■第一五九夜:しあわせは絵のように
「正しさを掲げる者よ、強者の世を謳うものよ、弱者による偽りを嗤う者よ──どうした、これが貴君の信奉する真実の残酷さだ」
よろめく足取りで玉座に座りなおし、乱れて汗で張り付く前髪もそのままにルカティウスは言った。
そのころ飛翔艇:ゲイルドリヴルの指揮所で、同じくオズマヒムも、よろめき後退っていた。
脇に控えていたオディールが走り出て支えなければ、転倒していただろう。
右手で額を押さえ、膝をつく。
さらにゴキン、ギギギとゲイルドリヴルの巨大な船体が唸る。
ミシリメキリ、と軋みが上がり、腹の底に響く震えが伝わる。
徐々に押し戻されているのだ、数千トロンは優にあるだろう巨大な飛翔艇のボディが!
外部からの視点があれば、めきり、ごきり、と艦首装甲がへこんでいくのが目視できただろう。
飛翔艇:ゲイルドリヴルは《フォーカス》である。
つまり《意志》で駆動するデバイスだ。
だから、いま現在の主たるオズマヒムの変調をもろに受ける。
それにしても、いかにその隙を突いたとはいえ《フォーカス》で出来た装甲を損壊させるとは、恐るべきは積み重ねられた時間の《ちから》ということか。
「オズマヒムッ! 落ち着け。あれは、あれはまやかしだ! 奴らの得意とする偽りだ!」
真騎士の乙女:オディールが動揺を見せたオズマドラ大帝を叱咤する。
それは英雄の介添人としての彼女たちの本来の姿。
だが、そこに異論を挟んだのは、すでにこちらも疲労困ぱいであろうに勝負を諦めていない文人皇帝のほうだった。
「それは心外だな、真騎士の乙女、黒翼のオディールよ。本当にそう思うなら、喝破してみせるが良い。そのアラム・ラーの瞳でわたしを正気に帰してみるが良い。真実は変わらぬが」
「クッ」
目をつぶり、しきりに頭を振るオズマヒムを支えたまま、オディールは唇を噛んだ。
オズマヒムの心の空隙にいまも突き立つ「アスカリヤ」という名の毒鏃のことを、オディールとて意識してこなかったわけではない。
いや、むしろよく知っていたからこそ、オディールはこのヘリアティウム侵攻に対して、オズマヒムをけしかけたとさえ言える。
なんとも奇妙な話だが、オズマドラ第一皇子アスカリヤは、オディールにとって姪に当たる存在だ。
その母親:ブリュンフロイデは、つまりオディールの妹である。
もちろん実際に血の繋がった血縁という存在そのものが、極めて珍しい真騎士の乙女たちのことだ。
オディールとブリュンフロイデの関係は、つまり精神上の姉妹としてのこととなる。
それでもたしかに己の技と精神、そして愛を惜しみなく注いだ存在としてのブリュンフロイデは、オディールにとって血よりも濃い絆で結ばれたかけがえのない妹、そのものであったのだ。
だからこそ、英雄の血筋だけを尊ぶ真騎士の乙女としてではなく人間の妻として、いや、奴隷として生きることを選んだ妹──ブリュンフロイデの堕天を知ったときのオディールの失望と落胆はあった。
転じて、そこから生じた激憤は、文字などで書き表せるほど簡単なものではない。
その妹が見初めた男、オズマヒム。
懊悩と激しい怒りを抱いてオディールがアラムの地に舞い降りたとき、当のブリュンフロイデは、すでにこの世のヒトではなくなっていた。
目の前が真っ暗になるような絶望に打ちひしがれつつも、離宮に引き篭もって酒浸りの生活を繰り返していたオズマヒムの前に、オディールは辿りついた。
そこにいたのは無精髭を剃りもせずいぎたなく横臥する……かつてアラムだけでなく西方世界にまでその名を轟かせた英雄ではなく、世の中に倦み疲れた抜け殻だけだった。
「ブリュン、なのか? 我を……いや、オレを殺しに来てくれたのか」
起きろ、と槍の石突きで小突いたオディールに、オズマヒムが言い放ったセリフがそれだ。
どれだけ憎い相手であろうとも、真騎士の乙女の矜持として泥酔し寝込んだ相手を刺し殺すわけにもいかなかったオディールは、このとき激しく狼狽した。
「ブリュン、ああ、オレのブリュン。夢ならどうか醒めないでくれ。もし、夢なら醒めるまえに、オレを殺してくれ……」
それまでの弛緩しきった態度はどこにいったのか。
オズマヒムは跳ね起きると、オディールの足下に跪き、死を願った。
『我をブリュンフロイデと見間違えているのか』
オディールの心中に憎悪とも憤怒とも思慕ともつかぬ想いが湧き上がってきたのは、このときだ。
この当時でもオズマドラは強大な軍事国家であり、その頂点に座するオズマヒムの権勢は凄まじいものであった。
ブリュンフロイデ亡きあと、女を囲おうと思えばそれこそ千の単位で美姫中の美姫たちを揃えることができたはずだ。
だが、どうだろうか。
オズマヒムの居室には女の気どころか、愛玩用の小姓のそれすらない。
無聊を慰める踊り子・舞姫、楽士の類いすら、オズマヒムは寄せ付けなかったのだ。
それどころか妹の復讐を果たすべく舞い降りたオディールを、当のブリュンフロイデと勘違いしたまま、夢うつつのままの死を乞うている。
ふざけるな、という言葉がたぶん当時のオディールの心中をいちばんよく表しているだろう。
第一に、こんな腑抜けた男に妹はその愛と貞操、そして生涯を捧げたのかという怒り。
第二に、このまま乞われるままに死を与えてしまったら、復讐どころか救済になってしまうという不条理への困惑。
第三に、妹たるブリュンフロイデに間違われたまま、という屈辱。
特に真騎士の乙女として、第三の事案だけは決して看過できぬことであった。
妹とはいえ、いいや妹であるからこそなおさらに、死んだ恋人を投影されることはどうにも我慢ならなかった。
もしこのとき、オディールの胸中にブリュンフロイデの復讐という、オズマヒムへの激しい憎悪がなかったら。
かつ、オズマヒムのなかにブリュンフロイデへの愛慕の念が、これほど強く残っていなければ。
たぶん後世の歴史は違っていたはずだ。
オディールはそのたおやかな胸の内に、どす黒い感情の泉が湧き出すのを感じた。
この男とこの國を真の意味で破滅させてやりたい、という暗い欲望。
それは表面上、オズマヒムへの怒りと憎悪で出来ていたが、本当はもっと後ろ暗い感情が根にあった。
それは嫉妬。
ブリュンフロイデという女への、真騎士の乙女としての嫉妬である。
あるいは姉でありながら、いまだに英雄としての伴侶を見出せずに生きてきたオディールが、これまでずっとその心の底に抱いてきた感情なのかもしれなかった。
若くして愛を得た妹。
それは悲恋であったかもしれない。
非業の死であったかもしれない。
しかし、その死後、ここまでひとりの男に想われた。
世界に冠たる帝国の大王に「夢なら醒める前に殺してくれ」とまで言わしめた。
その暗い想いが計画として結実したのは、オズマヒムの居室に掲げられた、一枚の肖像画が目に留まったときのことだ。
それは最初、西方世界イクス教圏の宗教絵画に見えた。
聖母子像。
ありふれた、そして、そうであるがゆえに有名なモチーフ。
だが、ここはアラム教圏だ。
アラム教徒は、偶像崇拝を喜ばない。
彼らの聖印は、唯一神アラム・ラーを表すと言われているが、実際には人型ではない。
翼あるヒト型を表す、というだけで実際にそこにはヒトの特徴はなにひとつ刻み込まれていない。
ひるがえって、アラムではこのような肖像画も、ほとんど目にすることはない。
では、これはなんだ。
このしあわせそうに、愛しげに赤子を抱く、ばら色の頬の娘の絵は。
それがブリュンフロイデの似姿なのだと気がつくまで、オディールにはずいぶんと時間が必要だった。
「なんだ、これは……」
「ああ、ブリュン。オレのいとしいおんな。アスカリヤ……オレの……すべて……オレの……そのはずなんだ。オレとブリュンの……その、はず、なんだ」
意識を混濁させたまま、跪いたオズマヒムが呻くように言った。
そのひとことで、オディールはすべてを悟った。
「ヒトとの間に……英霊にまで達することなく穢れた肉を持ったまま──契り、子を成した、だと?」
ばかな、と今度はオディールが呻く番だった。
まさか、と口元を押さえる。
あり得るはずがなかったからだ。
いいや、と記憶を手繰った。
いいや、耳にしたことがある。
どこかで。
いつか。
それは禁断の邪法。
異なる種族同士の間に子を成す、禁忌の業。
“狂える老博士”たち。
「まさか、キサマら……」
取引した、というのか。
オディールの脳髄を、重ハンマーで打ちのめされるような衝撃が走り抜けた。
まさか、妹は、あの美しくも清らかだったブリュンフロイデは……人間たちの欲望の贄にされたのか。
奴隷の身分に堕しただけでは飽き足らず、世継ぎ欲しさにコイツらは“狂える老博士”ども──あの外道どもと結託したというのか。
この瞬間、オディールは決めたのだ。
この世の人間、ヒトというヒト、その人種を問わず男どもすべてを選別する。
選良し、ふるいにかけ、試練を与え英霊にする。
それ以外?
根絶やしだ。
英雄でないものなど、必要ない。
汚らわしい男という種、そのものを根絶する。
素晴らしいもの、高潔なものだけが生き残る。
英雄か、さもなくば死か。
そのために、この男を利用する。
この國そのものを利用する。
そして、アスカリヤ。
罪の子。
オマエは、我が妹:ブリュンフロイデの名誉のため。
ひいては我らが真騎士の乙女たちの尊厳のため。
清めなければならない。




