■第一一四夜:処女懐胎
「でも、おかしいよ」
螺旋を描く長い長い階段を、ふたりは肩を寄せ合って降りていく。
スノウは司書に問いかける。
なにがだい、と司書は先を促す。
「なにがって……だっていくらヒトの心の奥底の《ねがい》に辿りついたからって、その《ねがい》が《意志》を放棄することだったからって、それだけじゃなにも変わらないはずでしょ。人間は心の奥底で《意志》を放棄したいって願っているとわかったからといって、それを実現させるためのなにかが起らなきゃ──だれかがそれを実現しようとして実際に行動しなくちゃ、叶うはずないじゃない」
司書の顔を覗き込んで、スノウは主張した。
深い淵の色の瞳が、無言でそれを受け止める。
言外に「たとえば?」と質問されているように感じて、スノウは自ら具体例を捻り出す。
「た、たとえば、そうだなっ。たとえば、わたしがどんなにご主人様の……アシュレのことを想っても、想ってしまっていても、か、叶わないじゃん。シオンやアスカや、アテルイさんには、か、敵わないわけじゃん!」
顔を真っ赤にして主張するスノウの可愛らしさに、司書は思わず吹きだした。
「な、なによ、ヒトがせっかく一生懸命考えてるのに! それ笑うところじゃなくないッ?!」
「ごめんごめん、本当に申し訳ない。あまりにキミが可愛らしくていじらしくてね。いや、ほんとうにキミの言う通りだ。どんなに《ねがって》も、叶えてくれるだれかがいなければ、それは不可能だものね」
「でしょう? そんなのほんとうに神さまでも連れてこなきゃ、できないはずだよ」
我が意を得たりというスノウの表情に、司書は同意を返した。
「たしかにそうだ。そして、神さまを連れてくるのは……たぶん、“庭園”が全盛期を迎えた旧世界・古代文明絶頂期でも不可能だったろうから」
「でしょう? だったらそんなのやっぱり不可能なんだわ」
「だから、その不可能を可能にしようとしたんだろうね」
「えっ?」
自分の出した結論の完璧さに満足しかけたスノウは、司書の言葉に驚愕の声を上げた。
「不可能を可能にしようとしたって……どういう。それはどういう、意味?」
「神さまを連れてくることはできない。でも、神さまを造ることはできるんじゃないか? そういう結論に至ったんじゃないのかな」
「神さまを造る?! ちょっとまって。そんな罰当たりな。考えるだけでも不遜だわ。必ず神罰が下ります!」
スノウの反論に、司書は思わず声を出して笑った。
あっはっはっはっ、と、ちいさくだが。
「なに、わたしまたなにかおかしなこと言った?!」
「キミは面白いなあ。ヒトが神さまに近づこうって話には肯定的だったのに、神さまをヒトが造るのはダメなのかい?」
「だってそれは! 似てるけど全然別のことだよ! わたしたちが父さまや母さまの凄さに近づきたいと思うくらい、ヒトが神さまに近づきたいって思うことは自然なこと。でも、それと神さまを造ってしまえ、というのは全然違うじゃない。父さまがいないからって、父さまをこしらえてしまえばいいって言ってるのと同じことよ。それはダメなことです」
スノウの言葉に、司書は笑うのを止めてまじまじと彼女に見入った。
「な、なによ」
「いや、やっぱりキミは面白いなと思ってサ」
改めてそう言われて、スノウは赤面するのを感じた。
完璧に整った司書の美貌をはじめて意識する。
当の司書は、まったく動じた様子もなく続けた。
「でも、どうか冷静にボクの話を聞いて欲しい。これは推論じゃなくて実際に起きたこと……事実列挙なんだから」
事実列挙という言葉の重さに、スノウは息を呑んだ。
「じゃあ、まさか本当に造ったっていうの──神さまを」
「いつのまにか造られていた、っていうのが正しいんだろうけど。人類の認知としては」
スノウの怯えを含んだ問いかけを、司書はしれっと認めた。
ざわり、とスノウの肉体は総毛立つ。
「いつのまにかに……ってそれこそできるわけがないじゃない。さっきも言ったでしょ?! 願うだけでは叶わないんだって!!」
「スノウ、どうか落ち着いて。そして、このことについては、さっきボクも言ったよ。“庭園”は辿りついたって。多くの人々のほんとうの《ねがい》に。そして、こうも言ったよ。“接続子”は自動的に、だれの手も借りずに、“庭園”を改善するって」
司書の言葉は努めて冷静だった。
それが逆にスノウには怖かった。
「だれの手も借りずに、改善、する……」
「たぶん最初は仮想次元でのこと、つまり“庭園”内部でのシミュレーション……ええと今風に言い換えると、《みんな》の頭のなかだけの想像に過ぎなかったんだと思う」
これまでにも増して淡々とした司書の語りに、スノウは震えながら反論した。
「想像っていうか、それ、妄想だよ。ふつうじゃないよ」
「うん、そうかもしれない。でもね、スノウ。《ねがい》はどうしたって普通じゃない。だって実現するはずがない、いいや、実現しちゃいけないって思うから《ねがい》は《ねがい》のままなんだよ、普通は。実現の可能性なんてあるはずないと知っているからこそ、みんな無意識に心の奥底に押し込めているんだ。そんな《ねがい》が普通であるはずなんかないじゃないか」
たとえば、と口にしかけて司書は言い淀んだ。
その目の動きで、スノウには意図が伝わった。
胸を押さえる。
たしかに、いまスノウの胸の内に巣くう想いも普通かと問われたら、言い返せない。
すでに深い契りを結んだ男と女性たちの間に飛び込んで、同じ関係性で繋がりたいというスノウの《ねがい》は、周囲から見たらハッキリ言って狂気にしか見えないだろう。
だけど、と司書は続けた。
「だけどもし、その決して口に出せぬ秘めた想いを汲み取って忖度して……つまり先回りして実現の可能性を探ってくれる存在がいたら……どう思う?」
「それって……」
スノウは思わず想像する。
たとえば、自分のこの想いを密かに汲み取って成就させてくれる存在──不可視の愛の天使のごときものがいたとしたら。
「だ、ダメだよ、そんなの卑怯だ。自分で動かず、努力もせず、願うだけで望みを叶えちゃうなんてイケないことだよ!」
「キミがいい子なのはよくわかったよ、スノウ。でも、それは本心からの言葉かい?」
真顔で問われ、スノウは返答に窮した。
司書は首肯する。
「そう、それが本心というものだ。そして、遥かな古代、“庭園”を造営した人々は思い知ったのだ」
神さまのように振舞うことが、いかにしんどいことかを。
神に近い権能を得ることは、神に近い苦痛をも体験することだと。
知覚と権能の拡大は、責任の増大でもある。
それなのにあまりに多くのことが、自分の思い通りにできないことを彼らは知った。
知覚と権能の拡大は、しかし、彼ら自身を救ってはくれないことを。
「簡単に言えば疲れたんだ、彼らは。人間で──ヒトであり続けることに。キミの言葉を借りれば神に近づこうと努力し続けることに。より高い存在になろうとすることに」
「つまり、知り続けること、考え続けること、迷いながら歩むこと──《意志》を持ち続けることに疲れたって? そう言うの?」
唱和するようなスノウの声に「そう」と司書はまた頷いた。
それにしてもこの螺旋階段は、どこまで続くのか。
もうずいぶんと降りてきたはずだが、まだまだ底は見えない。
ただ、こおおおおおお、という空気の抜けるような音だけがする。
「きっとむかしから、人類がこの世に生じたころから、こんな種類の《ねがい》はあったのだろう。時代時代によって、すこしずつディティールは異なっていてもね。ただ、その《ねがい》がここまで集積されることはなかった。だって、そのひとつひとつは取るに足らない、具体性のないちいさなちいさな想いでしかないのだから」
風が吹いたら飛んでしまう、塵芥のごときものだもの。
「でも、それを余さず汲み取ることができたなら。意識にさえ上らず、外界でならあっという間に飛散してしまうような儚い想いをすべて記録し、集約し、集積できる場所があったとしたら。歴史家や識者や物語の作り手たちが苦心惨憺して書き記すような、文字通り骨をペンに血肉をインクにして想いを残すような非常な努力を払わずとも、先回りして自動的に想いを汲んで記録してくれるような道具と場所が、あったとしたら」
だんだんとスノウには司書の言いたいことがわかってきた。
震えが止まらない。
恐いのだ。
理解することが。
「“庭園”には、世界中から《ねがい》が集められた。“接続子”を経由して、そこに接続するすべての人々から。そして、その《ねがい》に忠実に、設計図は作られる。なにの? 決まっている。神さまの、だ。自分たちに代わって全知全能となり、自分たち人間の代りに世界を把握して、最適で間違いない判断を下す存在の──」
まって、と話を遮る言葉が喉から漏れる。
いつのまにかスノウは泣いている。
しかし、声は止まない。
「事態は秘密裏に実行に移される。《ねがい》は秘めたるもので無意識なのだから、だれにも知られてはいけない。“庭園”に集積され建造された“神さま”の設計図は、しかるべき生産ラインに割り振られ、降臨される。“庭園”に非接続であることなど、あの時代にはナンセンスだとされていたから、これを防ぐ手段などない。そして、それに関わる全員が無意識にもこれに加担する。なぜってそれは──これこそが彼らの《ねがい》そのものなのだから」
いつのまにか司書の言葉は自動的で、なめらかで、澱みなく、過剰だ。
「いつどこで、それが生み出されたのかは、だれもしらない。知覚できない。まさに処女懐胎の奇跡。ただし、受胎告知に天使は現れない。生物としてではなく、人類のすべてを代行する神として生み出されたそれは産道を経由することなく、この世界に現れる。“庭園”から、“天の國”から、“理想郷”から、降臨されて」
「それが《みんなのねがい》の結晶……世界の総意……そうだと言うの」
スノウの恐れに、司書は足下に広がる深い縦坑の奥を睨みつけたまま答えた。
「そう、それこそが“理想郷”から舞い降り、この世を“理想郷”と同化させる使命を帯びた神さまたち──」
──《御方》とボクたちが呼ぶ存在だ、と。
そして、その声に応じるかのように、渦を巻く螺旋階段の深奥になにかが見えはじめていた。




