■第一五四夜:看破
「理解の根底たる規矩が違う? それを是正するとはつまり、全世界の言語を統一するような話をしているのか。オマエは」
世界最古の魔導書にして史書と称するオーバーロードの言葉に、アシュレは自分の解釈をぶつけた。
ふうん面白い。
ビブロ・ヴァレリは一定の理解を示す。
「ほほう、すこしは頭の回る。さすが元聖騎士といったところか。言語、あるいはテーブルマナーと言い換えてもよいかもしらん。テーブルと料理と礼儀作法。より具体的に──たとえば──失われた統一王朝:アガンティリスの再興……そう言ったら?」
「!」
いきなり登場したかつての統一王朝:アガンティリスの名に、アシュレは息を呑んだ。
かつて、あらゆる人種が分け隔てなく通じ合えていたという、地上に降りた理想郷。
そこではすべての人々が「絆」で繋がり合い、互いの想いを遠く離れていても伝え合うことが可能だったという。
幼き日より、アシュレが憧れてきた古代の世界。
世界最古のオーバーロードは、こともあろうにその写しを、ふたたびこの世界に再臨させようとのたまったのだ。
なるほど以前のアシュレならば、その申し出に心を動かされていたかもしれない。
だが、いまここにいるのは幾多の死地を潜り抜け、多くを学んできた男だった。
数多の暗い夜が、少年を大人の男性に育てた。
決然とアシュレは言った。
「《意志》を病と見做して滅んだ國。その再興に、いまさら意味があるとは思えない」
アシュレの言葉にビブロ・ヴァレリはかぶりを振った。
バカな、と嗤う。
「汝の言う《意志》が世界をこんなふうにしたのだぞ? 人々が通じあうための絆──“庭園”を焼き、世界を分断し、混乱に導いた。わたしの肉体には、その愚かな歴史がこれでもかといわんばかりに刻まれ、詰め込まれている」
「《スピンドル能力者》たちは懸命に生きようとしているだけだ。独立した個人として。己の考えを手放さぬ者として」
「その懸命さが世を乱すと言っているのだよ、若者」
それに、と古きオーバーロードは続けた。
「それにすべては総意に基づく決定だ。つまり真の民意、真なる人々の《ねがい》だよ」
「心の奥底にある《ねがい》と、現実に現れる人間の行いは等価ではない。それは現実の行動と《ねがい》の間に《意志》が立ち塞がり、問うからだ。それでよいのか、と。言うからだ。ケダモノの欲望に身を任せるな、人間たれ、と」
「その人間としての生き方という規範が、多くの者には耐えられなかった。《意志》ある者として生きるという志が、人々の心を破壊し、人間を断裂せしめたのだ」
だから《意志》は病とされた。
ビブロ・ヴァレリはそう締めくくった
なおも言い募ろうとするアシュレを制して、微笑む。
「汝の言うこともわかる。高潔に、独立した考えを持つ個人として生きようとする困難。その困難に立ち向かうための動機こそが《意志》。その主張には、いくぶんかにせよ同意する部分がある。それらすべてを病と判断したかつての総意には、改めるべきところがある。いや、改めるべきところがあると我々も考えた。数千年の時を経て、おおむねそのような理解と合意に達したのだ」
アシュレは沈黙する。
言葉を失ったのではない。
ビブロ・ヴァレリの話の続きを待っているのだ。
はたしてそれをどう理解したのか。
魔導書の姿をしたオーバーロードは言った。
「だんだんと理解に達してきたようじゃな、若者よ。そうじゃ。すくなくとも妾は汝らとの争いを望んではおらぬ。ただ、なって欲しいだけなのじゃ。我らの真なる共感者として、その《魂のちから》を振るって欲しいだけなのじゃ」
アシュレに言葉はない。
ただその瞳だけで問う
具体的には、ボクになにをしろというのか。
アシュレの問いかけにビブロ・ヴァレリは息も絶え絶えなスノウの胸乳に顎を乗せ、妖艶な笑みを浮かべた。
「そうさなあ。まずは契約じゃ。妾と汝は契約者となる。汝は妾の、妾は汝の《ちから》を振るう。もちろんこのスノウは妾であるから、汝の好きにするが良い」
すでに我が物にしたと言わんばかりの口ぶりで、ビブロ・ヴァレリはスノウを差し出した。
ひくりひくり、とその肉体はかすかに痙攣を繰り返している。
「もはや汝に、己の恥部を理解されてる快楽に微塵も抗えぬ様子。完全に虜じゃ。これより先、汝に溺れていくさまをしっかり記録してやるから、何度も読み返して責めてやるがよい。それが悦びにしか感じられぬようにしておいたからな。本と同様、ヒトも己の人生を読まれることに至上の悦楽を感じるものよ……だからこそ歴史に名を記したがる……」
艶然と笑うビブロ・ヴァレリに、アシュレも笑みで応じた。
つまり、と己の理解を口にした。
「つまり、世界の規矩そのものを書き換えようというのか、オマエは、ビブロ・ヴァレリ」
「そうじゃよ、おまえさま。我が真なる共感者。そこには、無能力者も《スピンドル能力者》も《魂》の持ち主もない。黄金律によって統一された、過ちのない、平等で、だれもが通じ合い、分かり合える世界がくるのじゃ」
「まるで神の所業だ」
「かつてアガンティリスを治めた始皇帝も、同じ心持ちだったのではないか。いまの汝と」
つまり、アシュレに世界の覇者たれとビブロ・ヴァレリは言ったのだ。
その申し出の不敵さに、思わずアシュレは笑った。
その笑みを合意と受け取ったビブロ・ヴァレリは、若き騎士に契約の右手を与える。
姫君がそうするように。
だが、アシュレはその手を取らなかった。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもない。オマエたちの造る理想郷に、ボクは興味がない」
「なん……だと?! 汝、いままでなにを聞いていたのじゃ?!」
「聞いていたよ、全部。理解したさ、すべて。だけど、ボクに読ませるべきではなかった。スノウの記憶をすべて読ませるべきではなかった」
「な……に?」
「シオンやイズマ……魔の十一氏族の生まれてきたわけ。半夜魔としてスノウが生まれてきたわけ、そしてオマエたちの思惑──それらすべてをボクはもう知っている」
む、と呻いたのはビブロ・ヴァレリだ。
アシュレに強制的に認識させたのは、主にスノウが恥部に感じる部分だけだ。
スノウという少女がアシュレのことをどう感じて、どう想ってきたか。
それがどんな変化と行動を少女に取らせたのか。
特にその部分を切り取って強く印象づけた。
そこに記されていたものは、たしかに事実だが、意図的な抜粋であり編集だった。
だから、いまアシュレが口にした部分は、アシュレにはいまだに把握されていないはずの記録なのだ。
ビブロ・ヴァレリはあらゆる過去を記録できる。
しかしそれは、読み手にすべてを誠実に伝えるという意味ではない。
むしろ事実の一部を切り取りすることで、真実を相手に誤認させる。
そうすることで契約者を操る。
これこそが最古のオーバーロードの手管だったのだ。
だからそこに記されていて閲覧できるのは──意図的に人類の愚行と恥部を強調して編纂された── 一種の偽史。
アシュレはそこを見抜いたのである。
「やはりオマエたち、オーバーロードは邪悪だ。いや、悪なのではない。じぶんたちの正義をまったく疑っていない。だから、なにをしてもかまわないと思っているのだな」
「な、なぜだ、その情報は──不要であろう。汝が見て知った過去は、あやまちの歴史。これからの世界には必要あるまい。いま、この世界とスノウを救うには無用のものであろ?」
「だから見せなかった?」
「情報はまとめねばならぬ」
「だから、勝手に切り取りした?」
「不要だったからじゃ」
「だけど、じゃあ、どうしてボクはその不要物のことを知っているんだろうな?」
「それは──な、なぜじゃ?」
「それは……見せてくれたからだ。スノウが、羞恥心と罪悪感に抗って、すべてをボクに」
「?!」
あわててビブロ・ヴァレリは己が肉体=ページを見下ろした。
そして見つけた。
小さな抵抗と操作のあと。
アシュレに理解され壊されていく心の悲鳴に抗いながら、スノウが伝えた事実の痕跡を。
彼女が見聞きし、その肉体を媒体に持ち帰った、この世界のほんとうの真実。
わたしの騎士さまに「見てください」と懇願したものの正体。
「オマエたちの理想が正しいのか、ボクたちの行いがあやまちなのか……それはわからない。しかし真実を記すと言いながら切り取りを繰り返しヒトを操ってきたオマエに、すくなくとも正義は一片たりとてない」
許さないのは、ボクたちのほうだ。
アシュレは静かに言い切る。
ひっ、とビブロ・ヴァレリの桜色の唇から、おそらくその誕生以来はじめての悲鳴が漏れた。




