■第一〇〇夜:骨のチェスピース
「だが、だからといって、我が身を犠牲にしてまで」
相変わらず横たわったままの蛇の巫女:シドレを、アスカは慮るように言う。
いつのまにかその口調には、親しい友の臨終に立ち会っているときのような悲しみがある。
「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」
「なに?」
「ふふ、遠く東の果てから伝わったことわざだ。すべてを投げ打つ覚悟で速い流れに身を投じることで、開ける道もある……我が身を犠牲にするだけの覚悟をもって物事にあたってこそ、はじめて活路を見出し、大事を成すことができる。そんな意味だ」
そんなアスカに、笑ってみせたのはシドレだった。
要点に絞ると言ったのは蛇の巫女本人であるはずなのだが、遠い極東のことわざをとっさに用いてしまうあたりに、アスカはシドレという女が書籍やそこに記された文化を本当に愛していることを感じた。
「しかし、やり過ぎだったな、実際は……このままでは本当に死んでしまうぞ」
虚空を見つめてひとごとのように言うシドレに、アスカはなんと答えていいのかわからない。
「なんだ、どうしたアスカリヤ。そんな顔をするな。わたしはいま、それなりに気分がいい。なにしろあのイケ好かぬ魔道書女を出し抜くのに成功したのだからな」
ふふふ、とシドレはいかにも愉快げに笑った。
「知識はヒトとともにあり、後世にその叡知を繋げるためのもの。ひとの可能性を切り拓くためのもの。だからこそ大切に守られ、保管され、語り継がれなければならない。だがあの女は──ビブロ・ヴァレリはそう考えてはいない。己が授ける知識に、見識に、膨大な過去の積み重ねにヒトが屈するのを見て愉悦に浸っている。いわば、知識の奴隷を生み出しては悦んでいるのだ」
そんなものは生きながらにして死んでいるのと同じ。
ちがうか、と問いかける瞳に、アスカは自分と同種の光を見出していた。
想いが思わず口をつく。
「なぜもっと早くに出会えなかった」
「感傷に浸っているヒマはない。行くのだ、アスカリヤ。この世界の果ての浜辺は、ヘリアティウムの大図書館に繋がっている。オマエの友人──いいや恋人か──であるアテルイとやらもそこに囚われている。ここまで来たオマエだ。きっと縁が導いてくれるだろう」
後悔を口にするアスカの背中を押すように、シドレは言った。
「だが、気をつけろ。大図書館の地下には、魔道書:ビブロ・ヴァレリの隷下に成り果てた知識の奴隷、その成れの果てが彷徨っている。そして……あの男:ガリューシバル・ド・ガレ……ガリューシンが、いる」
ガリューシン──一〇〇年を生きた不死の騎士。
このときシドレもアスカもまだ白騎士に扮して戦った彼が凄まじい攻防戦の果てに、上空から真騎士の乙女によって狙撃され光のなかに消え去ったことを知らない。
もっとも、このあとアスカはシドレの忠告の正しさを身を持って体験することになるのだが……。
そこまで言って、シドレは疲れたように息をついた。
目を閉じる。
「さて、もう行け、オズマドラの姫御子よ。わたしに授けられる知識は授けた。ビブロ・ヴァレリの能力については、すでにオマエの方が詳しいだろう。戦え。勝利せよ。その果てに、この國を勝ち取るがいい。すでに心を《ねがい》に食われつつある大帝ではなく、オマエが」
そして、
「願わくば、あのヒトを……皇帝:ルカティウスをこの國という縛鎖から自由にしてあげて。死してなお知識の奴隷として、封ぜられてきた禁忌の知識の守として永劫のときに縛られる運命から、解き放ってあげて」
弱まる息の下で、蛇の巫女の言葉は懇願のようだ。
ああ、ああ、とその手を取り、もう片方の手で心臓から流れ出る血を受け傷を塞ぎながら、アスカは頷いた。
「魔道書:ビブロ・ヴァレリの《ちから》はうまく使えば、真騎士の乙女たちを退ける切り札になろう。だが、頼ってはダメだ。アレは生まれついての邪悪。智の暗黒面」
「もうしゃべるな、シドレ。くそう、どうすれば、どうすれば貴様を助けられる?!」
「なんだ、泣いているのか、アスカリヤ」
ふふっ、と声にしてシドレが笑った。
呆れたような、しかし、それにしては優しい笑みだった。
アスカはこれまで皇帝の息子としての立場から、癒しの異能を習得してこなかった。
払う代償が桁違いに大きい治療系異能は、医学の発達したオズマドラ帝国領では西方世界に比しても習得者がすくなかったのだ。
そのことを、悔やむアスカにシドレは微笑んだのだ。
そうさなあ、と続けた。
「わたしを操る触媒に使われた骨のチェス駒。あれがあれば、あるいはこの傷を封じる触媒にできるかも、だ」
昔日、好意の証としてルカティウスに贈った自らの骨を思い出してシドレは言った。
蛇の巫女も癒しの技の得手ではない。
しかし、己の肉体の一部を用いた再生術は、まさに彼女たちの領域のものだった。
「わかった。骨のチェス駒だな?!」
まっていろ!
そう言い捨て、ハンカチをシドレに預けるや、アスカは立ち上がった。
シュッ、と両脚である告死の鋏:アズライールが呼気のような音を立てる。
次の瞬間には、地下図書館を目指して駆け出している。
「やれやれ……なんというお人好しか。あの者と長くいると、こっちにまでお人好しという病がうつりそうだ」
砂浜に身を横たえたまま、シドレはもう一度、あの優しい笑みを浮かべた。




