■第一二〇夜:都市の臓腑
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「英雄たちの思い通りにはさせぬ、ときたか」
さても大言壮語を吐いたものよ、とオズマヒムは失笑した。
場面はまたも切り替わる。
歪められた時空の内部でスノウが魔道書:ビブロ・ヴァレリに相対していたころ。
そのはるか上空では、ふたりの皇帝が言葉を交していた。
オズマヒムの真意を看破し、これをさせぬ、と断言したのは文人皇帝:ルカティウス。
対するオズマドラの大帝は、冷ややかな笑みを浮かべて見せた。
「言いたいことはそれだけか、ルカティウス」
ついにあらゆる敬語を排して、オズマヒムは語りかけた。
「オマエが我が真意をどう取ろうとかまわん。しかし、我は我の信ずるところを成し遂げる。我が神:アラム・ラーの教えにもあるように、この世に栄光の國を降ろすのだ。英雄たちによって導かれる輝かしき世界を実現せん。いまこそ王道楽土をこの地に築くときである」
だから、とオズマヒムは告げた。
思えばそれは最後通告であった。
「だから、いま一度、言う。ビブロンズ帝国皇帝:ルカティウスよ、我が軍門に下れ。悪いようにはせん」
そしてたぶん、そのことを充分承知の上で、ルカティウスは差し出された手を振り払ったのだ。
『それは欺瞞だ、オズマヒム。なんどでも言おう。ほとんどの人間は、英雄として生きることはできないのだよ』
「知っているとも。我も、だれしもに英雄たれとは言わぬ。しかし、世界をより善き方向に導く者として、より多くの志ある者が立つ世界を、我は望む。だから、創出する。混迷に沈み行く世界をその泥土より引き上げ、高みへと向かおうとする志を育む。願うだけでは叶わぬなら──実現あるのみ」
『それが独善だとなぜ気づかん。それは一握りの、貴様が言うところの選ばれし者だけの世界だとッ!』
その性、温厚にして冷静沈着で知られたルカティウスの表情と語気が鋭いものとなるのを、オズマヒムは初めて見た。
ほう、と覇王の口から称賛が呼気になって漏れた。
「よい顔、よい声だ、ルカティウス。オマエのそういう顔を見たかった。そうか、それがオマエの本性か。惜しい、あまりに惜しい。もっと早くに見たかったぞ」
『気がつくのだ、オズマヒム。ヒトは完全な意味での英雄にはなれん。いや、一瞬、いっときの英雄たることはできるかもしれぬ。しかし、永遠に勇敢で聡明で賢明なる者であることはできないのだ。いかに優れた統治者も、年月には勝てない。数千年の歴史を持つ帝国も──いつか消えてなくなる』
そのとき、
『そのとき、真に大切なものがわかる。それは安寧だ。平和だ。明日も変わらぬ日常が繰り返されるという確約があることだ。貴様が……いいや、貴君が真の英雄たろうというのであれば、そのために立つがいい!』
「笑止とはこのことだ。明日も変わらぬ平穏だと? 人間としての責務を放棄し、《意志》を捨て、傀儡に成り下がった報酬がそれだと言うのか。そのどこに進歩がある? オマエの言う安寧とは未来を放棄し、今日にしがみつく、操り人形がごとき人生のことだ」
『そうするほかない、と旧世界の人々は決めたのだ。皆で。これは《みんなのねがい》、世界の総意なのだ。それをわかるのだ──オズマヒムッ!』
情理を尽くそうとするルカティウスに、オズマヒムはかぶりを振った。
「なるほど《みんなのねがい》か。おもしろい。だが、それは我の願いではないな」
同じくルカティウスも強く頭を振って見せた。
だが、こちらは友の不理解への非難だった。
『たったひとりの欲望で、圧倒的大多数が採択した決断を踏みにじろうというのか』
「この世界がかつて、《みんな》によって改変されたものであるというのであれば、それを我が作り直したところでなんの問題がある。英雄の國の到来を待ち望んでいるのは我だけではないぞ。真騎士の乙女たちの多くがこれに賛同するであろう」
それに、だ。
「英雄たろうと思わぬ者にまで、我は我らの生き方を強要などせん。英雄になりたくない者は、名も知れぬ凡人として一生を終えるがいい。オマエたちの苦悩、決断、責任、それらすべては我らが担ってやろう。実質的に、これまでとほとんど変わらぬのではないか。いや、むしろより安楽かもしれんぞ」
『詭弁だ、オズマヒム。英雄が英雄であるためには条件がある。それは闘いだ。戦乱、動乱だ。それも世界の命運を賭けるような。そうではないか? 貴様の掲げる理想郷=英雄の國が、その存在意義を保つためには──永劫に戦い続ける必要がある。そして、交される刃と砲火の下で、民草は迫られ続けるのだ、選択と決断を! どのような? 決まっている。英雄となるべきか否か、をだッ!』
それが貴様の導こうとする世界の本質だ。
自信をみなぎらせて言うオズマドラの大帝に、ルカティウスは厳しい口調で対峙した。
『違うとは言わせんぞ、オズマヒム』
「未来とは己の手で勝ち取るものだとは思わんか、友よ」
『堂々巡りか。もはやその心まで喰われたか──翼ある魔女どもどもに』
「我が同盟者への謗りは看過できんぞ。それに、心を喰われたというのであればオマエの方だろう、ルカティウス。我がなにも知り得ぬと思っているのか。魔道書に魅入られし、憐れな最期の皇帝よ」
ふたりともが、この言葉の応酬には意味がないことを知っていた。
大筋で、直前に交されたやりとりを、なぞっただけだともわかっていた。
ただ、剥き出しの、人間としての言葉で語りたかったのだ。
ふたりともが、最期に、人間であったときの証として。
「さて、言葉は尽くしたか──では、推して参る」
『させん、と言ったはずだ』
「言葉だけで我を押しとどめることは出来ぬ。どうするつもりか」
『これも言ったはずだ、オズマヒム。言葉で、あるいは言語によって』
ルカティウスのその言葉がきっかけだった。
ばくり、とヘリアティウムの底が抜けた。
文字通り、都全体が巨大な穴へと崩落しながら呑み込まれていく。
しかし、それは瓦解というにはあまりにも整然とした動きだった。
いや、もしかしてこれは収納・格納というべきなのか。
「面妖な……なんだこれは」
その異様さにさすがの大帝も、呻いた。
「あれは虚数時空……都市全体を虚数空間へ格納しようというのか! 夜魔たちの使う影の包庫の極大版だ、オズマヒム!」
ルカティウスの代りに答えたのは、これまでふたりのやりとりを脇で見ていた真騎士の乙女、黒翼のオディールだった。
ぽっかりと口を開けた真っ黒な空間は建物だけでなく、地形や、そこに暮らす人々そのものを呑み込んでいく。
虚数空間に向かって落ちていく。
あらゆるものが、失われていく。
この世界から。
「これが、ヘリアティウムの真の秘密……そうだというのか」
『いいや、まだまだ、これからだ我が友よ』
そして、今度はルカティウスが答えた。
心の臓を押さえながら、真っ青な顔で──まるで代償を払っているかのように。
『今度は貴君が、我を失う番だ』
幽鬼のように精気の感じられない表情のなかで、その瞳だけを爛々と光らせ、ルカティウスは告げた。




