずる剥けになってしまう。
「いまの技で、この島ごと焼き払えば早いだろうが! さすればフラーマも出てこざるをえまい。命じるぞ、アシュレ、やってしまえ!」
「アスカ……それは、過激すぎるよ。みんな焼け死んでしまうよ」
二射目の直後に反応があった。
青白いスパークが、まるで雷雲のように水面近くで起こった。遅れて雷轟が。
アシュレにはその周囲で吹き荒れているであろう清冽なバラの香りまで感じられるようだった。
「よしっ、応えた! 〈ローズ・アブソリュート〉! シオンたちだ」
「例の夜魔の姫か……オマエ、ほんとうにその姫に惚れておるのだな。ぞっこん、というやつか」
短剣を脇腹に差し込まれるような鋭い指摘に、アシュレは狼狽した。
「なんでわかるのか、か?
オマエの阿呆面を見てれば、だれにだってわかるだろが。
だが、それほど想った女がいるのに、わたしに、一緒に来いだのと粉をかけてくるとは腹が立ってきたぞ。
オマエ、じつは二股などと、かけていないだろうな」
ぎくぎくっ、と心臓が不整脈を打った。アスカが軽蔑した顔をした。
「はーん、図星か。なんと、破廉恥な、けしからん。
どおりで、わたしの胸のサイズにご注文がうるさいわけだ。熟練の手つきというわけだ。
さぞや、ご不満なサイズであったことだろうよ。
とんだ聖騎士どのもあったものだ。
さっきの調子で、ずいぶん婦女子を泣かせて来たのだろうが。ふーん、へーん、ほーん」
アスカが言った。
アシュレは技の掃射を中断した。手が滑って、意図せぬ場所が炎上しそうだった。
「あう、え、と」
「あーんしんせーい。アラムの王になれば、女は囲い放題だぞ?」
オマエ向きの国だと思わんか? アスカが意味深に笑った。
豊満な女ばかりでは飽きるというもの。
肉も脂身ばかりでは胸焼けするだろう? 質のいい赤身もキープしておいたらどうだ?
自らの胸に手を当てて真顔でアスカが言うものだから、アシュレは返答に困ってしまうのだ。




