■第一二四夜:正体
「どこへいこうってんだ、殿下。アンタはここでオレとお話しするんだろ?」
「貴様ァアアアッ!」
「忘れなさんな、殿下。オレは最初にハッキリお伝えしたぜ? アンタがアテルイさんの代りになるのが、条件だって。裸になれってのは、自分で脱ぐほうがいいか、オレが脱がせるほうがいいのかって違いに過ぎねえんだよ。アンタはここでオレと楽しく歓談する。これは決定事項なんだ」
「下衆めえええ!」
「おっと、言葉遣いには気をつけたほうがいい。オレたちは、いまから、交渉をするんだからな? たとえば、こう考えてみるんだ。ビブロ・ヴァレリの栞は、貼り付けられたものの生命活動の停止と同時に剥がれ落ちる。しかし、オレの場合はオレを再構成する核にそれは貼り付けられているから、決して失われることはない。ということは……」
指を振り立て、得意げにガリューシンは言った。
「一度ならず、二度殺されたオレに対して、いまアイツは注目度を上げているだろう。いまオレと話している人物が、オズマドラの皇子の正体=アスカ姫だってなら、余計にだ。だとすれば、だ」
得意げに言葉を切る。
それから言った。
「オレから彼女に提案もできるんじゃないか? アテルイさんをどうか見逃してやってくれって」
口からでまかせかもしれなかった。
だが、ビブロ・ヴァレリの正体を知るアスカにとって、ガリューシンの提案はたしかに合理的であるように聞こえた。
栞に関するシドレの一件と、ガリューシンが口にする己の現状への分析は、たしかに合致してもいた。
「条件は?」
屈辱に唇を噛みしめながら訊いたアスカへの返答は、ヒュー、という口笛だった。
アンタ、聡明な上に明晰だぜ、と持ち上げた。
「さっきから言ってるじゃあないか、殿下。オレはアンタとお話ししたい。しかも親密に」
それでいいかい?
意味深な笑みを浮かべて、ガリューシンは小首を傾げる。
その手には一対のゴブレットが、脚を持つカタチで吊り下げられている。
チェスボードの上には、これもいつの間に現れ出でたのか、封の切られたボトル。
妖しげな緑色の液体が、そのなかでは揺蕩っている。
「どうぞこちらへ、殿下。そして、まずは一杯」
背中を向け、首だけで振り返りながらガリューシンは杯を薦めた。
一瞬このまま蹴り殺そうかとも思ったが、そんなに甘い男ではないことはもうアスカにはわかっている。
その証拠に、隙だらけに見える背中にはその実、つけ入るところがどこにもない。
不死であることだけがこの男の脅威ではないのだ。
夜魔をも上回る不死身の肉体に、極限まで高められた騎士としての戦闘能力が加わっている。
それがなによりも恐ろしい。
極大攻撃で一気に消し去ることができればあるいはとも思うが、そのための溜めをガリューシンは許しはしないだろう。
手傷を負えば困ったことになるのはどちらかと言えば、アスカのほうだ。
相手は究極的な消滅を除いていくらでも復活してくるのに、アスカの肉体的耐久力はただの人間と大差がない。
そんな算段を巡らせながら差し出された杯を手に取れば、あの妖しげな酒が注がれていた。
薄暗い世界のなかで、ほのかに燐光を放っている。
遠目において嗅いでみたが、警戒心を刺激せずにはいない危険な香りがする。
「これは……ただの酒ではあるまい」
「いかにも。お互いが素直になるためのものさ。残念ながらアイアンメイデンには効き目がないんで、これまでは、もっぱらオレが素直になるために使っていたんだが。殿下となら、お互いが素直になりあえること請け合いだと思ってね」
言うが早いか、ガリューシンは杯をあおり、一息にそれを飲み干した。
カーッ、やっぱりコイツは効くねえ、と太い息をつく。
「どうした、やりなよ」
飲みたくなどまったくなかったが、アスカはしぶしぶ口をつけた。
夜魔に霊薬や毒物が効かないのは有名な話だが、ガリューシンの不死性はまたそれとは微妙に異なるらしい。
酒で酔えるのであれば、薬物も効果があるに違いない。
その男が飲み下せるのであれば、いきなり血を吐くような代物ではないだろう。
ままよ、とばかりにアスカは杯をあおった。
「カーッ、いい飲みっぷりだ。惚れちまうぜ。さすがオズマドラの皇子さまだ」
ガリューシンの煽りを黙殺し、アスカは口元を拭った。
つう、と粘性のあるしたたりが唇の端から滴る。
口中に広がるのは甘苦い、痺れるような不思議な味だ。
刺激的な香りが口中から鼻腔に抜ける。
似ているとかと問われたら、アニスの香りがつけられたアラムの酒:ラクに似ていなくもない。
ただこれは酒精の度数が高いだけではなく──あきらかに特殊な効能を舌が感じる。
喉を駆け下る端から焼かれていくような刺激が、喉を駆け降りていく。
小さな杯は見た目よりも容量があったのだ。
その流れが胃の腑に到達した途端、アスカはざわり、と全身の毛がざわめくのを感じた。
体温は上がったように感じるのに、なぜか鳥肌が立つ。
それは不快というよりも、不可解な感触だった。
感覚を断ち切るように、言い放つ。
「もったいはつけなくていい。交渉を早く。それから、忘れるな」
「はいはい、わかってますヨ。まずはアテルイさんの件だ。じゃあ、たのむぜ、ビブロ・ヴァレリ。いまこの状況を見ていて、記録しているんだろ? お願いだから、アテルイさんは見逃してやってくれ。そう蔵書の守たちに厳命してくれ。オレと殿下からのたっての頼みだ」
宙に向かって、うさんくさい修道士の祈りのようにガリューシンは言った。
返答は特にない。
しかし、いまはそれを信じるほかなかった。
「貴様、本当に約束できるんだろうな」
「もちろん。たぶん……大丈夫だと思うぜ? いちおう、これでも重用はされてるはずだからな」
「これでアテルイに、もしものことがあったなら……地の果てまでも追いつめてオマエを殺すぞ」
「おお、うれしいねえ。こんな美人のお姫さまにそこまで執着してもらえるのなら、本望だよ、オレは。そして、できるものならオレに永遠の安寧を」
芝居がかった口調で詰め寄るアスカをいなし、ガリューシンは石柱を利用したらしいテーブルに浅く腰掛けた。
「わたしの席はどこだ」
「おっとお、オズマドラの文化には椅子ってのがないって聞いてたもんでね。殿下は……床ってわけにはいかないな。どうしたもんだろうか。あ、オレの膝の上に、ってのは?」
「ならば、立ったままで話させてもらおう」
当然だが、すげなく断ったアスカを、ガリューシンは下から見上げるカタチになった。
あるいは最初から、これが目的であったのか。
実際にはガリューシンが飛び抜けて長身であるため、またアスカが戦士としては小柄であるため、視点にそれほどの差は生じないのだが、お互いがすでに一糸まとわぬ姿ゆえ、場面がどこか扇情的な意味合いを帯びる。
「なにを見ている」
「いやあ、絶景だなあと思ってね」
舐めるような男の視線を受けても、アスカは毅然と立っていた。
女性であることの証を隠しもしない。
恥辱や屈辱がなかったのではない。
もちろん、ガリューシンから命じられたからでも断じてない。
ただ、それを態度に出せば、この手の男はさらに喜ぶだけだとわかっていたのだ。
そして羞恥心は、生死を分ける局面では躊躇とともに、まず最初に捨てなければならないもののひとつである。
「御託はいい。さっさと話をはじめろ。わたしと話したかったことがあるのだろう?」
「ああ、そうだったそうだった。忘れていたよ」
そうそう、とガリューシンは頷いた。
「アンタの正体についてだった、アスカリヤ殿下」
「わたしが女性である、という話であればもうなんの意味もないぞ」
そしてそんなつまらぬ話ならば、いますぐここで貴様には引導を渡す。
アスカの瞳が細められ、言外にそう伝えた。
だが、ガリューシンの返答は違った。
「ちがうちがう、そんなことじゃないさ。もっと重大な秘密だ」
「言ってみろ」
「では、慎んで。殿下」
手酌で酒か薬物かわからぬそれを一杯継ぎ足してから、ガリューシンは言った。
「アンタは、人間じゃない」
アスカはその言葉を宣告として聞いた。
瞳を閉じる。
開ける。
それから、言った。
「だから、どうした」と。




