■第一〇八夜: 《魂》の緒
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その日、ビブロンズ帝国首都:ヘリアティウムは、迫り来るオズマドラ帝国軍の脅威とともに、凄まじい怪異にも襲われた。
ことのはじまりは、結界の網の目を超低空で突破し侵攻してきた真騎士の乙女と、黒騎士を名乗る男の一騎打ちだった。
市中を戦場としたふたりの激突は、しかし、意外な結末を迎える。
大空を舞い、常に頭上の優位を取る真騎士の乙女に対して、黒騎士は驚くべき技の数々をもって奮戦を見せ、ついにこれを追いつめた。
だが、天翔る真騎士の乙女に対してヒトの騎士が勝利を手にしかけた瞬間──射掛けられた光条がふたりを分かった。
勝負に水を差したのは、真騎士の乙女たちの首魁・黒翼のオディールである。
オディールは付き従う真騎士の乙女たちとともに、黒騎士を高空より狙撃した。
そして、それが起きたのはオディールの槍から放たれる高速粒子の束が、大宮殿の廃虚の床を撃ち抜いたときだった。
おそるべき死蔵知識の墓守たちの群れ。
その噴出。
黒騎士=アシュレ自身の手によって後に「世界が我を失った日」と記されたそれこそは、ヘリアティウムが胎内に抱え込んできた超古代の秘密、負の遺産であった。
あふれ返る真っ白な亡霊たち=死蔵知識の墓守の地上世界への噴出は、真騎士の乙女たちをして、それ以上の侵攻を諦めさせるほどに凄まじいものであった。
穿たれた穴より噴きだした死せる知識の亡霊たちは、教区ごと、区画ごとに設けられ固く施錠されている大扉を擦り抜け、市中へと大挙して流れ込んだ。
まさに地獄の釜が溢れたがごとき光景。
ヘリアティウムの街路は、人のカタチをした濃霧の群れに沈んだ。
しかし、そんなことは驚くべき怪異の一端でしかない。
ほんとうに奇妙なのはここからだった。
市井に暮らす人々は、死蔵知識の墓守の存在が目に映っていないかのごとく振舞った。
騒乱は、ほとんど起きなかったのである。
そのような異常事態など起きてなどいないかのごとく、街路に彷徨い出た民衆は黒騎士と真騎士の乙女の姿を探して、空を見上げていた。
たしかに、ときおりにしても死蔵知識の墓守の姿に気がついて、発狂したように叫びを上げ、これから逃れようとする者もいた。
だが、それも瞬く間に襲いかかった死蔵知識の墓守たちの白い手が頭部に潜り込むと、数秒と経たずに静かになった。
まるで、街全体が死蔵知識の墓守たちの噴出と跳梁跋扈を、存在しないものとして扱うように。
語ってはならないもの、認知してはならないものとして扱うかのように。
「どういう……ことなんだ」
図書館の天井をスクリーンにして映し出される地上世界の奇異なる現状に、アシュレは思わずつぶやいた。
「意志のない者には、あれらは見えないのではないか」
天を見上げて言うアシュレの言葉に、シオンは推測を述べた。
上空から射掛けられる真騎士の乙女たちの攻撃を躱し、それによって穿たれた地下図書館内部に活路を見出した末のことである。
「意志がない?」
それはどういう、とアシュレが問い返す。
「考えてもみよ。あれらがわたしたちに襲いかかってきたときのことを。その表情を。憎悪に燃えていたか? 怒りに満ちていたか? 違うであろう。アレは、アレは我らを憐れんでいた。あれは、あの目は、救いを拒絶する憐れな仔羊をなんとか助けてやりたいという──独善的な救済に取り憑かれた者どもの目であったよ」
シオンの言葉に、なるほど、とアシュレは理解を示す。
たしかに言われてみればそうだった。
死蔵知識の墓守たちが浮かべたあの表情に、アシュレも憶えがあった。
一番、印象に残っているのは──やはり、あのトラントリムでの戦いであろう。
完成に迫る再臨の聖母:イリスとの対峙。
そして、夜魔の騎士:ユガディールとの対決。
その身の虚ろに理想を流し込まれ、永劫の騎士と成り果てた男。
同じ問いかけ、同じ問答を、たしかにアシュレは彼女ら、彼らと交した。
過日の問答を思い出し、アシュレはつぶやいた。
「かつて意志を病がごとく見なした時代があったと──そういうのか。人類の宿痾だと。」
「“再誕の聖母”もそんなことを言っていたな」
「民衆のあの反応がすべてを言い表している。あの死蔵知識の墓守たちは、ボクたちだけにしか見えていないんだ」
つまり《意志》ある者だけにしか。
アシュレは言う。
「ときおり上がる悲鳴と騒乱は、やつらを認識した《意志》ある人間に、死蔵知識の墓守が群がって起きるものだ」
ふむん、とシオンが唸った。
「治療している、というわけか」
「そうとしか言えないだろうね」
なるほど、と夜魔の姫は頷く。
「たしかにアレは姿隠しの異能などではない。なぜなら、わたしたちにはこんなにも、ハッキリ見えているのだからな。だとすれば……」
「人間の頭の認識をいじっているんだ。他には考えられない。そこにいるのに、ないことになっている。明快な現象をヒトの認知の外に放逐するシステム……」
「“接続子”と“庭園”のしわざ、というわけだ」
うん、とアシュレは頷く。
「そして、その操作を《意志》や《魂》は弾き返す。それが目障りで──いつか言ったよね、操作できないからだ、って。彼らが《意志》や《魂》の持ち主を恐れるのは《みんなのねがい》=《そうするちから》によって思い通りにできないから」
だからぼくらがとても、とても、目障りなんだ。
『アシュレダウ。オマエは、危険だ。この世界をふたたび、あの暗闇の時代に戻す存在だ。掲げられた篝火が明るければ明るいほどに、鮮やかであれば鮮やかであるほどに、影もまた濃くなると──なぜわからん』
ふたりはしらず、“再誕の聖母”と成り果てたイリスの言葉を思い出している。
それは《意志》を育み、ついにその先にある《魂》の秘蹟へと辿りついたアシュレとシオンとに向けて、“再誕の聖母”が言い放ったセリフだ。
彼女の言う篝火が、《魂》の比喩であることは明白だ。
「ここヘリアティウムもある意味で、トラントリムと同じく《意志》を放棄した国であったかよ」
トラントリムでも戦いを経て、この世界の真実に肉迫したシオンの言葉は正しかった。
「あるいは……ボクたちが意識してこなかっただけで、この世界の多くの場所で同じく、《意志》のない國が平然と営まれているのかも」
「まるでわたしたちは巨大な《閉鎖回廊》の只中に生まれ落ちてきたかのような物言いだな」
「そう聞こえなかったかい?」
ここまで戦い抜いてきたアシュレとシオンは、すでにこの世界の真実に肉迫している。
自分たちの世界とは位相の異なる場所に“庭園”という人造の次元界はあり、また自分たちの世界がその人造の次元界に包まれていることも。
そこには人々が迷いや葛藤──つまり《意志》を放棄して生きていくための理想的な設計図が、世界観の姿として手に触れられる精度で保存されてきたことも。
ただ、それが、いつ、だれの手によって造営されたものなのかを、アシュレもシオンも知らない。
だからこそ、自分たちはその謎に迫ることを決めたのだとアシュレは思う、
そして、世界中の書籍を納めたというこの大図書館の底に潜む、あらゆる過去を暴く魔道書:ビブロ・ヴァレリを求める戦いは、アシュレとシオン、ふたりのなかに生じた「この世界の秘密を知らなければならない」という思いをかなえるためのものとなりつつある。
いま自分たちが求める先に、大いなる答えのひとつがあるとすでにアシュレは確信している。
死蔵知識の墓守たちが、市中の特定の人間だけ=《意志》ある者どもだけを的に取っている事実が、それを裏付けていた。
「つまり、ここに《意志》を持ち込まれるのが恐いんだ、彼らは。《意志》あるものに見せてはならない情報が、ここには眠っている」
「なるほど。《意志》あるものがビブロ・ヴァレリを使えば、もしかしたら数千年を遡り、ことの発端に迫れるかもしれんしな。そうなっては困る、と」
アシュレとシオンは視線を交しあう。
本当のことを知ってしまったら自分がどうなってしまうのか、アシュレにはわからない。
本を読んだあとで、読む前には戻れないように。
しかし、知るか、知らずに済ませるかいずれか、と問われたのであれば、
「それでも、行くか?」
アシュレの一瞬の逡巡を見抜いたかのように、シオンが問うた。
微笑んで、アシュレは返答とする。
「愚問だよシオン。いまこの大図書館にはイズマやノーマンや、スノウが潜り込んでいるんだ。ボクたちと同じ目的を持ってね」
行くのか、なんて迷っているヒマはない。
「行かなければ」
言い切るアシュレにシオンも微笑む。
そうだったな、と。
「さて、しかし行くといってもがむしゃらに進むのは名案とは言えんぞ」
「それについてなんだけど……なんというか、感じるんだ。この感じ、なんだ?」
シオンの言葉に、アシュレが胸を押さえて言った。
「なに? 感じる、だと?」
「そうなんだ。一緒にいる間はなんともなかったんだけど……なんていうか《スピンドル》が震えるような感じがする。だれかが近くにいるんだ。これ、スノウか?」
あっ、と声を上げかけて、シオンは慌ててつぐんだ。
じつはアシュレの肉体には、彼自身が知らぬ間に件の転移系異能:王の入城が施されている。
人間の関係性、つまり絆を利用するこの異能は、術を施された者同士の間にリンクを形成する。
それは微弱であいまいなものだが、シオンと使い魔:ヒラリとの関係性に近い。
わけもなく胸騒ぎがする。
すると関係を結んだ人間が離れた場所でいままさに危地にある、というような現象が結果として起る。
「そなた……わかるのか」
「いや、ちょっとまって……なんだ、ほかにもだれか……アテルイ? アスカ?」
ん、とシオンが眉根を寄せた。
「なんだと?」
「わかる。これ、ふたりの《スピンドル》の薫りだ。シオンは感じないの? ボクの鼻がおかしくなったのかな」
「いいや、まて、ないことではない」
首を傾げて見せるアシュレをシオンが止めた。
たしかに、とシオンは思う。
アスカとアシュレは男女の関係というだけではなく、真騎士の乙女との契約者という意味でもそうだし、トラントリム攻略戦に向かう直前に互いの心の深奥にまで触れ合った仲だ。
アテルイに至ってはトラントリムでの戦いで虜囚になった際、アシュレの《魂》と自分の心を接続して理想郷の呪縛を断ち切り、これを撃破した。
いずれも極限の、超常的現象を経由した繋がりだ。
ふたりとアシュレの間に、王の入城によるスノウとの繋がり以上のリンク・同調が起っても、なんら不思議はない。
なんともなればここは《閉鎖回廊》──物語が現実を退ける領域なのだ。
「うん、やっぱり、まちがいないよ。いる……どういう経緯なのかさっぱりわからないけど、アスカもアテルイも近くにいる!」
予感を確信に変えて、アシュレが言った。
「なるほど、これが《魂》の縁というやつか。繋がったもの同士は遠く離れていても互いの位置関係をある程度把握できるのか」
「すごいな。だとしたら、これを見据えてイズマはボクたちを……」
「地下迷宮内で位置関係を把握する道具もないことはないそうだが……それを妨害する結界の本場だからな、ここは」
「どうしよう。どこに向かうべきなんだ?!」
「そなた、いま盛大にダメ男発言をしたぞ」
まったく手当たり次第に粉をかけよって。
シオンはこちらも盛大に溜め息をついた。
「スノウにはイズマがついている。合流するならイレギュラーな動きを見せているアスカ殿下たちのほうではないか?」
なるほど、とアシュレは思案する。
たしかにスノウの地下図書館への進入は計画されたものだ。
対してアテルイとアスカのそれは……本来、地上で軍団指揮に当たっているはずのふたりがここにいること自体、なにか突発的な事件が起きたに違いない。
そう、アシュレはこの時点で、アテルイがガリューシンに囚われていることを知らない。
なぜって、急を告げるアスカの手紙をイズマが握りつぶしたからだ。
悪党でいうのならば、大悪党。
己の策のために、情報を操作するのはイズマの十八番であった。
むう、とアシュレは唸る。
そのとき、天井のスクリーンに動きがあった。
巨大な天翔る船体。
度肝を抜かれてそれを凝視するアシュレの視界に、次に飛び込んできたもの。
それはなぜか、裸身を両手で隠し、屈辱に怒りを燃やすアスカの姿だった。
 




