■第一一五夜:英雄ならざる者たちのために
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『この世界、いや、この世界観は《ブルーム・タイド》によって創られた』
数千年の歴史を誇る都:ヘリアティウムの上空で、文人皇帝の投影は秘密を語る。
オズマドラ帝国の大帝は、その言葉を、飛翔する船の上で聞いた。
“接続子”のこと、“庭園”のこと、そして《ねがい》のこと。
ちょうどスノウが司書から、それらすべてにまつわる知識を得ていた頃、地上でもふたりの皇帝が同じくこの世界の秘めたる深奥を開陳し、あるいは、それを聞いていた。
これまで世界が、そのはらわたに呑んでいた汚泥のごとき秘密を、落日の帝国の文人皇帝:ルカティウスは淡々と語る。
そして、語り聞かされる覇者もまた、すくなくとも表面上は、事実を冷静に受け止めれるだけの器量の持ち主であった。
ひとしきりルカティウスの話を聞いたオズマヒムは、おもしろい、と前置きした上で問うた。
「世界の開闢に──《ブルーム・タイド》とな。それはいかなる現象か」
『世界観の、だ。世界観の開闢。この世界観がいかにして生まれ、始まったのか──それを聞く勇気が貴君にあるか』
「無論」
大帝:オズマヒムを乗せた真騎士の乙女たちの旗艦:飛翔艇:ゲイルドリヴルは、なんとか安定を取り戻し、ゆっくりとヘリアティウム上空を航行する。
頭上にはまるで悪魔のツメのごとき岩塊が、猛獣を捕らえる檻を思わせて屹立している。
純白の岩塊は恐ろしいほどすべやかな表面を持ち、そこに太く細く赤い光の帯が走っている。
霧のように妖しく輝く粒子が宙を舞う。
たしかに一種独特の美もあるが、これを美しいと評するのは常人の精神では不可能に近い。
市中ではヘリアティウムの市民一〇万が、城壁の外ではオズマドラ軍二〇万の将兵たちのそれぞれが、襲いかかる大異変によって未曾有の危機に陥っていた。
ひいいいいい、とも、おおおおおおとも聞こえる絶叫の唱和が大気を震わせる。
地上はいまや悲鳴と怒号が入り乱れる、この世の地獄だ。
その上で、すでに人類の埒の外へと踏み出しかけたふたりの男は、会談する。
『さて、《ねがい》とは正視に堪えぬ人間の深奥により来るものだ、と語ったことを憶えているか』
「たしかに聞いた。そしてある種の《ちから》である、とも」
『そう。《ねがい》は《ちから》。《スピンドル》とともに、人間の精神の領域に根ざす《ちから》なのだ』
《スピンドル能力者》でさえないわたしには、それがどのように似ているのかは、真の意味ではわからないのだが。
皮肉げに口元を歪めて、ビブロンズ帝国皇帝:ルカティウス十二世は答えた。
『ある日、それが暴発した。“庭園”に蓄積された膨大な《ねがい》が、爆流となって荒れ狂った。これは《スピンドル》の暴走=《スピンアウト》を極大規模に拡大したものと考えれば、間違いない』
ルカティウスの言う《ねがい》の爆流=極大規模の《スピンアウト》がもたらす大破壊を想像したのか、オズマヒムは目を細めた。
オズマドラ帝国には、《スピンアウト》によって都市ひとつが、そこに暮らす数万の民草を巻き込んで消滅したという記録が残されている。
それが極大規模に拡大されたものだというのであれば、そのとき、いかなる破滅が世界に吹き荒れたのか。
オズマヒムでなくとも眉をひそめるのは当然であっただろう。
「“庭園”に集積されていたという《ねがい》。いったいそれは幾百万、幾千万の人々の想いであったろうかな」
想わず漏れた感想には、悼むような響きがあった。
ルカティウスは応じる。
冷徹に数字を上げて。
『桁が違う。すくなく見積もっても数億。だが、溜め込まれていた《ねがい》の総量とは。一年やそこらの蓄積のことではない。四半世紀かそれ以上かけてそれは溜め込まれたのだ。すくなく見積もっても数百億から数千億、あるいは数兆、数百兆という膨大さでそれはあっただろう。そのすべてが一夜のうちに──“接続子”を通じて、基底となった世界そのものに逆流した。植入を果たした人々を媒介として』
「仮想次元としての“庭園”からの《ちから》の逆流。それも大量の──」
両雄は脳裏に雪崩を打って奈落へと落ちていく、巨大なエネルギー塊を幻視した。
あたかもそれは、天から地を打ち据える彗星の激突のごとき《ちから》だ。
そして、奈落とは、基底である現実世界と“庭園”とを繋げる坑のことだ。
そこを通って、強大な《ねがいのちから》が世界に逆流した。
なるほど、と頷いてみせたのはオズマヒムだ。
「なるほど、もし《ねがい》とやらが《スピンドル》に匹敵するほどの《ちから》だと言うのであれば、世界を揺るがす巨大な現象──災害と呼んだ方がいいのか──が起ってもなんの不思議もないであろう」
これまで強力な《フォーカス》群に身を固め、戦場を駆けてきたオズマヒムには、ルカティウスの言葉の意味がよく理解できた。
「しかし、塵芥にも等しい名もなき人々の《ねがい》が、いかに圧倒的な総量とはいえ、我ら《スピンドル能力者》の異能に匹敵するとは。しかもそれだけではなく、世界を書き換えてしまうほどの《ちから》を持つとは。にわかには信じがたい話である」
嘲ってのことではない。
純粋な驚愕と畏れから、オズマヒムは言ったのだ。
その意図を汲んでか、ルカティウスは補足した。
『その意見には同意しよう。一夜にして変わってしまったのは、まず人類の知覚と認知であったのだろうとわたしは推察する。物理的存在を改変するには、なんにせよ相応の時間とさらに膨大な《ちから》が必要だ。だとすれば、世界を変えた、と人々に思い込ませるに、もっとも手っ取り早い方策とはすなわち──人々の認知を操作することに相違あるまい』
“接続子”が我々の心と“庭園”とを繋ぎ、そこに《ねがい》を汲み上げていたのであれば、その経路を《ねがい》が逆流してきたとき真っ先に影響を受けるのは、人々の心だとしてもなんの不思議もない。
そうルカティウスは言ったのだ。
オズマヒムは問う。
「今宵、貴方がそうしたようにか、ルカ」
『それについても訂正しなければならない。わたしが、ではない。望んだのはわたしではない』
「またそれか。なるほど、つまるところ貴方は民草の《ねがい》を代行しているに過ぎない、というのだな」
『わたしが、という言い方も正確さを欠く』
どう言ったら貴君に、正確に伝わるだろうか。
ルカティウスは空中で卵を掴むような仕草をした。
なんとか本質を掴もうとする心の動きを表すように、掌をそのカタチのまま捻っては戻す。
『そうだな。だれかが願ったというのであれば、この世界そのものが、というのが正しいだろう』
「なるほど。貴方はこう言うわけだ。この世界──この世界観は、この世に暮らすすべての人々によって望まれ改変されたあとの世界であると」
かつては親友以上の関係であったという男の理解に、ルカティウスは深く頷いてみせた。
『いかにも。いかにもまさしく』
ふうむ、とオズマヒムは唸る。
「ではそれはどういう望みであるか。どういう《ねがい》であったのか。つまり、《ねがい》の正体だな。それについて貴方はどう考えたか」
対岸の将であるルカティウスのさらなる仮説を、オズマヒムは望んだ。
この場面だけ切り取ってみたら、ふたりの関係は往時のまま、親とも子とも慕いあったあの日のままだった。
オズマヒムの率直さに、ルカティウスは苦い笑みを浮かべた。
それから答える。
『だれかから決まった役割を割り振られる世界。《意志》を持たずとも法則と役割演技がすべてを決してくれる世界──ではあるまいか』
ルカティウスの言葉に、今度はオズマヒムが失笑する番だった。
「なんともはや。それでは傀儡の人生ではないか。だれが望むというのか、そのような未来を」
世界に覇を唱えるオズマドラ帝国皇帝の嗤いに、老いた文人皇帝は深く溜め息をついた。
『オズマヒム、貴君がそれを笑い飛ばせるのは、貴君の生まれや恵まれた多くの出逢い、そしてそのなかで磨かれ開花した貴君自身の資質と器に起因するのだと、かつてはわたしも思っていた。それが羨ましくもあり、またなんと厳しい道を歩む者であるのかと畏れ敬いもし、そのあとで胸を痛めたものだ』
だが、と落日の帝国の皇帝は逆接した。
その瞳、その表情には憐れみがある。
『だが、わたしは知っている。貴君の苦悩と苦痛を。生涯唯一愛した女性──真騎士の乙女:ブリュンフロイデとの間に設けた一粒種、その正体を知る貴君の悲痛を。その果てに、いま貴君が求めているもののことを』
その貴君に、この世界を望んだ、名もなき民草たちの《ねがい》を嗤う資格はない。
ルカティウスの語りに、オズマヒムは応えない。
心の内を伺わせぬ表情で、無言で、そこにある。
だから、落日の皇帝は語る。
まるで訴えかけるかのように。
『なぜなら、貴君もまた傀儡たろうとしてる。ただ、人々が望む平穏の奴隷としてではなく、英霊という概念そのものになることで。永劫に揺らがぬ存在となることで、苦悩から逃れようとしている』
そして、と続けた。
『そして、その過程において貴君は推し進めるのだろう。己と真騎士の乙女たちの信じる英雄国家としての道を。光り輝ける者たちの世界を実現するために。だが、よく考えるがいい。だれしもが偉人や英雄の基準では生きられない。そのように高潔には生きてはいけないのが、我々なのだ。世界を構成するほとんどの存在……つまり、わたしと同じく凡人たちはそんなふうに常に高みを目指してはいけない』
それが世界というものなのだ。
それだけではない。
『これまで貴君に説明してきたように、いま我々が知覚する世界観こそは、はじめて人民の《ねがい》、つまり民意によって選択された未来──民意によって決定された世界なのだ。そんなものはおそらく旧世界のどこを探しても、これ以前はなかったはずだ。つまり、我らの世界:このワールズエンデこそ、叶えられた名もなき人々の《ねがい》の姿』
ならば、とルカティウスの言葉にわずかだか《ちから》が込められた。
『そこに暮らし自らが望んだ世界を享受する凡人たちを排し、英雄たちの決断によってのみ進む世界へと貴君が紡ぎ直そうというのであれば』
そのとき、老い疲れた男の眼に鋭いものが宿るのを、オズマドラの大帝は見た。
『わたしは、その選択を許すことはできない。わたしはこの──民草の《ねがい》によって改変された世界を護る。たとえこれが欺瞞であろうとも。名もなき人々の総意の結実である、この世界を』
この世界を、貴君らひと握りの「英雄」たちの好きにはさせはしない。
相変わらず淡々と、静かな口調でだが、ルカティウスは告げた。




