■第一二九夜:彼は征く(光を纏って)
激しい後悔が、アテルイの心を掻き乱していた。
叫んでしまったことに対して、ではない。
なぜ、アスカと再会した瞬間に、もっと強く、断固たる態度で死を乞わなかったのか。
刃を交しあうガリューシンとアスカ、ふたりの間に飛び込んで自刃しなかったのか。
わずかな自由をあたえられた瞬間に、死を選ばなかったのか。
アテルイを責めるのは、その想いばかりであった。
周囲を取り巻く死蔵知識の墓守なぞ、視野にも入っていない。
蛇の神殿の天井に映し出された、屈辱に塗れる主の姿に、アイアンメイデンのガラス製の瞳は釘付けにされている。
あのとき、わたしは、どうしたらよかったのか。
いや、この状況をどうやったら覆せるのか。
アテルイには、わからなくなってしまった。
いまさら駆け戻ったところで、アイアンメイデンに囚われている状態の自分では、万にひとつも勝利など望めない。
ガリューシンの注意を引くことさえ難しかろう。
むしろ、アスカの苦痛をいや増すばかり。
そもそも、いまアスカが窮地にあるのは、アテルイの安全を保証しようとしたからではないのか。
だとしたら、やはりこれはすべてわたしの責任だ。
自責ばかりが胸を締め上げる。
明晰だと信じてきたはずの頭脳が、なにひとつ働かない。
絶望に心が喰われていた。
光明を見出したくても、できない。
妙手がなにひとつ浮かばない。
このままでは本当に、アスカはすべてを奪われる。
皇子という位、オズマヒムの嫡子であるという立場、いやそれどころか姫君としての尊厳も。
どうしたら──どうしたらいいんだ。
両膝で立ち、わなわなと震える両手で自分の顔を包み込むように触れる。
アテルイにはそれしかできない。
そんなアテルイの様子を、不思議なものでも覗き込むように、死蔵知識の墓守たちは眺めている。
いいや、眺めているだけではない。
至極ゆっくりとだが、手が伸ばされる。
人々の正気を奪う安寧の手。
それが認知を迫るように。
限りなく緩慢に。
しかし、着実に。
逃げ場を奪って、迫ってくる。
そして、そんなアテルイの姿は、いつしかアスカの眼前にも映し出されている。
そのことを認めたアスカの瞳から、光が失われていく。
僅かにだが抵抗を示していた肉体から、力が抜けて、堕ちる。
「でんか、でんか、でんかあああああああ」
死んでもかまわない、とアテルイは本気で願った。
わたしなどの命で贖えるなら、どうか神よ、我が主を──アスカリヤ殿下をお救いください。
当然だが、神は答えない。
救いもしない。
では、だれがアスカリヤを助けるというのか。
決まっていた。
神でないなら、ヒトが救うのだ。
次の瞬間、アテルイに近接した死蔵知識の墓守のアゴから、光の穂先が突き抜けた。
続いて周囲を取り巻いていた白いヴェールのごとき肉体が、真っ二つに切り裂かれたかと思うと、光の粒になって飛散する。
アテルイは思わず目を見開いて、言葉を失う。
なぜなら、そこに立っていたのは、もう二度とは会えぬと思っていた男の姿だったからだ。
「アシュレ、アシュレダウ! 旦那さまっ!」
歓喜に満ちた叫びを上げ、アテルイはその男=アシュレに抱きつく。
「ごめんよ、遅くなった。ってこれであってる、再会のセリフ?」
「ああ、旦那さまっ、旦那さまっ。はやく、はやく、殿下が、殿下を!」
「わかってる。すぐに助ける。それで、どこだい、アスカの居る場所は?」
「この上層部──案内、わたくしが案内いたします!」
絶望のなかにひとすじの光が差し込むのを、アテルイは感じた。
その光の正体こそ、自らが愛し、主であるアスカまでもが愛を捧げた男であったという悦びに感涙が止まらない。
神よ、とアラム・ラーを讃える祈りが口をつく。
アシュレとシオンは疾風迅雷などの異能を駆使し、文字通り壁や天井さえ走り抜けて、最大戦速でここまで駆けつけてきたのだ。
それはアテルイとアスカがアシュレと結んだ縁、《スピンドル》を共鳴させた者同士を導く《ちから》の強さのおかげだ。
「ふたりとも、再会を喜ぶのは良いが──きゃつら、どっと押し寄せて来たぞ」
無防備なふたりを護るように、聖剣:ローズ・アブソリュートの輝ける刃を展開させながら言ったのは、シオンだ。
「シオン殿下までッ?! どうして、どうして来てくださったのですか?!」
「それはこっちのセリフだ、アテルイ。なぜここにいる? いままでどこでなにをしていた、と問い質したいことは山ほどあるが、そんな話をしているヒマはない。見ろ、あっという間に囲まれたぞ」
「こいつらは死蔵知識の墓守。この国の王族たちの成れの果てです」
「だいたいのところは、こちらでも把握している。なにしろ、あのいまいましい投影が嫌でも教えてくれるものでな」
「おっしゃる通り、まったくもっていまいましい下衆な術ですが、役に立つこともあるのですね」
「なるほど、善悪は表裏一体。手段そのものに善し悪しはないというところか。なにがどう作用するのかは、わからんものだな。では、そこまでの事情を知るオマエだ。あれが死に損ないというよりも、英霊などの情報体に近しいことも承知しているな?」
シオンの問いかけに、アテルイは頷いた。
「つまり、シオン殿下やアシュレさまの武具では分が悪い」
「さきほどは完璧な奇襲だったのでうまくいったが、今度はそうはいかん。物量で押し込まれたらおしまいだ」
どうする、とシオンはそのまま視界を巡らし、アシュレにも問うた。
抱擁を解いたアシュレは、竜槍:シヴニールを構え直したところだ。
「ボクかキミか、どちらかがコイツらを引き受けている間に、単騎突破するしか手はなさそうだ」
「それではどちらが居残るかの答えは、もう出ているではないか。アシュレ、そなたが行け」
シオンの提案に、アシュレは沈黙で答えた。
その瞳は眼前の敵を睨みつけたままだ。
アテルイはその引き締められた口元に、躊躇を見出した。
「どうしたアシュレ。時間がないぞ!」
シオンが急かす。
ここまでアシュレに抱きかかえられてシオンは来た。
だから、疾風迅雷使用時のアシュレの機動力をよく知っている。
いっぽうでシオンの側と言えば、その運動性能は決して低くはないものの、迫り来る死蔵知識の墓守の群れを単騎で振り切れるかどうかは、かなり怪しいところだ。
シオンの携える聖剣:ローズ・アブソリュートは、聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーなくしては扱えない。
だがその聖なる武具たちは、聖なるがゆえに夜魔たちが利用する影の領域には持ち込めない。
そのため現時点のシオンは、短距離次元間移動手段である影渡り(シャドウステップ)を用いることができないのだ。
もちろん例外的に《魂》を発動している間のアシュレと深く繋がれば、その種族的制約を超えた奇跡も不可能ではないのだが──。
《スピンドル》同様、あるいはそれ以上に、強力な《ちから》の使用は激しい消耗を招く。
この先に予定されているイズマの作戦のことまで考えれば、ここでアシュレに《魂》を顕現させるのは上策とは言えなかった。
まだまだこの戦いには、先があるのだ。
目の前の敵を蹴散らせば終わりというものでは、断じてない。
加えて言えば、アシュレの《魂》の顕現条件はいまだもって不確定だ。
だからこそ、シオンはアシュレを先行させたかった。
一刻も早くアスカと合流できれば──その算段さえつけば、アシュレとアスカの間には切り札がある。
すなわち戦乙女の契約。
以前、アシュレをして《魂》を連続で長時間に渡り顕現させたのは、ほかならぬアスカが垂れてくれた真騎士の乙女の加護のおかげだ。
そして、窮地にあるアスカとの再会は、きっとアシュレの《魂》に火をつける。
アスカ自身の尊厳も大事だが、戦隊としてアシュレと彼女の合流こそ必須であると、シオンは理解していた。
なにより──いま絶望の淵にあるアスカの心を救えるのは、アシュレしかいない。
油断なく剣を構えつつ考えを巡らせるシオンのかたわらで、アシュレも激しい葛藤と戦っていた。
それはこの場に、シオンとともにアテルイを置いてはいけないという悩みだ。
もしシオンの提案を実行した場合、いったいなにが起るのか。
機動力と広域殲滅系の異能を得意とするシオンの戦いにあって、アテルイを巻き込まないように、しかも守りながら闘い続けることは凄まじい足枷となる。
無防備なアテルイは敵の格好の的だ。
敵は必ずそこを突いてくるだろう。
どうすればいい。
そんなアシュレの胸中を、アテルイは正確に読み取った。
ああ、こんなヒトだから、わたしは好きになってしまったのだ、と。
だからこそ、あえて言った。
「行ってください、アシュレ。いま、アスカリヤさまをお救いできるのは、あなた、あなたさましかいないのです!」
アシュレは一瞬だけアテルイを見た。
それから、シオンを。
無言の問いかけにゆっくりと、しかし深く、夜魔の姫は首肯する。
わかった、とアシュレはそれだけを言った。
次の瞬間、アシュレは己が槍の穂先に光刃を集めると、雷光のように柱廊を駆け敵陣に躍り込んだ。
迫り来る包囲網を打ち破る、一点突破の突撃であった。




