■第一五三夜:理解こそ我が《ねがい》
「スノウッ! クソッ、ビブロ・ヴァレリッ! スノウを放せッ!」
「それは無駄というものだ、アシュレダウ、堕ちたる聖騎士よ。ククク、どうだ我が《ちから》は。もうすでにこの娘は妾と半分以上、融け合った存在。汝の愛するスノウの物語は、すでに我が肉体、すなわちこの世界の記録とひとつになりつつあるのだ」
見よ、とビブロ・ヴァレリは己が裸身、すなわち物語が綴られたページをめくった。
そこにはスノウがこれまでユガディールやアシュレに対して抱いてきた想いが言語に変換され物語となり、そうであるがゆえによりいっそう鮮やかに、美化されてあった。
残酷で淫靡な、独占欲と肉欲と、そして切実な愛の物語。
アシュレとて、意識してそれを読もうと思ったわけではない。
しかし、ビブロ・ヴァレリの言語:古エフタルは、まるで頭のなかに直接入り込んでくるような浸透力を持って、強制的に認識を迫ってくるのだ。
「クッ。スノウ……これは……こんな……まさか」
「みないで、みないで、みないで、騎士さまッ! ああ、かみさま、おねがいです……みないで、よま、ないで」
迫り来るイメージを振り払おうとするが、拒絶すればするほど物語は絡みついてくる。
ありえない、そんなはずない、と否定すればするほど、そのすべてが真実だと分かってしまう。
かつてスノウが、どのような感情をユガディールに抱いていたのか。
その代替者としてのアシュレに、いまやスノウがどんな感情を持っていて、慕い、想っているのか。
毎夜、その想いに駆られて、どのような行いに及んでしまうのか。
己の主人としてのアシュレに、どんなにふしだらな期待を持ってしまっているのか。
それらすべてをアシュレは把握してしまった。
いいや、正確には強制的に認識を迫られた。
恐るべきはビブロ・ヴァレリの精神攻撃。
すべてを暴き立てられ、スノウは壊れたように泣く。
半夜魔とはいえ、十代の少女にとって憧れた相手に己の恥部を余さず把握されてしまうことは、どのような拷問より耐えがたい。
またそれを把握してしまった男が、どんな心持ちになるものか。
ビブロ・ヴァレリは完全に人間の心の動きを読み取って、行動に出たのだ。
ぎゅっと目を閉じるスノウは、せめて現実から逃避しようとするが──それはあらかじめ封じられてしまっている。
ビブロ・ヴァレリに記された記録は、すでにスノウの肉体のいちばん敏感な箇所と成り果てている。
アシュレの認識がいま、自分の恥部のどこを把握しているのか、まるで指でその部分を確かめられるように感じてしまうのだ。
あああ、いい、とビブロ・ヴァレリが甘く鳴く。
スノウと同じ感覚を、この魔導書は共有している。
ごまかすことなど不可能なのだ。
すべてが把握され、それがまた記述に残る。
死んでしまいそうなほど恥じ入って、スノウはますます身を固くする。
だが、それこそ無駄なあがきだ。
さきほど行われた感覚改変が、スノウの尊厳を根こそぎ踏みにじる。
羞恥と罪悪感によってスノウの感覚は研ぎ澄まされ、ますますアシュレを感じてしまう。
「抵抗など……。無駄なことはもうやめよ、スノウ。妾は汝、汝は妾。自分自身には逆らえぬ。ホレホレ、もっと深く理解してもらうが良い。理解られてしまうがよい。汝の恥部を、すべて。生まれてきてからのあらゆる痴態を、尊敬し愛してしまった騎士さまに、ぜんぶ、余さず」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、アシュレ、騎士さま、ご主人さま……わたし、わたし、うまれてきて、うまれてきてしまって、ごめんなさい……」
自らの心を暴かれ、理解されることの、ことごとくが抗えぬ快楽に変わってしまう。
そんな我が身の真実を突きつけられ、スノウの心は急速に壊されていく。
「騎士さま、わたしの騎士さま……スノウは汚くて、ふしだらで、ダメな子です。ごめんなさい、ごめんなさいいい。しつけて、スノウをしつけてください、きびしく、いつまでも……いつまでもしつけて。だから、みて、もっとスノウを読んで……あああ、ダメ、みちゃダメ、でも、読んでもっと、もっと……深く……理解……して……ください」
スノウの口調が乱れていく。
それはヒトが精神に変調を来す前兆だ。
もっとビブロ・ヴァレリの肉体を=ページを見るように、いつしかスノウは懇願してしまっている。
アシュレに理解される快楽に、もう抗えないのだ。
さらなる決定的な秘密さえ、進んでアシュレに差し出す。
否定できない歓喜に、泣きながら。
「くそっ、スノウッ!こんな……こんな……。なんてことを──ダメだッ、しっかりするんだ!」
「無駄じゃ無駄。みたかアシュレダウ。これが真実の《ちから》なのじゃ。だが、安心するがよいぞ。妾は寛大よ。この娘を殺そうとは思わぬ。これ以上傷つけようとも思わぬ。むしろ、妾はスノウを汝に返そうと思っておるのじゃ」
「なんだとッ?!」
「しかしスノウだけを返すことは、もはや不可能。見てのとおり、スノウと妾はすでに融合しつつある。切り離すことはもうできぬ。切っても切れぬ縁。スノウの物語と妾の歴史は融け合ったのだから」
「ビブロ・ヴァレリッ、貴様ッアアアア!!」
今度はアシュレが言葉を失う番だった。
たしかにビブロ・ヴァレリの記述と言葉には偽りがない。
スノウの過去と心のありさまを強制的に認識させられる過程で、すでにアシュレは知ってしまっていたのだ。
彼女の未熟な《スピンドル》は、ビブロ・ヴァレリの融合の結合手として利用されてしまっていた。
どうすれば。
アシュレは思う。
「ほうほう、アシュレダウ。この期に及んで妾とスノウを分離できぬか、と考えておるな? 無駄なことだと言ったぞ? 無理に引き剥がそうとすれば、一冊の本を裂くようにその娘の心はズタズタになる。そうなればもう二度と修復はできぬぞ」
「では……そうであるなら、どうやってスノウを返すと言うんだ」
ようやく焦燥を見せたアシュレに、ビブロ・ヴァレリは幼女のごとき美貌に狡賢い笑みをたたえて応じた。
「さきほども言ったではないか。もちろん、妾とともに、じゃ」
「ビブロ・ヴァレリ……貴様、なにを考えている?」
自らの薄い胸乳に掌を押し当てながら、ビブロ・ヴァレリは提案する。
アシュレとしては怪訝な顔をするほかない。
これほど奇っ怪で理解しがたい申し出もあるまい。
つまるところそれは、スノウとともにビブロ・ヴァレリを手中にせよという話だからだ。
戸惑うアシュレに、希代の魔導書は恥じらう演技を作ってみせた。
「あれま、妾の言うことが理解できぬのか? それとも……秘めたる想いの丈を女の口から言わせる気かえ、騎士どの。妾の望みは至極単純よ。新たな歴史の紡ぎ手が欲しい。具体的には《魂》の持ち主が。我が共感者として。愛読者として。もっとありていに言えば、妾を娶ってほしいのじゃ」
「娶る? 貴様を? 愛読者? 共感者? ふざけるな。それはどういうたくらみだッ?!」
「たくらみなどと人聞きの悪い。妾は引き裂かれたこの世界をふたたび繋ぎ直し、人々の認知をひとつに統合し直したいだけなのじゃ。そのために汝の《ちから》がいる。協力が」
「認知を統合する?」
なにを言っている?
アシュレはいきなりの論理の飛躍に、眉根を寄せた。
「この世界に巻き起こる多くの問題の根底には、それぞれの個々人が、世界を感じとるとき生ずる認知のズレが関係している。ある者には白いものが黒く、ある者には黒いものが白く感じられるようでは話がまとまるわけがない。なにしろそれは理解の根底たる規矩が違う、ということなのだからな」
当然のようにビブロ・ヴァレリは語った。




