■第一一八夜:創世神話(3)
「なんなの、これ」
「これは淫魔。キミも名前くらいは聞いたことがあるんじゃない?」
「淫魔……そうかだからこんなふうに感じるんだ……。でもコイツ、こっちのヤツはなんなの。ハッキリ言ってバケモノじゃない」
「これは欲望に魅入られ堕ちた後の姿。彼女いや彼でもあるのだけれど、淫魔たちの肉体は可塑性がありすぎる。強く自分を規定し続けないと、こんな風に際限なく肉欲を取り込んで堕ちてしまう」
司書の解説に、スノウは大きく息を吸いこんだ。
喉が引き攣れるのがわかった。
「肉欲を取り込んで……こんな風になる」
「一度でも堕ちた淫魔たちは妄念とでも言うべき衝動に突き動かされて、他者を求める。一番最初の標的は同じく淫魔たちだ。そして、その高い可塑性のせいで淫魔たちは事実上の不老不死。だから彼女たちは人里離れた場所に城塞のような修道院を築いては、閉鎖的で禁欲的な生活を自らに課す。祈りに生きねばならぬ聖職者たちの歪められたカタチ」
淫魔といえば寝室に潜り込み、男性女性を問わず堕落させる欲望の化身とばかり思っていたスノウは、これまでの印象と事実との違いに震える。
「でも、聖職者って要するにお坊さんのことだよね。修道士とか尼僧とか司祭さまのことだよね。なんでそれが淫魔なの」
「さて、なぜかなのかまではボクにもわからない。ただ、神殿娼婦や衆道の例も……おっと、キミはまだ未成年だったね。この話題はよそうか」
なんだかはぐらかされたようでスノウは不満だったが、淫魔の話を根掘り葉掘り自分から聞くのも世間体としてはばかられた。
なんというか年頃の女子的には、そんな話題に食い付いて自分までふしだらだとは思われたくないものだ。
司書のことを男性格と認識しているスノウには、まずをもって無理なことだった。
次に現れたのは人間ではなかった。
いやすくなくとも人のカタチはしていない。
「ナニコレ……完全に獣、というか怪物」
「そう、その印象であっている。彼らは魔獣。遊牧民や定住地を持たず旅を続けるロマニがごとき、まつろわざる民の歪められし姿。そしてある意味では父性の、でもある」
「父性、ってお父さん? どういうこと。なぜお父さんが魔獣なの?」
遊牧民やロマニたちのことはスノウにもなんとなくわかる。
定住地を持たない彼らは、スノウからすれば山賊・野盗と紙一重だ。
実際にスノウたちの祖国トラントリムは過去、そういう連中と戦ってきた。
インクルード・ビーストを使役する孤立主義者──純人類解放戦線こそはまさにその一例だ。
だが、それがどうすれば父性と結びつくのか、わからない。
そんなスノウに、たぶんなんだけれど、と司書は解説した。
「たぶんなんだけれど、無責任に子を為し、そのあとは放置する存在としてなんじゃないかな」
「それ……ひどい」
「ただ自然界を見てもオスというのは、その傾向が強いんだよ。つがいを作って子を慈しみ守り合うシステムは数的には、むしろ例外といってもいい」
「でも、お父さんってことはこれ、魔獣はもとは人間なんだよね?! 人間のお父さんは子供を守るでしょ?!」
「やけにお父さんを庇うけど……そうか、スノウ、キミは半夜魔か。トラントリムの。そうか、だから」
怪訝な顔をしていた司書の表情が一転、理解に及んだ。
未熟ながら夜魔の血統の特徴がスノウには表れている。
具体的には感情の昂ぶりに呼応して犬歯が伸びる。
「わ、わたしにだってお父さまはいないよ。ずっと側にいて守ってくれるっていう意味で。でも母さまはお父さまのことずっと好きだったし、ずっと想っていたし、悪口なんか一回も聞いたことないし。すてきな恋の果てにわたしを生んだんだって教えてくれたし、それに、それに、毎年贈り物もくれて、わたしのお父さんは──成人したら登城して騎士見習いになって、それでお父さんに会うはずだったんだから」
でも、それはできなくなったけれど。
なぜってそれは、アシュレたちがトラントリムを覆っていた虚飾をヴェールを剥ぎ取り、夜魔の騎士たちを滅ぼしたから。
言葉にならなかったものまで含めて、スノウの主張を司書は聞いた。
黙って。
司書は理解したのだ、このスノウの興奮の源泉について。
夜魔たちとの融和政策=“血の貨幣共栄圏”という《夢》の産物であるスノウにとって、父性とは自らの血統を明かし立ててくれるものであり、自分という存在の正統性、その旗印そのものなのだ。
それを汚されることは、すなわち自分自身の存在の根幹を攻撃されるのと同じ。
だから、認めたくないのだ、と。
司書は溜め息をつき、それから優しく微笑んだ。
「まったくだね。蛇の巫女たちもそうだけれど、母性も父性も貶めてはならないものだね」
「でしょう。ホント失礼しちゃうわ」
ぷいっ、と顔を逸らしていうスノウに、司書はもう一度大きく溜め息をついた。
魔獣たちは野生動物に、あらゆる悪意を大鍋で煮込んで混ぜ合わせたような、醜悪なフォルムをしている。
特徴的なのはその頭部は人類を想わせる顔があること。
ひとことで言って正視に堪えぬ悪夢そのもの。
ただ、スノウが目を逸らしたのは、その視界に凶悪な姿をした父性の象徴が入ったからだ。
それは愛を交すための器官ではなく、他者を征服し蹂躙するための凶器と表現するほかないものだ。
司書ですら胸が悪くなるような代物を、スノウが直視できるはずもなかった。
「次にいきましょ」
「うん、そうしよう」
スノウが司書の手を取る。
司書は同意して従った。
「これは……わかった。病魔ね」
「ご名答。どうしてわかったの?」
「魔の十一氏族はこれまで九つ出てきたわ。残りはあとふたつ。そしてこの姿──夜魔でないのは確実だもの」
スノウの言う通り、眼前に現れ出た存在は魔獣とは別の意味で痛ましい姿をしていた。
健全な部分はそれこそ精霊・妖精のごとくに美しいのだが、それ以外の部分は正視に堪えぬ醜怪な代物であった。
たとえば手足の末端が色とりどりの鱗に覆われているようで、その実、それらすべては種類の違う疥癬であり、あるいはカビによる皮膚病であったりする。
イチゴのごとき大きさまで発達してしまった発疹が、まるでアクセサリーのように素肌を彩る。
穢れを知らぬ新雪のごとき美と、それら病がもたらす異形の奇景が隣接することで、凄まじいグロテスクがそこには生じている。
ほかにも上げれば切りがないが、これ以上の直接的な描写をスノウの頭が拒絶した。
うぐ、と込み上げた来たものに、たまらず口元を押さる。
「ごめん、我慢できない。次いこう」
「そうだね。病魔たちの王であるプレイグルフトは男でもあり女でもあって、この世ならざる美しさを誇るというけれど……彼らは本来医療に関係する人々なんだ。医者や看護師や薬師たちの歪められた姿、それが病魔だ」
そして、ついに最後の柩の前にまで、司書とスノウは辿りついた。
「もう名前は教えてくれなくていいわ」
「そうだね」
十二番目の柩のなかにいたのは、スノウの父と同じ種族であった。
すなわち夜魔。
男女ともに堂々たる体躯を誇ることは、竜族にも通ずる。
ただ、竜族が威圧的な王権の体現であるのに比べ、夜魔たちのそれはもっと洗練された──貴族的な血を感じさせるものであった。
たとえるならば竜族の司るものが究極的な権力=すなわち暴力的であるのに対し、夜魔たちのそれはもうすこし迂遠な統治の《ちから》の現れであるように、スノウには思えた。
「キミのお父さんと同じ種族だ」
「これまでの魔の十一氏族たちは皆、なにかの役割を押しつけられてきたでしょ。料理人とか、技術者とか、兵士とか。夜魔はなにを押しつけられたの?」
「ああ、知りたいんだね。そう、彼らは統治者としての貴族の役割を練りつけられた存在なんだよ」
「それは支配する者ってこと?」
「正しい場所に自分たちを導いて欲しいっていう《ねがい》を体現したらこうなったんだろうね。貴族、統治者、官僚機構、まあその国が採用した統治のシステムはそれぞれだろうけれど、人民の代表として実際に政治を行う役割さ」
「ちょっと疑問なんだけど……それって、夜魔にその《ねがい》をなすりつけたヒトたちって、支配されたいって思ってるってことなの?」
スノウの問いかけに、司書はなるほど、と呟いた。
「それはなかなか鋭い質問だね。結論を言えばその通り。だれかに支配されたく、同時にその支配に対して文句も言いたい。夜魔たちの獲得した永遠生と完全記憶は、統治の意味を知らぬまま石を投げつけても自己再生してくれる、しかしそのことを忘れないことで永劫に苦しんでくれる標的としての機能を意味している」
「なんだか……」
「ん、どうした浮かない顔をして」
「ここまで魔の十一氏族たちの原型を見てきたけど、わたし、人類を嫌いになりそう」
スノウはコフィンの表面に掌で触れながら、つぶやいた。
夜魔の原型のうち男性型が、ユガディールによく似ていたからなのかもしれない。
イズマあたりには感傷だと笑われそうだが。
「なすりつけて、放棄して、あげくの果てに歪めてその役割のヒトたちを作り上げた。そして、それを悪と断じて、自分たちは思考停止の檻に閉じこもった」
「それが大勢の──みんなの本音=真意だったからね。“接続子”と“庭園”はそれらを明らかにして集計して、その小さな《ねがい》をひとつずつ集めた。その果てに《ブルーム・タイド》が起ってしまった」
「でも、考えること、現実に抗うこと、《意志》を手放さなかったヒトたちもいるわ!」
“理想郷”に屈する前のユガディールや、アシュレたちのように。
スノウの力説に、司書は頷いた。
そうなんだ、と。
「そう。世界に《ブルーム・タイド》が吹き荒れ認知改変が行われ、それまでの世界観がこのワールズエンデという界に置換されたとき、それは起こった」
「それ?」
「《スピンドル能力者》の誕生さ」
「《スピンドル能力者》の誕生」
そう、と司書はもう一度、頷いた
「ヒトが《意志》を手放そうとしたことに抵抗した者たち。考えることを止めなかった者たち。彼らは《ブルーム・タイド》とそれによって認知改変を行った人々に、結果として追いつめられることになる。それも無意識のうちに」
「どうして? やっぱり……迫害されたの?」
スノウの問いかけに、司書は苦笑する。
首を振って答える。
違うんだ、と。
「逆だよ、スノウ。《意志》を手放した人々は、《意志ある者》を救おうとしたんだ。《意志》を病とみなし、これを治療しようとしたんだ。だって《意志》を持ち続けることは、苦痛なんだから。だからみんなで逃げることにしたのに──《意志》ある者たちは逃げることもできずに、その苦痛にずっと晒され続けていることになるだろ? 世界にはもう“理想郷”が降りているのに、その恩恵に浴せないなんて可哀想じゃないか」
「救おうとした。可哀想だから……」
衝撃の事実にスノウは身震いした。
すべてが変わってしまった夜、頽れる塔の上で見聞きした光景と“再誕の聖母”の言葉が甦った。
なぜこの救いを受けいれないのか、なぜわたしの手を拒むのか──。
たしかに、そんなことを彼女は言ったし、実際に背負っていた。
輝かしき、平穏なる、永劫の“理想郷”の姿を、まるで光背のように。
「なぜって《意志》ある者は見抜こうとするからだ。この世界の虚飾や偽り、つまり欺瞞を。あたかも《閉鎖回廊》の深奥でも意識と記憶を保てるように。だが、世界全体が《意志》を不要とし、それに迎合して作り替えられた世界観のなかで、その欺瞞を見抜くとは、どういうことだろう? たぶんそれは、きっと大衆には、狂人としてしか認識されないのではないかな」
司書の言葉にスノウは息を呑む。
とっさには、うまく答えられない。
ただただ、それがどんなに恐ろしいことなのか、そのことだけはわかる。
「目の前の相手に《意志》がないと見抜く者は……狂人……」
「世界のおかしさを正確に言い当てることの出来る者は、その世界を正しいと信じている大勢からすれば──まさにそうとしか言えないだろう。狂気に侵されていると」
「そうやって世界は《意志》ある人々を追いつめた」
「そう。だが、そんなある日、生じたんだ。人類のなかに《意志》を《ちから》に変えることのできる者が。同時多発的に。それが《スピンドル能力者》」
君たちが英雄──すなわち人類の希望と呼ぶ存在だよ。




