■第一三八夜:魔を阻む青き薔薇
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蛇の神殿の薄暗がりに鮮やかな火花が散り、激しい剣戟と超技が生み出す轟音が鳴り響く。
アシュレとガリューシンの戦いは続いている。
「ぐうッ、迅、いッ!」
「なあ、もっとだ、もっと見せてくれよ、《魂》ってヤツをよおおお!」
眼前で繰り広げられる人智を超えた戦いに、アスカは息を呑むことしかできなかった。
かたや、《魂》を発動させ黒騎士の装束に身を包んだ:アシュレ。
かたや、イクスの御旗をまとう不死の騎士:ガリューシン。
ふたりの争いは、いまや完全にヒトの領域を超えていた。
余人が割り込む隙など、どこにもない。
騎手であるアシュレを失ったことで、ソリのようにアスカを乗せて駆動していた聖盾:ブランヴェルは動きを止めた。
アスカはその上にへたり込んで上体を起こし、すこし離れた場所で交されるふたりの騎士の凄絶な闘争を、見守ることしかできない。
これまで連続で大技を使用し続けてきたツケに、飲み下し注がれた薬液の効果が重なって意識を保つのも難しい。
それでもふたりの一騎打ちから目を逸らすことが出来ないのは、アスカの心と肉体が、この戦いの勝者こそ自分の本当の所有者になると認めているからだ。
そして、アシュレとガリューシンの激突は──わずかだが、ガリューシンが優勢にことを進めていた。
たしかに《魂》を発動させたアシュレの異能には、凄まじいものがある。
だが、その《ちから》を全開で使用した場合、どれほどの被害がこの地下図書館に出るのか想像もつかない。
アシュレは明らかに躊躇していた。
ここでも竜槍:シヴニールの強力さが裏目に出ていた。
己の最大能力を、アシュレは振るえないのだ。
いっぽう、ガリューシンの聖剣:エストラディウスは、もともとが限定的なエリアでの戦いに優れたロングソードの姿をしている。
騎乗槍に分類されるアシュレの竜槍:シヴニールをこのように近い間合いで相手取ったとき、その差異はよりハッキリと現れる。
ガリューシン優勢の背景にある事情は、さらにそれだけではななかった。
それは《スピンドル能力者》としての消耗度の違いだ。
アスカがそうであるように、すでにアシュレもかなり疲弊していた。
無理もない。
なぜならアシュレはこの場に立つ以前に真騎士の乙女とも一騎打ちを演じ、さらにここに辿りつくまでに、シオンとともに死蔵知識の墓守どもの包囲を潜り抜けてもいるのだ。
それがどれほど困難な道のりであったか、想像に難くない。
この場に立つだけで、どれほどの不可能を可能にしてきたのかという話だ。
対するガリューシンはといえば、聖剣:エストラディウスの加護によって、最小の《スピンドル》を投じるだけで最高効率の技を振るうことができる。
それはあるいは、ほぼ完全なる不死を成し遂げた男の核=孤独の心臓の加護でもあったかもしれない。
なにより、いまガリューシンはその精神のあり方において、常人には決して至ることの出来ぬ領域に達してしまっていた。
すなわち、彼の一〇〇年を優に超える人生のなかで神の実在の証を初めて目にしたのだ。
つまり《魂》を宿す存在を。
「くれよ、《魂》。そいつをオレにも、くれッ!」
正気を削り取るような哄笑とともに嵐の如く襲いかかってくる連撃を、なんとか逸らすのでアシュレは精いっぱいだ。
下がって下がって下がりまくり、小刻みに竜槍:シヴニールを動かし、なんとか凌ぐ。
見出したちいさな隙を逃さず切り返すが──届かない。
いや、いまのは隙ではない。
誘われたのだ。
「どうしたあ、坊や。疲れが見えるぜ? いいのかい? このままじゃあ、あのお姫さんはオレの下に組み伏せられて、ほんもののオモチャにされちまうぜ? いやほんと、隅々まで可愛がってやるからよ」
イクスの御旗に身を包んでいながら舌が腐るような卑猥な言葉で挑発してくる男に、アシュレは歯がみした。
武器の相性のこともあるが、ガリューシンの指摘通り、疲労しているのは間違いなかったのだ。
ひと昔まえだったら、とうに気絶しているか胸が張り裂けてしまっているほど、今日一日のなかでしかも連続で、アシュレは大技を振るってきた。
その消耗が全身を蝕んでいる。
動力である《魂》は強力でも、長時間酷使され続けてきた肉体のほうが、その出力に保たなくなってきているのだ。
「なるほどなあ。《魂》ってのは実に強力なもんだ。正直、オレは感心しているんだぜ? オレの連撃にここまで対応できたヤツは過去にいない。ここまでオレを相手に粘れたやつも。武器の相性からいっても、アンタの調子が万全なら、オレなんか敵わないんじゃねえのか。だが──」
アシュレの攻撃の間合いを絶妙に外しながら、ガリューシンは持論を展開した。
「疲れ果てたそのカラダにゃあ、《魂のちから》は大き過ぎるんだ。高次のエネルギーは、それを宿す肉体にも同じ高さを要求する。アンタの肉体はいま、その要求に応えきれず悲鳴を上げてるんだ。そこにきて武器のことがある。せめてご自慢のあの凄い盾があればなあ。そう、そうだよアスカリヤ。アンタがいま揺り籠に使っちまってる、そいつだ」
ふたりの攻防から目を逸らせなくなっているアスカに、戦いの最中であるというのに向き直って、ガリューシンは言った。
「まってな、お姫さん。アンタがホントにはだれのものなのか、もうすこししたら、分からせてやるからな。そうだ、《魂》を使って分からせてやろう。もうすぐオレは到達するんだから。それまでそこで良い子にしてるんだぜ?」
血走った瞳と言葉に、射すくめられアスカは震え上がる。
肉体が、男の息遣いを覚えている。
どうしようもない恐怖が足下から這い登ってきて、止められない。
「どこを見ているッ!」
粘っこい視線と口調でアスカに語りかけるガリューシンを、アシュレが一喝した。
光刃を帯びた鋭い突き込みを、しかし、ガリューシンは身を捩って躱す。
「熱くなってきたな、坊や! へへ、へへへ、いいぜ、そろそろ手足を頂こうか。そのあとで、胸をカッ捌いて取り出してやるよ、その《魂》!」
言うが早いか、猛攻に転ずる。
アシュレはふたたび防戦一方に追いやられていく。
しかし、それもそう長く持つものではない。
胸の悪くなるような衝突音とともに、弾き飛ばされたのはアシュレの槍のほうだった。
「がッ」
「おんやああ、切り飛ばすのは無理だったか。ははあ、さっきもオレの剣を止めた防具……竜皮の籠手か」
骨が折れたかもしれない、とアシュレは思った。
それほどの衝撃が竜皮の籠手:ガラング・ダーラ越しにさえ、アシュレを襲ったのだ。
手足を切り飛ばすという宣言の通り、前腕を狙う一撃が一瞬の隙をついて叩き込まれたのである。
「降伏しろとは言わねえぜ。オレの獲物を奪った上に《魂》の持ち主だ。殺すしかねえよな。どうしようもなく殺すしか。そして暴き、奪う。そうだろう?」
「だれがオマエなどにッ!」
「強がるねえ。だが、それはどうだろうな」
武器を失ったアシュレにガリューシンは斬り掛かった。
影が残像になって尾を引く。
踏み込みのあまりの鋭さに、眼が、脳が、斬撃をうまく知覚できないのだ。
たぶん、そのままことが進んでいたとしたら、アシュレは死んでいたはずだ。
雄叫びとともに、ふたりの間にそれが躍り込んで来なければ。
「盾よ、盾よ──たのむ、オマエの主を助けてくれッ!」
その叫びに驚いたのは、ガリューシンだけではなかった。
アシュレはガリューシンの斬撃に対応すべく身を反らしながら、瞠目した。
床面の石材を削りながら聖盾:ブランヴェルを爆進させて来たのは、アスカだったのだ。
その両手が《フォーカス》の試練によって焼かれている。
青白い炎が両手を包んでいる。
だが、それでもアスカは《スピンドル》を使うことを止めなかったし、拒絶を示しながらもブランヴェルはアラムの姫に従ったのだ。
あまりのことに、ガリューシンが飛び退って躱す。
もっとも、この無謀過ぎる突撃が稼いだのは、わずか数秒に過ぎない。
「びっくりさせやがって。だが、結果はあんまり変えられなかったなあァアア!」
ガリューシンの言う通りだった。
アスカの行いが生み出した猶予はごく僅か。
この後の運命そのものには、大きな差異は生まれなかったはずだ。
ただ、それは、もし──。
もし、アスカがアテルイのために我が身を挺していなかったなら。
アスカがシドレとの約束を果たそうと、奮闘していなかったなら。
そして、もしこの物語のはじまりにアシュレが──あの夜、法王庁に忍び込んだ夜魔の姫と出会っていなかったのなら。
アスカを庇うように身を投げ出したアシュレは、振り降ろされるガリューシンの刃が、空中で撃墜されるのを見た。
アシュレの窮地を救い、悪魔の騎士の刃を退けたもの。
はじめそれは、燃え立つ焔のようだった。
青白き刃の群れ。
忽然と、それが地面から生じた。
いいや、そんなわけがない。
なにもないところから、そのように都合よく刃は生じない。
だとしたらそれは、せり上がって来たのだ。
床面から、音もなく、しかし確固たる《意志》をもって。
そして、防いだ。
完全に受け止めた。
弾き返した。
悪魔の騎士の振るう聖なる刃を。
ここまでこの物語を追ってきた者は皆、知っているはずだ。
聖なるものを阻めるものがこの世にあるのだとしたら、それは同じく聖なるものだけだと。
では、それは真に聖なるもの以外の何者でもなかったのだ。
黒衣に黒髪が揺れていた。
白銀の籠手は鈍く輝き、燃え盛る祝福の剣を支えていた。
スカートの端がはためいて、どこかから青いバラの花びらが一片、舞い込んだ。
イクス教圏に謳われた最強の聖剣:ローズ・アブソリュート。
そは永劫を退け、人理を守る、摂理の剣。
遣い手であった男の死後、正史では人類圏から失われたとされたはずの聖なる刃を、いま握るのは──。
「どうした。ずいぶんと泣かされておるではないか」
構えを組み替え、床材に切っ先を突き立てて、彼女は言った。
シオンザフィル──“叛逆のいばら姫”。
 




