■第一五五夜:真実に迫る者
ぞぶり、という熟れた果実に刃を突き込んだがごとき音がしたのは、直後のことだ。
声にならぬうめきとともにゾディアック大陸最古のオーバーロード:ビブロ・ヴァレリの口元から、刺激的な匂いがする内溶液が噴き出し、おとがいを伝って滴り落ちる。
「き、さま、シオンザフィル。いままでどこに」
それまでアシュレにだけに向けられていた瞳が、ぎこちなく背後を見やる。
言葉を発するたびに幼女を擬態する唇から、ぐぶ、と汁が漏れる。
「いたさ。ずっと。我が主の背中に控えて。いまかいまかと出番を待ちながら、いざとなれば大いなる冠:アステラスの加護を用いて、貴様のふしだらで陰湿な物語からその精神を護るために」
もっとも、それは杞憂に過ぎなかったようだが。
ビブロ・ヴァレリの肉体を背後から差し貫いたまま、シオンはアシュレに目配せした。
「実際は、ちょっと危なかったけどね」
アシュレが苦笑して言う。
びくり、とスノウが羞恥に震えた。
クイッ、とシオンの特徴的な眉が跳ね上がる。
「そなた、ワザとではあるまいな。スノウの心を玩ぶことに、よもや愉悦を感じたりはしなかったであろうな」
「ワザとかと問われたら、違うとは言い切れない。愉悦がなかったかといわれたら……男としては否定できないかな? でも耐えきっただろ。言ったじゃないか、行いと《ねがい》の間には《意志》が立ち塞がっているんだって」
「悪党め」
「褒め言葉として受け取っておくよ、いまは、ソレ」
シオンとアシュレの間で交される軽口に、最初はあっけにとられていたビブロ・ヴァレリだったが、ことここに至っては、きりきりと柳眉を逆立てた。
「貴様らァアアアアアアッ!!」
言葉が呪詛となり迸りかける。
「おっと口汚い罵りはそこまでだ、ビブロ・ヴァレリ。人類の行いを好き勝手に編纂し、史書を偽証し、多くの人々の人生を狂わせてきた報いを受けるときが来たぞ」
ビブロ・ヴァレリの口をついて溢れ出る怨言を封じてシオンが言った。
最古のオーバーロードは吼える。
「鋼やそれに類する刃ごときで我を封じられると思うてかッ! 筆は、言葉は、物語は、剣になど屈さぬわ!」
「いまオマエの肉体に突き込まれているのは剣ではない。それどころか刃ですらない。わからんのか、ビブロ・ヴァレリ」
不敵に笑ってシオンは続ける。
「この切っ先に込められているのは、オマエたちがどれほど望んでも辿りつくことができなかったもの──観測しても理解できず、当然、獲得も出来ず──なんとか懐柔しようとした《ちから》だ。もっとも、それは叶わぬことだが。つまり、ただただその《ちから》を前に、打ちのめされるのがオマエたちの運命なのだ」
「なん……だと」
ぐぶりめきり、という衝撃を伴って、シオンがさらに切っ先を奥へと突き込んだ。
その先端部がついにビブロ・ヴァレリの背中から薄い胸乳へと抜ける。
「あああああああああああ、な、なんだこれはッ?!」
数千年を生きた最古のオーバーロードが驚愕に叫んだ。
そこから覗いていたのは真っ白な骨を思わせる尖角。
精緻な彫刻を施された優美な切っ先。
これこそはかつて土蜘蛛の姫巫女たちの手で、シオンの肉体に突き込まれ、肉体と癒着してしまった人体改造の忌まわしき魔具:ジャグリ・ジャグラが辿りついた完成形。
かつてはおぞましい漆黒の欲望に満たされていたそれは、すでに《意志のちから》に洗われ本来の姿と権能を取り戻していた。
すなわち、己の心や精神を直接相手に伝達するためのデバイスとしての機能を、だ。
そして、夜魔の姫の肉体と直結するそれは、現在、シオン自身がそうであるようにアシュレの《魂》と直結している。
「まさか、まさか──やめよ、やめてくれ、おねがいじゃ!」
すべてを理解して、ビブロ・ヴァレリが泣き叫んだ。
数千年という時の流れのなかで、この魔物を泣かせたのはアシュレとシオンが初めてだ。
もちろん叛逆のいばら姫には、口先だけの嘆願など通じない。
その舌と筆で幾多の人々の人生を狂わせてきた怪物には、キツイお仕置きが必要だ。
「いまさらそんな程度の懇願で許してもらえると思ったのか?」
「いやじゃいやじゃいやじゃ」
ビブロ・ヴァレリが童子のごとく泣き叫ぶ。
しかし、シオンは眉ひとつ動かさなかった。
かわりに叫んだ。
「アシュレ、いまだッ!」
その指示にアシュレは躊躇わず応ずる。
ドクンッ、と鼓動がひときわ高鳴り、次の瞬間、莫大なエネルギーがシオンとその胸から伸びるジャグリ・ジャグラを経由して、泣き叫ぶオーバーロードへと注ぎ込まれる。
ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ、GAaaaaaaRuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuu────ッ!!
もはや人語ではあり得ない叫びが、蛇の巫女たちの神域を揺るがした。
天井に壁面にと、幾何学模様状の亀裂が走る。
追いつめられたビブロ・ヴァレリが己の権能を振るい、ついにこの領域までを支配下に置いたのだ。
それまでカミソリの刃ひとつ通る隙間さえなかった石組みが、まるでパズルのように崩されていく。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛────滅ビヨ、滅ビヨ、ナニモカモッ!」
「無駄なあがきをッ!」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛、アシュレダウゥゥゥゥゥッ! い、いますぐやめよ、《魂》を、オマエたちの《ちから》を注ぐのを、やめろろォオオオオオオ! さもなくば、さもなくば、この娘は、それだけじゃないオマエたちの愛した者のことごとくを、メチャクチャにしてやるぞおおおおおッ!!」
ビブロ・ヴァレリが叫ぶが早いか、天井にはいくつもの場面が投影された。
虚空を落下しながら崩れていく塔の上で、身を寄せ合う土蜘蛛の姫巫女姉妹と老いた従者。
押し寄せてくる図書館の瓦礫を、その両腕で捌いているカテル病院騎士団の男にさらなる危機が襲いかかる。
愛馬の姿は影もカタチもない。
《ちから》を使い果たし裸身で眠る美姫の寝所は周囲から崩落しはじめている。
そして、本棚にもたれかかったまま動かない土蜘蛛王の周囲は、十重二十重に死蔵知識の墓守が取り巻いている。
「妾が、この世の真の歴史の記録者である妾を本気にさせた報いを受けよッ! いいかアシュレダウ! いますぐ《魂》を停止させよ。さもなくば、汝の愛するものすべてをこの世から消し去る。そして、スノウ、もまた無事ではすまぬのだぞッ!」
強烈な強制力を持つ恫喝が、ビリビリと大気を震わせた。
もし、アシュレが並の胆力の持ち主だったのなら、この脅しに簡単に屈してしまっただろう。
だが、ここにいるのはすでに覚悟のその先へ──《魂》へと到達した男だった。
到達者にして永遠の挑戦者としてのアシュレの答えは簡潔だった。
「やってみろ」
「な、なに?! なんと言った、いま、キサマッ?!」
「聞こえなかったのならもう一度、言ってやる。やってみろ。そう言ったんだ」
「ば、バカな、本気だぞ、わたしはッ!」
狼狽したのはなぜか恫喝したビブロ・ヴァレリの側だった。
アシュレは超然とした態度で、うろたえるオーバーロードを眺めている。
「わたしの忠告を無視するとは……愚か者めがッ!」
見せしめとばかりにビブロ・ヴァレリが権能を振るった。
標的はもちろん一番近くにいる存在=スノウだった。
あああああああっ、とスノウが叫ぶ。
「キサマたちが流し込む《魂のちから》、その伝達経路を太くした。そのまま《ちから》を振るい、わたしへの注入を止めなければ、この娘の精神は吹き飛ぶぞ。どうだ、アシュレダウ、できるか。できまい」
この娘の心を愛するキサマには、できるはずがあるまい!
アシュレの弱点を突いたとばかりに凄みのある笑みを、ビブロ・ヴァレリは広げた。
効果のほどを証し立てるように、スノウが目を見開き、背筋と首筋を弓のごとく反らし叫びを上げた。
壊れる、壊れてしまう──めちゃくちゃに、なってしまう。
幼子のように首を振る。
だが、アシュレがしたことと言えば、そのかたわらに膝をつき、ただひとこと謝罪しただけ。
いいやそれは、正しくは謝罪ですらなかった。
「いまから、スノウ、キミをボクの所有物にする」
たったそれだけ。
しかし、それだけでスノウにはすべてが伝わった。
一瞬、悲鳴が止む。
歯を食いしばった泣き顔が、同意に頷く。
慟哭する。
いいや、それは心からの請願。
「こわして、わたしを、スノウを、スノウメルテを、めちゃくちゃにして──アシュレダウ、わたしの、わたしたちの騎士さまッ!!」
その瞬間には、もうアシュレは躊躇を捨てている。
続いて絶叫が響き渡る。
それは《魂》に焼かれるスノウの心の音だ。
「な、んだと、おおおおおおおおおおおお、きさま、キサマああああああ、アシュレ、アシュレダウ──この娘の心はズタズタになる、なるんだぞおおおお」
「オマエに任せておいても、スノウはオモチャにされるんだろう? ならばボクが責任を持って壊す。玩ぶ。踏みにじる」
アシュレの宣言に、またスノウの呼吸が止まる。
だが、そこに浮かぶ表情は不快さではない。
震えて眉根を寄せる頬が、染まっている。
流れ落ちる涙の質は、いつの間にか変じている。
「おおおお、キサマは、キサマたちは、く、くく、狂っている。やはり《意志》は病! 《魂》などあってはならぬ、全凡人類世界への害毒────」
「それを判断するのは、オマエではない」
「いいや、妾こそ、総意の代弁者! その妾が判定を下す! クレイジーッ、アシュレダウ、キサマは確実にクレイジーッ! 狂人だ──ッ!」
金色に光る瞳を充血させ喚き立てる魔導書に、アシュレは凄みのある笑みで応じた。
なるほど、あるいは、と呟く。
「狂人ときたか。なるほど、それは。しかし、だとするとこれからオマエはその狂人の所有物となるわけだ。ボクがスノウを我が物とすると宣言したということは、つまりそういうことになる。なるな? オマエとスノウの融合がもはや解けぬと言うのであれば」
「なあああああああ、なあああああああああんだと?! 思い上がるなキサマ。この妾を思い通りにしようというのか。モノとして扱おうというのか。不敬、不敬、不敬ッ!」
「人類の恥部と暗部を選り好みして記してきた禁書よ。今度はヒトの手がオマエの不実と本性とをあきらかにする番だ。陽の光の下で、一枚一枚、精読し隠してきた世界の真実をあぶり出し、泥を吐かせてやる」
「やめろ、やめろやめろおおおおおおおおッ!」
「もう遅い」
スノウに手をかけた時点で、オマエは交渉のやりかたそのものを間違えたんだ。
言い放ち、アシュレは《魂》をよりいっそう強く深く撃ち込んだ。
スノウとビブロ・ヴァレリ、ふたりの絶叫は内側から注がれる《魂》の光に照らされ大気を震わせた。




