■第一四九夜:境界を打ち破って
さて、怯えるスノウにはわからなかったが、このとき一瞬だけ、ビブロ・ヴァレリは眉根を寄せた。
ガリューシンの危地を聞きつけてのことだ。
アシュレとシオンの猛攻に晒された悪魔の騎士が救援を求めてきた。
大図書館の主としてのビブロ・ヴァレリにとって、その内部で起きていることはすなわち自身の体内を目で見、耳で聞くように感じ取れる。
しかし、いまガリューシンとアシュレたちが交戦している場所は、蛇の巫女たちの領域。
その最後の後継者であったシドレラシカヤ・ダ・ズーが没したことで神性は失われた秘密の砂浜は、ビブロ・ヴァレリがこれまで手を出せなかった場所である。
支配地域を拡大すべく手を伸ばしている最中に、これだ。
さすがは蛇の巫女たちの神域。
まだまだ支配力が及ばず、映像はぼんやりと音声はまるで不自由だというのに。
「あの男、ガリューシン。口だけは一丁前だったが、なんとも不甲斐ない。いやそれよりもアシュレダウと夜魔の姫の連携が見事だとそういうことか。さすがは我が愛し子、スノウの想い人よ」
せっかくのクライマックスを台無しにされては敵わぬとちいさく舌打ちし、物質転送の手続きを脳内で切り分けた別人格で並行処理する。
ビブロ・ヴァレリという存在は狡猾で抜け目がないが、他のオーバーロード同様に、自分自身の存在意義を最優先する。
ここではつまり、スノウという世にも珍しい物語を読み解くことだ。
読み解かれる側はたまったものではないだろうが。
「やめ、て、もう、おねがい。もう、もう見ないで。理解しないで。音読しないで。書き残さないで」
「そうはいかぬ。言ったではないか。汝にはアシュレダウとの間を取り持ってもらうと。心の底から、《魂》まで、理解り合ってもらうと」
「でも、だからって、だからって……」
「そのためにはまずぜんぶ、我らがまず、すべてを知り合わねば」
「壊れる、こわれちゃう」
「安心するがよいぞ。ちゃんとアシュレダウとも理解り合わせてやろうほどに。妾を読み込めば、汝の全てが理解できるようにしてやろうほどに」
「うわああああああ、やめろやめろやめろやめろおおおお」
「大丈夫じゃ、スノウ。案ずるな。汝の物語は面白い。彼への想いに満ちておる。そして、充分にふしだらでみだらで淫靡じゃ。これで反応せん男などおらぬ。必ず汝の想いに応えてくれる」
「やめて、やめて、やめて」
「ウソは良くないぞ、スノウ。これらすべてが汝の《ねがい》じゃ。彼に父親として、手酷く手折られ、組み敷かれ、泣かされたい。そのあとで依存したい。願わくば依存されたい。な? 間違っておらん」
なんとも自分勝手で、都合が良くて、強欲で、不道徳で、不純で、それなのに真摯で、どうしようもなく真剣で。
「こんなどうしようもない《ねがい》など、応援するしかないではないか。ああ、するなと言われても妾はやるぞ。汝にアシュレダウを、彼の男の《魂》を依存させてやる。そうすることで、彼もこの世界のなかに居場所を得る。さすれば《魂》は無事、制御可能な存在となる。その重要な制御鍵に汝はなるのだ。素晴らしい。これほど素晴らしいことがほかにあろうか?」
「ダメッダメッダメッ! ちがうちがうちがうちがうんだよ」
「なにをいう。なにが違う。そのために汝は不完全に生まれてきたのだ。《意志》と“庭園”を取り持つためのパーツじゃ。“庭園”から持ち帰られた架空存在としての閃きは、全世界で同時多発的に試みられる。ユガディールもその播種者のひとりなのじゃぞ?」
「なにそれ……どういう、それ、どういう……意味?」
涙と唾液と汗でぐしゃぐしゃになったスノウに、しりたいか、とビブロ・ヴァレリは問うた。
スノウはもうなにをどう答えていいのかわからない。
その困惑に魔道書は笑みを広げた。
鮫のようだ、とその笑みをスノウは感じる。
「端的に言えば……そうさなあ。つまるところ、スノウ、汝の父親はたしかにユガディールという男だったということさ」
「え?」
唐突に突きつけられる事実に、スノウは一瞬、真っ白になる。
その動揺など斟酌した様子もなく、これまでのペースでビブロ・ヴァレリは続ける。
「汝は、三人の妻を失った絶望から“庭園”に身を投じ、作り替えられて帰還した夜魔の英雄:ユガディールの概念の娘。彼が自らを容器として“理想郷”より持ち帰った種を、己が肉体を導管として、汝の母君に播種した。スノウ、汝とは、その概念が受肉した存在なのだ。と、そう言ったのだ」
「え?」
えっ? えっ? えっ?
スノウの喉から漏れる疑問符は、理解できないことへの意思表明ではない。
それはむしろ逆。
理解を拒もうとする心が発した、悲鳴だ。
「汝こそ壮大なる我らが計画:巡礼者計画のその一端。“庭園”よりもたらされ、現在、この世にあって使用可能な最新鋭の部品そのものなのだ」
そして、とビブロ・ヴァレリは続けた。
「それが事実である以上、汝は実父を殺した男に憧れ、あまつさえ父の面影を投影し、さらに恋愛対象として捉えてしまったということになる」
なんという不憫。
ビブロ・ヴァレリは憐憫を示す。
しかしそれは、読者が物語のなかの悲劇のヒロインに対して抱くのと同種の感情に過ぎない。
その悲しみの裏側に、たとえようもない快楽を潜ませた、一種の愉悦。
いっぽうで、スノウは打ちのめされていた。
その身に流れる夜魔の血が、まるで現在進行形の光景のごとく、アシュレとユガディールの最期の戦いを再現する。
あのとき、なにが起ったのかスノウには完全には把握できなかった。
ひとりだけ蚊帳の外で、ただただ眼前で進行する超戦士たちの戦いを見せつけられるだけだった。
アシュレと深く結びついた女性たち──シオン、アスカ、アテルイといったアシュレの近くにいられた女たちにはもっとハッキリわかったらしいのだけれど。
いま思い返すと、それが悔しくて、スノウはアシュレにつきまとうようになってしまったのだけれど。
スノウが見たのは、ユガディールという男の人格を失った骸だけが動いて、《意志》を否定した事実。
その最期は頽れる塔もろとも、瓦礫のなかに消えた。
だが、ひとつだけハッキリしていることがある。
たしかにビブロ・ヴァレリの言う通り。
ユガディールという人格を葬ったのはアシュレダウという男であるということだ。
そもそもあの戦いは、アシュレがトラントリムを来訪していなければ起らなかったことでもある。
でも、まさか、自分の真の父親が、かつて思い描いたようにユガディールであったなんて。
そして、そのヒトを葬った男に、アシュレダウという騎士に心魅かれてしまっていた──ううん、いまも魅かれてしまっているなんて。
「うそだうそだうそだ」
「なんと傷つくことを。ウソなどひとことも妾は語らぬ。これまでもそうであったろう? ヒトの心に真に突き立つのはウソではない。真実の刃こそが真の剣。ほんものの鏃」
「おおおおおお、殺せえ殺せえ、ころせ……殺してえええええ」
「殺せなどと、心にもないことを言うものではない。汝の心は死など求めておらぬではないか。それどころか……いまの話を聞いて、もっとアシュレのことを想ってしまっておる。心だけではない。全身が欲しておる」
秘めた肉欲を言い当てられ、スノウは心が砕け散る音を聞いた。
「よしよし、そんなに泣くでない。大丈夫じゃぞ、いまから汝の設定に妾がちょいちょいと修正を加えてやるからな。さすれば汝はもっと魅力的になる。具体的には汝が望む魅力的な女になっていく。汝がそれについて罪悪感や羞恥を感じれば感ずるほど、この修正は進行する。もうすでに汝のアシュレダウへの想いは、決して拭えぬ罪悪感と羞恥にがっちり結びついておるのだからな? 要するに彼のことを想えば想うほど進行は早まるぞ? どうじゃ?」
すばらしかろう、とビブロ・ヴァレリは断言する。
その瞳には罪悪感も迷いも躊躇もない。
ただただ物語がより完成度を高めていくことへの純粋な期待と残忍な悦びだけが、そこにはある。
幼女の姿をしたビブロ・ヴァレリの指が自らの紙面の上を滑り、書き写されていくスノウの心のありさまにわずかな加筆を成している。
そのたびに電流が走り抜け、スノウの肉体は跳ね上がる。
強いられる改変に、肉体が呼応してしまうのだ。
書き換えられてしまう恐怖に、狂いそうになる。
たすけてたすけてたすけて。
スノウは無意識にアシュレを求めてしまう。
自らを救ってくれる理想の騎士を、呼ぶ。
たすけて、わたしの、騎士さま。
そんな叫びは届くはずもなかったはずだ。
ここは地の底。
大図書館の最深部。
大秘書庫。
これまで数千年の歴史のなかで、かたくなに他者の侵入を拒んできた、この世界の深奥。
どうしたって壊されていく少女の叫びは届かぬはずだ。
届かなかったはずなのだ。
だがその静寂は、破られる。
なぜならば。
すでにずっと以前に、策は敷設を終えていたのだ。
どこかで策士は薄く笑う。
さて、それではそろそろ仕上げを、とビブロ・ヴァレリが微笑むのと、
追いつめられ、アシュレの名をスノウが叫ぶのと、
その身に秘められたイズマの秘策:王の入城が発動するのは、
すべて、同時だった。
 




