■第八夜:廃神の夢
アシュレたち一行は、エスペラルゴ船籍の軍艦との交戦を避け、ひたすらカテル島を目指し東進を続けていた。
いっぽう、そのカテル島では、グレーテル派・カテル島大司教、予知の異能を司る:ダシュカマリエが――“夢”を視ていた。
それはかつて、駆逐されたはずの廃神の“夢”だ。
「——死に損ないめ……まだ、現世への未練が断ち切れず、居残っておったのか」
「司教さま? 大司教さま? なにかおっしゃいましたか? お加減がよくないのですか? すごい汗が」
ダシュカの独り言を聞きつけてしまったのだろう。
修道女のひとりが血相を変えて、ダシュカの膝元へ駆け寄った。
目覚めるやいなや、ダシュカは瞬時に、本来あるべき自分のイメージを身につけなおす。
ファルーシュ海全域にその勢力を持つ、イクス教・グレーテル派・現首長:カテル島大司教位=ダシュカマリエ・ヤジェスとしての顔を。
「すまぬ……恐い声だったか? 嫌な夢を見た。汚い言葉使いだったならば、許せ」
「そんな……大丈夫ですよ。むしろ、ダシュカマリエさまでも、悪夢にうなされることがあるのですね。逆にほっとしました。同じ人間であるのだと、安心しました」
近習であるマティアの言葉にダシュカはあきれて、ためいきまじりに返した。
「マティアは、いったいどのようにわたしを見ているのだ?
わたしは弱い女に過ぎない。おまえのように頼れる殿方をはやく見つけて、べったりとすがってしまいたい、というのが本音だ。
大司教位、首長、肩が凝るばかりでろくなことがない。
だいたい……こんな売れ残りを——だれが買うものか」
「まずは腰かけたまま、お眠りになってしまうクセを直されることですね。
それでなくとも恐い寝言を、まるで起きていらっしゃるかのような姿勢・声色ではっきりとおっしゃるのですもの。
それでは、どんな殿方もはだか――もとい、裸足で逃げ出しますよ?」
ダシュカは衣類を脇にかかえ、全裸で逃げるように部屋を辞していく男の姿を脳裏に浮かべる。
ありそうな絵づらだった。
グレーテル派は両の指では数えきれないイクス教の宗派のなかで、唯一、僧職の婚姻を認めた宗派である。
神との契りと男女の契りとを重婚と見なす現主流派との間で激しい論争が行われているのは現実だが、男女の協調とともに役割の分担を謳い、そのことで信徒を増やしてきた側面がイクス教には存在する。
グレーテル派にとって婚姻は、隷属ではなく、その協調と分担の象徴でもあった。
世俗との繋がりを断ち切る、という意味で僧職の婚姻は認められていなかったのだが、すでに全聖職者の三割を女性が占めるという現実のなかで、いつまでも不可触の話題として留めておくことはできまい、というのが法王庁の判断だった。
それでもグレーテル派が正教に認められるには苦難の道のりがあった。
他派の認めない僧職の婚姻をどうやって正統なものとして認めさせるか、それは、そのことを法王庁に認めさせた後でさえ、数年おきの法王選定会議のたびに起こる宗教会議に対し、歴代の首長たちが粉骨砕身して挑み続けた問題だった。
グレーテル派は、その起源をカテル病院騎士団とともに持つ。
だが、カテル島へ騎士団が移住してきたのはわずかに半世紀前に過ぎない。
教理の支柱・聖者:イクス生誕の地である聖都:ハイア・イレム。約二〇〇年まえにアラム勢力によって奪われたその地を奪還すべく、法王の呼びかけによって起こされた第十次十字軍は、二十万という桁外れの大軍を持って一時的に聖都を取り返した。
だが、それが結果としてカテル病院騎士団が本土の基盤を失う理由を作り上げてしまう。
カテル病院騎士団の前身、イレム病院騎士団は、アラム勢力の攻勢によって陥落してなお、ハイア・イレムを巡礼する巡礼者や、戦争孤児たちを世話する、いわばアラム勢力のただなかに残された、小さなイクス教の領土だったのだ。
多くのアラム勢力は「自分たちの治世に従うのであるのならば、またその妨げにならぬのであれば、信教の自由は保証する(ただし、追加納税せよ)」という考え方の持ち主たちだった。
改宗か、さもなければ死か(たとえ改宗しても「改宗者の印」を義務づけ冷遇する)という極端な方針を採った、その時代のイクス教とは対照的だ。
他の宗教に寛容だったのである。
それでも、まさか遠い西方世界の田舎から、信仰心だけを松明の明かりとして山を越え海を渡ってくる巡礼たちが、アラム勢力の都市で宿を取るなどできるはずがない。
言語も、ましてや信教も違う土地でのことだ。
イレム病院騎士団はその受け皿となった。
無償の宿、無償の食事——無論、自発的な雑役や多少の寄進はあったとはいえ——を支え続けたのは、西方世界からの多額の寄付と、病院騎士団が、ときにアラムの君主たちに召し出されるほど抜きん出た医療技術を持つおかげだった。
これは当時、医療技術において少なくとも数世紀分は西方世界の先を行くというわれたアラム教圏において異例のことだった。
このときの彼らは戦闘集団ではなく、医療に中心を置く者たちであり、《スピンドル》能力による施療技術は、イレム病院騎士団のお家芸だったのだ。
武装化の面が強調されるのは、第十次十字軍の前後なのである。
その技術への矜持と誇り高く清廉潔白な行いから、アラムの領主たちでさえ彼らには敬意を持って接したのだ。
また一方でイレム病院騎士団は孤児院としての側面を持っていた。
建前として奴隷を認めない(実際には農奴階級がそれに当たる)イクス教に対して、アラム教圏は明確にその存在を認めていた。ここではその制度内容や是非は問わない。
ただ、身よりのない孤児たちは、捕らえられ奴隷として商品とされるのが常識であった時代だ。
イレム病院騎士団は孤児たちの拠所とさえなった。
孤児たちに暖かい食事と住居と衣類を与え、教育を施し、ヒトとしての誇りを教えた。
その過程にグレーテル派誕生の萌芽があった。
つまり、孤児たちに本当に必要なものは、教育の前に父母なのではないのかという考えに二組の年若い男女がいたったのだ。
彼ら彼女らは、それを忌むべきこと、恥ずべきこととはどうしても思えなかったのである。
だが、それまでのイクス教は、聖職者の婚姻を認めていなかった。
だから、彼ら彼女らは僧衣を捨て俗世に戻る=還俗することで、それを可能としようとした。
まっすぐにイレム病院騎士団長に、その旨を告げた。
団長はしばらくの間、黙っていた。
それから言った。
「わたしは、ここに新たなる宗派の設立を宣言するものである。
イクスの教理に照らして、キミたちの行動が神への不敬に当たるとは、わたしにはどうしても思えない。
イクス教は男女の協調を説く。
であれば、そこにはその営みの結果である子供たちの権利も認められ、説かれているはずである。
だが、そのことを判断できるのは、わたしではない。
だから、宗教会議に働きかける。
そして、行動を起こす以上、我々は勝利する。
いままでも、そうであったように」
全責任はわたしが持つ。
団長はそう言い、宗教会議にかけるべく書類をまとめるよう、騎士団首脳部に通達した。
同時に援助者である名門貴族たちへの入念な根回しを行動に移した。
だが、その直後に第十回十字軍が起こった。
二十万の軍勢はハイア・イレムを奪還したものの、それを引鉄に起こったアラム勢力の反攻作戦によって奪い返されてしまう。
その間、わずかに十数年。その治世の間、戦火は絶えなかった。
イクス教統治時代に採られた不寛容な宗教的抑圧の反動が、結果としてイレム病院騎士団にその基盤を失わせたのだ。
新たにアラム勢力の盟主となったオズマドラ帝国は、イクス教徒を、後にはともかく、このときだけは徹底的に弾圧・殺戮した。
絶望的な退却戦の最中、西方諸国は窮地にある友軍に対してついに一隻も援軍を送って寄越さなかった。
逃げ惑う人々を救ったのは商船であり、まったくの個人事業者たちであった。
そのなかでイレム病院騎士団は独力で可能な限りの同胞を逃した。
当時の騎士団長は最後まで教会に止まり、数百名——このときの団員の約半数——の騎士たちとともに散った。
すべてを託された副団長は一ヶ月の船旅の後、血塗れの軍装のまま法王への謁見を果たす。
武装の洗濯を済ませ、戦塵を落とすよう勧める枢機卿団に対し、
「これは、我々を逃すため盾となった人々、友と同胞の血です。それを汚れだと、あなた方は仰るのか」
静かにそう一喝し、会見に臨んだ副団長は(このときすでに非公式には船上での会議で満場一致を得て団長となっていたが)、カテル島の統治権とグレーテル派の承認を勝ち取ったのだ。
イレム病院騎士団に子息を輩出し、資金を援助し続けてきた名門貴族たちから再三に渡る催促があったにも関わらず援軍を躊躇し手をこまねいていたという、また、その結果としてイレム病院騎士団を、ひいては数十万の同胞を見殺しにしたという負い目が法王庁にはあった。
副団長はあえてその責を問うのではなく、新天地と彼ら自身の宗派への承認を法王に所望したのだ。
戦争には負けたが、政治的な駆け引きに彼らは勝利した。
怒りをぶつけるだけではなにも得られない。
そう知り尽くした者たちの行動だった。
先達たちの死を決して無駄にはしない、という鋼鉄の意志の賜物だった。
以来、約五十年というイクス正教に比すればいかにも浅い歴史ではあるが、カテル島に拠点を移し、ためにカテル病院騎士団と名をあらためた彼らは、同時にグレーテル派としてイクス教のなかにその地位を確保したのだった。
騎士団長と首長を分けたのもその後だった。
軍事と政治を分担する必要に迫られてのことである。
「すまない、水を酌んでもらえないか」
「もちろんですとも、大司教さま」
「ダシュカ、で頼む。肩凝りが悪化しそうだ」
「はい。ダシュカマリエさま」
「……まあ、よいか。ふー、服が汗でべとべとだよ。張りついて仕方がない」
「そのお姿なら、どんな殿方も籠絡できそうですよ」
「ならば、おまえの婚約者を奪ってやろうか」
え、とマティアが固まり、冗談だ、とダシュカは手を振った。
「だいたい相手が十歳も年下のイゼル坊では、また蛇がカエルを丸呑みにした、とか言われるのがオチだ」
マティアが堪え切れずに吹いた。
「なにがおかしい」
「いえ、あまりに的を射た表現なので」
おまえな、と目元を隠す白銀の仮面の下で美しい紅色の唇がひきつるように歪められた。
「また、そんな笑いかたを。たいていの殿方はそれで恐れをなすんです。食べられちゃうんじゃないかって」
ふい、と視線を外すダシュカが、本当は女性からしてさえ可愛らしい性格の持ち主であることをマティアは知っている。
だが、その性格のまま生きることを、この時代が許さないこともまた、同じようにわかっていた。
ダシュカマリエは銀の仮面を外さない。いや、正確には外せない。
その仮面と一体化した白銀の彫刻はダシュカマリエの皮膚に食い込み、肉に突き立ち、骨を穿って、完全に一体となっている。
これこそが、グレーテル派の首長が代々、その身に課してきた業苦だった。
奇蹟の力:《スピンドル》の発動によって上位階層——天の國と教義では現される——と接続し、正確無比の予言を行う。
それを可能とする装具・荊の冠:〈セラフィム・フィラメント〉をその身に課し、扱うことのできる能力者が首長なればこそ、グレーテル派は、その宗派を維持してこれたのだ。
あらゆる陰謀に先んじて手を打つ力を使って。
「ぜんぶ見透かされたような気になる、だろう? 知っておるよ。どうせ、わたしは、恐い女だ。陰口だって、みんな知っておるよ」
「ノーマンさまだけは、そんな風にはおっしゃりませんけどね?」
「ふん。じゃあ、どう評しているのか、言ってみろ」
ダシュカがじろり、とマティアを睨んだ。マティアがたじたじ、となる。
ダシュカの瞳は頭部前方を覆う〈セラフィム・フィラメント〉と同じ銀色だ。まるで同じ造形物のように見える。
昔は深い葡萄色だった。ダシュカの払った代償のひとつだ。
「いや……とくには、なにもおっしゃらないってだけで」
「だろうさ、朴念仁め。期待などするものか」
「ただ……」
「ただ、なんだ」
「ただ、騎士団の皆さんがダシュカマリエさまのこと畏くも恐れ多いと囁き合うのを、一度だけノーマンさまが止められたことがありました。そんな風にしていると、実像に虚像が取って代わるぞ、とたしなめられて」
「それで?」
「いえ、それ……だけ、です」
ふんっ、とダシュカは大きく鼻で息をした。
「マティア、湯浴みをしたい。湯を持て」
言外に、少し席を外せ、と言われていることをマティアは理解した。
ダシュカの頬が、わずかだが上気しているのに気がついたせいもあった。
マティアが部屋を辞すのももどかしく、ダシュカは着衣を脱ごうとする。
立ち上がると薄手の肩掛が落ちた。
眠っている間にマティアがかけてくれたものだ。
それが取り払われて、布地の下から絵画が現れるようにダシュカの身体があきらかになった。
年頃の娘でも気後れするような丈の短いワンピース。
すらりとした脚線が覗く。
紅葉した葡萄の葉と蔓、色づいた葡萄の実が刺繍されたそれが、美しい黒髪とともに寝汗で張りついていた。
枢機卿団どころか、身内の男たちにさえ見せられぬ姿だ。
本当を言えば、侍従を務める女たちにも見せたくない。
夫か、そうなるであろう男以外には、遠慮してもらいたい。
自分の息子・娘であっても勘弁して欲しい。
なぜ、このような服装で眠ってしまったのか。
理由はわかっていた。
くそう、というこれまた部下にも信徒にも聞かせられない悪態の端に、どうしようもなく恥じらいが乗ってしまうのをダシュカは止められなかった。
あの男と、彼を送り出す直前にダシュカ自身が口にした予言のせいだ。
「小娘か、わたしは」
頬が上気するのが止められず、ダシュカは動揺した。
顔を仮面で覆っていても、抜けるように白い肌が遠目からでもごまかしようのないくらい赤くなるのがわかって、恥ずかしかった。
近習の者たちが見たら目を丸くするだろうと思うと、ますます動悸が早くなった。
わざと乱暴に着衣を脱ぎ捨て、汗に濡れた身体を窓からの風にさらす。
午後の風が火照った身体に気持ちよかった。
一刻ほども眠っていたのだろう。太陽の光にあふれ温暖なファルーシュ海では午睡は、ほとんど万民の習慣と言ってよい。
ダシュカの居室のあるカテル島の勝手口:南西側は開けた地形もあり、農作物、とくに丘陵地帯は恵まれた陽光と水はけの良さを利用して葡萄の栽培が盛んだ。
この季節、日中は夏かと思うほど気温が上がるが、夜はめっきり寒くなった。
法王庁に比べ南に位置するカテル島では葡萄の収穫は遅れて、いまが最盛期だ。
だが、この一番陽射しの強い時間帯に収穫して回る者はいない。
葡萄の実が強い陽光と熱で摘んだ端から傷むからだ。
払暁から日の昇り切るまでの短い時間が勝負だ。
この島特産のコクのある葡萄酒は、農民たちのそういう地道な努力の上にあるものなのだ。
ダシュカは下帯も解いて、バルコニーに立った。
心がささくれ立っていて、捨て鉢な行動に出た。
眼下に望む葡萄畑や牧草地で、だれか働いていたら息を呑むような光景だったろうが、牧童どころか牧羊犬さえいなかった。
皆、木陰で午睡の最中なのだ。
手すりに手をつき、呻くように言った。
「すでに予言の日は迫っておるというのに……ノーマンめ、なにをやっている。
まさか、収穫祭にさえ間に合わんというのではなかろうな。——せっかく、こう、いろいろと、準備したのに——まあ、それはいい。
だが、さすがに焦れてきたぞ。
いや、それよりも、問題は先ほどの予知夢の方か。
足止めを受けている、というわけか。
くそっ、銀の装具に肌も肉も骨さえ食ませ、心の安寧さえ代価にして得た力だというのに……まだ、それを上回る干渉力があるということなのか。
運命を見通すことなど、しょせん完璧にはできぬということなのか」
わたしはまだ真の預言者ではない、ということなのか。
大事な局面で大事な者たちのそばには、いてやれぬということなのか。
「くやしいことよ」
その時、階下から慌ただしくヒトの上がってくる音がした。
足音の具合からマティアであることは明白だった。
たいへんです、とマティアはノックも忘れて部屋に駆け込んできた。
それからダシュカのいでたちに気がついて言葉を失った。
わかっているよ、とダシュカは手でマティアを制した。
腕を組み、テラスの手すりに背を預けた。裸身のまま。
黒髪が風にさらさらと鳴った。
冷徹な大司教のダシュカマリエに戻っていた。
マティアの言葉を先取りして言った。
「ファルーシュ北側航路の海運が不通になっている、というのだろう? 廃神——信仰を失い、痩せさらばえた神々の一柱——の仕業だな。ノーマンたちは遅れようぞ」
因縁、というのだろうかな、こういうのを。
ダシュカのつぶやきを、マティアは理解できないという表情で聞いていた。
さて、第五夜をお届けしました「燦然のソウルスピナ・廃神の漂流寺院」ですが、いかがでしたでしょうか?
カメラが主人公たちを離れ、目的地であるカテル島からの、そこに住まう女性の大司教:ダシュカマリエの視点から物語が俯瞰されました。
彼女の頭部を覆う銀の仮面:〈セラフィム・フィラメント〉は、後々の物語でも(つまり、第三話=「聖なる改竄」)、たいへん重要な役割を果たします。
当初、ブログ版では、画稿がまだ追いついてない状態だったので、そのときキャラクターを把握してもらうための初稿として、掲載したまほその絵を、一枚、置いておきます。
イメージの助けになれば、さいわいです。
では、次回「第九夜:予兆」でお会いしましょう。




