■第一一九夜:はじまりの本
※
「あれ? でもそれって、矛盾じゃない?」
宙を舞いながらスノウは言った。
足下に床はすでにない。
しかし、ほとんど水中にいるのかのような低重力空間の作用によって、司書とスノウの落下速度はごくゆっくりなものだ。
長い長い縦坑を、ふたりは泳ぐようにして降りて行く。
長大な柱が周囲には林立し、その隙間からなにか巨大な存在の死骸だけが垣間見える。
身を翻しながら、司書はスノウに問い直した。
「矛盾とは?」
「だって、狂人なんだよね、いまの世界にとっての《スピンドル能力者》って。でも、それをわたしたちは英雄だと定め、敬ってきた。これって、おかしいよね?」
「そうかな? 矛盾はどこにもないように思えるけれど」
「どういうこと?」
「どういうことって言われても……そうだなあ、こう考えてみてはどうだろうか」
スノウの手を引いていた司書は、振り返って両手を広げて見せた。
ワルツを踊る男女のように、ふたりは宙を舞う。
「敵として魔の十一氏族を作り上げた人々は、こんどは自分たちのなかに生まれた異分子、つまり《スピンドル能力者》に対処しなければならなくなった。最初は治療によって《意志》を消せないかと考えた彼らだったが、予期せぬ困難に直面した。《スピンドル能力者》たちは強力な《ちから》を、個人で扱えたんだ」
「そりゃだって異能者なんだからあたりまえじゃない。それに《フォーカス》だってあるし」
そうなんだ、と司書は頷く。
「彼らには強力な異能があった。そして《スピンドル》。やっかいなことに彼らは、《御方》たちの予備であったりオプションパーツとして生産されたはずの備品=《フォーカス》を単独で用いることができたんだ。《ねがい》ではなく《意志》によって、《御方》のパーツを強奪し、その《ちから》を振るうことのできる存在だったんだ」
「《御方》の……予備パーツ?! オプション?! えっえええ、《フォーカス》ってそうなの?!」
うん、と短く答えて司書は続けた。
「だから、治療は難航した。手強い抵抗にあった。《ねがい》によって世界観を作り直した人々は、こんどは旧世界に捨ててきたはずの悩みや葛藤が実体として受肉してしまった存在=《スピンドル能力者》たちに苦しめられた。自分たちが不要だとして捨てたはずの《意志》から《ちから》を引き出す生物は、まさに悪夢としか言いようがないものね」
司書は目を細める。
「しかし、ある日、人々は気がついた。悩んで、ではなく“庭園”による分析の果てにだけれど。考えたわけじゃなくて、受動的なデータ収集の結果だけれど」
司書の言い回しは独特で難しいが、ここまでの話につきあってきたスノウには、なんとなく意味が理解できた。
なるほどたしかに、《意志》を否定した人々の視点で見れば《スピンドル能力者》というのは、ヒトの姿をしていても頭の中身が別物のモンスターに思えるのかもしれない。
だが、だとしたら、どんなことに人々は気がついたのだろう。
「そのあることって?」
「《意志》を消すことが難しいのであれば《スピンドル能力者》たちにも、役割を与えたらいいんじゃないか、ということさ」
司書の答えは簡潔だったが、スノウににわかには意味が理解できない。
「役割……《意志》を消す替わりに?」
「そう。《意志》を消す替わりに」
「それってどういう……意味?」
進行方向に背を向け手を広げる司書に向かって、スノウは問いかける。
司書は微笑んで答えた。
「つまり、世界は《スピンドル能力者》たちに役割を与えることで、制御可能なものにしようとしたのさ」
「役割を与えて、制御する?」
それって具体的には?
小首を傾げるスノウに司書は答えた。
「どこから生まれてくるのかわからない人類の亜種=《スピンドル能力者》を、しらみつぶしに消し去って絶滅に追い込むのは困難だった。抵抗も酷い。では、同じく脅威としての役割を与えた敵と戦わせてみたらどうだろうか。しかも、彼らこそ選ばれし者だと設定して。そう結論したんだ」
「!」
司書の言葉にスノウは絶句した。
突発的な怒りが込み上げるのと同時に、巧妙な手口に感心までしてしまった。
いや、手口が巧妙だったからこそスノウは怒ったのかもしれない。
「じゃあなに。敵同士を争わせようって……いいえ、そのようにしたのね?」
「そう。《スピンドル能力者》とは《スピンドル》に選ばれし勇者たちであり、自分たち人類を守るために天が遣わした戦士であるとした。そして、人類の敵とは──もう言わなくてもわかるだろう?」
司書の念押しに、スノウは大きく息を吸いこんだ。
喉が引き攣れて、ひっ、と音が出る。
感情の昂ぶり。
泣いてしまう前の発作だと、スノウだってわかった。
だが、止められなかった。
「そんな。それじゃあ《スピンドル能力者》たちは、世界が自作自演で作り上げた敵と戦うことで、消耗していく……そんな彼らの姿を後ろの観客席から……《みんな》は観てるっていうの。面白い出し物、コロッセウムで行われる剣闘士と猛獣の対決を観るみたいに」
口元を両手で覆い、真っ青になってスノウは口走った。
司書はゆっくりと首肯してみせる。
「ひどい! ひどすぎるよ! そんな、そんなのッ!」
《みんな》のためだと信じて、世界を護り、人類圏を切り拓くために戦って果てていった《スピンドル能力者》たちを想ってスノウは泣いた。
理性が押し止めるヒマさえない。
衝動的な感情の爆発が声に、涙になって迸った。
低重力のなかで球体になった熱い液体が、真珠のように飛び散る。
「ぜんぶ、ぜんぶ、計画通りだって言うのッ?! 大昔に《意志》を捨て去ろうと思った人々の、いいえ、いまもなお考えることを拒否し続けるヒトたちの犠牲者だっていうこと?! 《スピンドル能力者》たちはッ?!」
スノウの激昂を数秒、真顔で見つめて司書は口を開いた。
「いや、この件に関して言えば、痛み分けと言ったほうがいいかもしれない」
「痛み分け? 痛み分けってどういうことよ?!」
ぜんぶぜんぶ《スピンドル能力者》たちになすりつけておいて、痛み分けってどういうことよ?!
スノウは激昂のまま、詰問した。
対する司書は冷静沈着そのものだ。
「《スピンドル能力者》たちの闘いは無駄ではない。無駄ではなかったんだ。その証拠に“庭園”は基底現実世界との接点をいくつも、大きく失った。それは《ねがい》の供給源との乖離と大幅な減少を意味している。完全な意味で《みんな》の望んだ世界は実現せず、ワールズエンデという世界観は漂流をはじめた」
「《ねがい》の通りにはならなかった、ってこと?」
「自分たちが作り出した魔の十一氏族と《スピンドル能力者》たちの闘いは、《みんな》の予想を遥かに超えたものだった。制御しきれないものだったんだ」
握り拳を作って、スノウがまた大きく息を吸いこんだ。
その様子に司書は苦笑する。
「ざまあみろ、って言いたげだね」
「だって、自分たちが楽になるために《スピンドル能力者》や魔の十一氏族……夜魔や土蜘蛛たちのせいにしたんでしょ? 天罰だよ」
「そうかもしれない。実際に小規模な《ブルーム・タイド》があのあとも幾度か起ったけれど、世界は完全なものにはならなかった。こういう言い方でわかるかな──“理想郷”は地上には舞い降りなかった。それどころか、そのたびに《スピンドル能力者》たちの抵抗に遭い、ネットワークは《スピンドル》によって焼かれた」
カオスは増大し、世界観は綻びだらけになった。
「《スピンドル能力者》たちが悪いみたいに言うのね」
「カオスが増大するってことは、予測のできないことが起るってことだ。だれが敵で味方なのか、わからなくなるってことでもある」
「たとえば、夜魔の姫と人間の英雄が手を取りあって背中を護りあって戦う、みたいに?」
そう、と司書は認めた。
ボクたちはそれを特異点と呼んでいる、と。
「特異点は世界観だけではなく宇宙法則さえも乱す。そういう世界法則に叛逆するのは気持ちいいかも知れないが……英雄譚は書物のなかにだけ閉じこめておくべきものだよ。現実に現れ出でた英雄は、戦乱の申し子だ。カオスの権化。そして、彼ら彼女らの輝かしい生き方の足下で踏みつぶされていくのは、必ず名もなき人々の群れだ。それは歴史が証明している」
「だからって……最初に世界をこんなふうにしたのは《みんな》でしょう?! 《スピンドル能力者》と魔の氏族たちにぜんぶ押し付けて!」
言い放つスノウに司書は、心底困ったという顔をした。
それから、諦めたように目を伏せる。
「そうだね。キミの言う通りだ。たしかに《みんな》のせいなんだ。たとえそれが《意志》なき無意識の望みだとしても、責任を放棄したいと願ってしまった《みんな》の」
そこまで言って司書は、視線を急に戻した。
でもね、と笑って。
「そういう無責任な人間たちのなかにも、後になって過ちに気がついた者もいる」
「後になって気がついた?」
「歴史を学んだってことさ」
「歴史を……それは、いまここまでアナタが教えてくれたみたいな意味での歴史?」
「そう。この世界観に役割を割り振られた人々の生み出した偽史ではなく。秘められた本当の歴史を」
つまり、いま語ったこと──いかにしてこの世界観は産み落とされたのかってことを。
意味深な司書の言葉に、スノウの眉根が寄る。
「どこに? そんなヒトが、どこにいるの?」
眉をつり上げて問うスノウに司書はもう一度、微笑んだ。
限りなく優しくて、麗しい笑み。
それから、言った。
「ここに。キミの目の前に。オーバーロードと成り果て、数千年のときを超えて」
「え?!」
スノウのエメラルド色の瞳が大きく見開かれた。
冗談でしょう? と無言でその目が言う。
残念ながら、と司書の目も言う。
「ようこそ、我が大図書館の最深部へ。待っていたよ、スノウ。ここがキミの終着点であり、同時に新しき生のはじまりでもある。さあ、やり直そう。失われた“理想郷”との繋がりを再建し、正しい完成に世界を導こう」
突然の告白に、スノウは声もない。
ただ、拳を握ったままだった腕が萎縮するように、自分の心を護るように胸に向かって折りたたまれていく。
「キミのその未熟は、不完全な《スピンドル》は、この日のために未完だった。ワールズエンデ観測史上、はじめて《魂》を得た者──アシュレダウ──との強い縁を持ったキミ。彼のことしか考えられないキミ。そんなキミにしかこれはできないことだ」
つくりなおそう、“庭園”との掛け橋を。
世界を完全なるものとするために。
ふたたび《みんな》で繋がるために。
完璧な理想郷──すなわち《スピンドル》も《魂》も統御可能な完璧な世界観のために。
「あなた……ホントは、だれ、なの」
スノウは事態の急変にすっかりすくんでしまって、ようやくそれだけ聞く。
《意志》はひるんではいけないと言うが、肉体はその思いを拒絶する。
怯えたスノウに、ますます優しく微笑んで、司書だったモノは自己紹介した。
「これは申し遅れた、レディ、スノウ。ボク──妾こそは、あらゆる物語の主にしてはじまりの本。汝らが、魔道書と呼ぶ存在」
まさか、とスノウは恐怖に痙攣する喉の奥で言う。
そのまさかさ、と司書だったものは嗤う。
見る間にその姿は溶けて、別のものとなる。
見開きにされた巨大な本と融合した、スノウより幼い少女の姿。
もちろん、幼いはずなどない。
なぜならそれは、
「オーバーロード:ビブロ・ヴァレリ」
その言葉をスノウは、どこか遠いところで聞いた。
 




