■第一一三夜:不都合な真実
※
「たぶん、一番はじめに“庭園”と“接続子”を生みだしたヒトたちには、そんな意図は微塵もなかったんだと思う」
中間領域である蔵書の回廊を駆け抜けながら、スノウは彼の言葉を聞いた。
彼というのは司書のことだ。
性別を聞いたわけではないが、スノウは彼を男性格として認知した。
それはひとりきりで地下図書館に放り出された極限の緊張状態にあって、スノウの本能が「頼れる男性」を欲したからなのかもしれない。
真の父親を知らぬスノウは心の深い場所で、いつもそういう相手を求めていたのであろう。
あるいはアシュレへの想いの深層には、そんな欲求が潜んでいたのか。
とにかく彼と話していると、とても楽になれることにスノウは気づいてしまった。
ただ、なぜ、いまこんな話題を彼としているのか。
それだけはどうしたことか、なにひとつとして思い出せない。
たしか、この中間領域を抜け出そうとして……空に浮かぶ船を見て……閃光が目を焼いて……それから?
どうして、わたしはここで“接続子”や“庭園”の話を聞くことになったのだろう?
いや、この話題に興味がないのかと問われたら──聞いておきたくはある。
ここで“庭園”や“接続子”に詳しくなっておけば、再会したとき、きっとアシュレは褒めてくれる。
スノウは無意識にも計算する。
なぜってこれは要するに敵の正体に迫る話題、つまり、秘密に肉迫する話なのだから。
だから、手を取りあいともに走りながら語りかけてくる司書の言葉に、スノウは熱心に耳を傾ける。
質問する。
より深く理解するために。
アシュレの役に立ちたくて……褒めてもらいたくて。
「“庭園”や“接続子”を作ったヒトたちには、そんな意図はなかった?」
じゃあいったい、最初はどんな意図があったのだろう。
眉根を寄せてスノウは首を捻った。
そのスノウの表情をどう取ったのか、司書は答えた。
「そう、すくなくとも最初はね。みんながより早く正確な情報を共有し、誤解なくわかりあうために“庭園”は造営された。だから、そこに接続するための許可書として投与されたはずの“接続子”が、まさか人々の行動から無意識の《ねがい》を抽出して集積するなんて、だれにも想像できなかったはずなんだ」
「そうか、そうなんだ──みんながわかりあうために“庭園”と“接続子”は生み出されたんだね」
司書の言葉は難しい。
前提も噛みあっていない。
けれどもスノウにはわかる。
これは大事な話だ。
だから注意深く問う。
掴みかけている大事な事実を取りこぼさないために。
「でも、それが《ねがい》を集積した。集積っていうのは、みんなの《ねがい》を集めるってこと? そもそも《ねがい》って……なに?」
スノウは無知だ。
すくなくとも“庭園”や“接続子”に関しては。
だが、だからこそ、その問いかけは本質に迫る。
《ねがい》とはなにか、というスノウの質問に司書は頷く。
「こうであって欲しい。こうなりたい。こうして欲しい。そういう意識には上らない想いのこと。意識化できない……いや……あえてしない本音のこと。それをボクたちは《ねがい》と定義している」
「意識化しない本音? わざと?」
「そう。わざと、だ」
「なぜ? 《ねがい》なんでしょ、それは、そのひとの。心から、こうして欲しいっていう想いなんだよね?」
一気に通路を駆け抜け、突き当たりにある下り階段の前で息を整えながら、スノウは訊いた。
「それを意識できないっていうか、気がつけずにいるっていうのは、自分がなにを欲しているのか、自分で知ろうとしないってことなんじゃない?」
そんなの気持ち悪くないかな、とスノウは言った。
相変わらずの少女の率直すぎる意見に、司書はちいさく笑う。
「そうだね、たしかにスノウの言う通りだとボクも思う」
ずいぶんな距離を走って、さすがの司書も息を切らせている。
蔵書の壁に背中を預け、胸に手をおいて呼吸を調える。
もう一方の手で、スノウの指を固く握る。
「でも、そうだな、なんていうか。まだ人生経験の浅いキミにはわからないかもしれないけれど、多くのヒトは自分の本音を直視できないんだよ」
「なぜ? それは自分の想い──自分の《ねがい》なんだよね?」
経験が浅い、と言われたことが勘に障ったのか。
すこし怒ったような様子で食い下がってくるスノウに、司書は笑みを広げた。
素直でまっすぐな若さに苦笑したのだ。
「じゃあ、キミはアシュレってヒトへの想いを最初から認められた?」
もしかしたら司書の言葉には、はじめてスノウへの揶揄があったかもしれない。
効果はてきめんだった。
ぴっ、という雛鳥のような声がスノウの喉から飛びだした。
あっというまに顔が真っ赤になり、続いて胸を押さえてうずくまる。
「はやっ、はややっ」
言葉にならない声を上げ座り込んだスノウは、そのままへたり込んでしまう。
鎮静化しかけていた未熟な《スピンドル》が、また脈動をはじめたのだ。
「ほらね?」
同じく片膝をついて優しくスノウを抱き寄せながら、司書は言った。
「社会を作り出し、その内側を自分の世界と定義して生きるヒトにとって、本音を認めるのはなかなか難しい。そして、それ以前に、そもそも自分のほんとうの《ねがい》の在処を探り出し、暴くことのできる人間は、ほんのひと握りしかいないんだ」
諭すような司書の言葉に、スノウは涙目になって訊いた。
「なんで。なんでなの。なんで、探し出せないの……なんで、認められないの」
「だってそりゃあ……」
スノウの問いかけに司書は困った顔をした。
それはいまスノウが苦しんでいることの因果を暴いて見せるのと同義だと、司書は知っていたからだ。
「それは、キミがキミ自身の想いに翻弄されているのに、似てるんじゃないかな」
スノウには司書の捻り出した答えが、はぐらかしなのだとわかった。
ただ、そのはぐらかしがスノウを思いやってのものであることも。
司書はこう言ったのだ。
本音の在処を探り出し暴き立てる行為は、だれかの心をのぞき込み、封じられていたものに刃を立てて、抉り返すようなものだと。
その奥に秘せられていたものと対峙することだと。
そして、往々にしてそれらは恥部であり、醜悪なものであると。
自分のなかにあるアシュレへの想いが決して純粋な思慕や憧憬だけではないことを、スノウはすでに自覚していた。
その正体を突き詰めることで、自分がどれほど傷を負うことになるのかも、予想がついた。
表層的なもので言えば、たとえば嫉妬や劣等感や肉欲がそれだ。
「じゃあ……“接続子”は、その決して口に出来ない《ねがい》を、集める性質を持っていたってことなの?」
「そう、そうだ。そういうことなんだ。決して口に出来ぬ名。まさに」
スノウの理解に司書は微笑んだ。
考えることを止めない娘への、それは称賛だ。
握りしめた手に力を込め、スノウが立ち上がるのを助ける。
「当初、ヒトがよりよくわかりあうためのデバイスとして作り上げられた“接続子”は、人々の要望にすばやく順応できるよう、さまざまな情報を吸い上げ、それを“庭園”に蓄積しては自動更新……改善していくシステムを内包していた」
「わかんない単語多すぎでアタマが混乱してきた。よりよくわかりあうためって、具体的にはどんなことができたの? “接続子”や“庭園”は」
「ああ、ごめんごめん。調子に乗って対時代間翻訳を忘れていたね、そうだな……現代を生きるキミに分かりやすく説明するとなると……。うん、これでわかるかな? 望んだときにいつでもアシュレとお話ができる、しかも心のなかで繋がってふたりきりで。そういうことが可能なように造られたものだったんだよ。そういうものだったハズなんだ。最初は、ね」
「!」
アシュレと心で繋がれる──そのひとことにスノウの胸がまた早鐘を打った。
ふたたびへたりこむ。
ああこれはマズイたとえだったか、と司書は己の額に手をやる。
「アシュレと……ごしゅじんさまと心で繋がれるとか……ふたりっきり……そんなそんな、そんなの実現したら、わ、わたっ、わたしおかしくなる。ぜったいおかしくなる」
「スノウ落ち着いて。別に心を裸にするための道具じゃないんだ、“接続子”は」
いまのたとえは完全に失敗だったな。
司書は己の浅慮を恥じたが、後の祭りだ。
スノウは頭と胸の両方を押さえてうずくまる。
若い想いが暴走しかけていた。
「心を裸に、はだっ、ハダカにっ。ダメっ、わ、わたし、もう見られちゃってる、心を、アシュレに、ハダカにされちゃってる」
「どうどう、スノウ。おちつくんだ、あんまり興奮しちゃだめだ」
馬をなだめるように背中を叩き、撫でさすって司書は荒ぶるスノウの乙女心を慰撫した。
その甲斐もあってか、徐々にスノウの容体は落ち着いてくる。
「とにかく遠く離れていても、まるでとなりにいるかのように相手と会話できたり、遠方にある品物を届けてもらえるよう頼めたり、はるか彼方の光景や出来事を瞬時に知ることができたんだ。それを利用して、みんなで相談して、より良い解決策を検討することだってできる。もうずっと昔、数千年以上前、統一王朝:アガンティリス末期までは、そんな仕組みが損傷を受けながらも、一部では稼働していた」
明かされた世界の秘密に、スノウは息を呑んだ。
目尻に涙の滲んだエメラルド色の瞳で、司書を見つめ返しす。
「遠くにいる相手と会話したり、遠方のものを届けさせたり、彼方の出来事を知ることができるって……それって神さま?」
荒い息を整えながら話すスノウに、あはは、と司書は笑った。
「そうだね。ある意味では、そうだ。たしかに神さまみたいだね」
「じゃあ、“接続子”や“庭園”は、人間を神さまにするための道具や場所だったの?」
「ああ、なるほど。その表現は……近いかな。ボクなんかよりキミのほうがよほど比喩が上手だ」
だが、称賛を送る司書の笑顔に、なぜか苦いものが混じっているのをスノウは見抜いていた。
話題に対する否定的なニュアンス。
神さまになろうとする──つまり全知全能の存在への進歩を望むことが「良いこと」であるとしか感じられない、いまのスノウにとっては不思議な反応だ。
「人間が神さまになろうとするのは、不遜だって、そう言いたいの?」
おそるおそるスノウは訊いた。
たしかにスノウだって、自分がこんな質問をするようになるとは思わなかっただろう。
かつてであれば。
アシュレと出逢い、自らが憧れ、ひそかに自分の父親ではないのかと夢見たユガディールという存在の最期を看取らなかったら。
人類の可能性──《魂》の実在を否定する“再誕の聖母”と相対していなかったら。
アシュレの見せた《魂》の奇跡を目の当たりにしていなかったら。
そんなスノウをまぶしげに見つめ返して司書は言うのだ。
「どうだろうか。母体から分離され、個性として世界に生まれ落ちた存在が、より良い方向に伸びていこうとするのは、自然なことのようにボクにだって思えるけど」
「木々が太陽に向かって枝を伸ばすように?」
立ち上がるための手を貸しながら、スノウの理解に司書は感心して見せた。
またそれはことさらに上手いたとえだね、と笑う。
「キミには間違いなく話題の本質を捉える才能がある」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするの」
スノウの指摘に、司書はハッと息を呑んで自分の顔を撫で回した。
「そんなひどい顔をしていたかい?」
「ひどい顔じゃないけど……苦笑い。なんだかつらそうだった」
「まいったな……キミの素直さにつられてしまったようだ。そんな顔をしていたんだね、ボクは。隣人はアナタの心を映す鏡である、とはよく言ったものだ」
苦笑して司書は溜め息をついた。
諦めたような、なにかをふっきるかのような表情。
それから言った。
「そう、木々が太陽に枝を伸ばす、というのは本当にいいたとえだね。ヒトの人生と同じで、技術の進む道は木々の枝のように伸びる。同じ場所を目指しているのに、枝分かれを繰り返しながら。けれど……」
「けれど?」
「ある日、枝分かれしたその道のうちの一本が、予期せぬ場所に辿りついたんだ。いいや、いまから考えれば……あの時代の空気を考えたら、それは必然だったのか。ともかく辿りついてはならない場所に“接続子”と“庭園”は至ってしまった」
深刻な顔になった司書の表情と語りに、スノウは思わずその手を握り返した。
「辿りついてはならない場所? それってもしかして、人間の心に?」
「うん、そうだ。神の栄光に近づくために生み出された仕組みだったはずのそれは、逆説的に、人々の心に深く入り込む道具としても作用してしまった。そして」
「そして?」
苦しげな司書の様子に、スノウは震える膝を押して立ち上がる。
なんとか彼の苦痛に寄り添おうとして。
「そして、その深奥にある《ねがい》に辿りついた」
「《ねがい》に、辿りついた?」
それでどうなったの?
スノウは問う。
《ねがい》とは口に出来ぬ本音だという先ほどの会話を思い出して、震えながら。
「それで、わかったんだ」
「なにが?」
スノウの問いに、司書は困ったような顔をした。
泣き出しそうな彼の表情に、スノウの胸までわけもわからないのに苦しくなる。
「どういう、こと? なにがわかったの?」
「スノウ、いまからボクの告げることを、どうか受け止めてくれ。気をしっかりもって」
心配してすがりついてくるスノウを優しく抱き寄せながら、司書は告げた。
自分がなぜ言い淀んだのか。
どうしてそれを耳打ちするのか。
スノウにわかってほしくて。
だから、きっとそれは彼の《ねがい》だったのだろう。
司書は告げる。
目の前にぽっかりと口を開けたさらなる深層への階段へと、寄り添ってスノウを導きながら。
「人間のうち、ほとんどは《意志》を放棄したいんだ。考えること、判断することの責任から逃げたいんだ。あるいはこう言い換えてもいいのか……」
ヒトであることをやめて──従いたいのだ。
なにに?
巨大な何者かに。
全知全能のだれかに。
それが本音なのだ、と。




