■第三夜:菖蒲(イリス)の娘
「アシュレッ、アシュレッ!」
危ない、と思った時には遅かった。
一瞬の睡魔がアシュレの意識を刈り取る。
落馬寸前までいった。
従者に救われなければ、確実に落馬していただろう。
連日連夜、不眠不休の強行軍についに肉体が屈したのだ。
「やっぱり、すこしは休まないとダメッ。全隊行軍停止!」
ユーニスの命令を追認するカタチでアシュレは手を挙げる。
指揮系統の混乱を防ぐためだ。
ユニスフラウ・パダナウ――ユーニスは、ふたりいるアシュレの幼なじみのうち「おてんば」の方だった。
そして、もうひとりはレダマリア。いまや枢機卿だ。
女のなかに男がひとり、と昔はやっかまれたものだ。
ふたりとも昔からかなりの美人であることだけは共通していたが、タイプが違った。
親分肌で口より先に手が出る。考えるより先に行動する……それがユーニスのメンタリティだった。
おまけにおせっかい焼きときた。
街道をすこし逸れると、どこでも草原が広がっているのが、この地方の特徴といえば特徴といえる。
昔は深い原生林だったと歴史の教科書は教えるが、先史文明――アガンティリス王朝――が版図を広げる過程で切り開かれた。
今は荒野と紙一重の草原が、どこまでも広がっている。
隊に食事と休憩を命じると、ユーニスに引きずられるようにして、アシュレは遺跡に足を踏み入れた。
朽ち果て、荒れ果てた遺跡群は、草原と同じように、この地方のありふれた景観だ。
「胸甲脱いで。ほら、手伝ってあげるから。はやく。そう、後向いて。鎧を留めてる革バンドが見えないでしょ。こら、さっさと腕を上げる」
まるで小さな母親だ。
あまり気乗りはしなかったが、醜態を見せたこちらが悪い。
弱みのつけ込み方では昔から勝った試しが、アシュレにはなかった。
「ふたりっきりは、まずくないかな。勘違いされないかな」
「勘違いってなにを」
ふたりの関係を、と言いかけてアシュレは赤面した。
バラージェ家と寄り添うようにして時代の荒波を乗り切ってきたパダナウ家の娘・ユーニスとは、アシュレはただならぬ因縁があった。
ユーニスの祖父であるバートンは、長らくバラージェ家の執事を務めてきた男であり、同時に腕利きの密偵として父の懐刀でもある。
アシュレも頼りにしてきた男で、今回の探索行への同行をアシュレは期待していたのだ。
だが、バートンは老齢を理由にユーニスを推挙した。
槍の腕、操馬の技術、調理の腕前、こまやかな気づかい、教養と、どれをとってもたしかにユーニスは優れていた。
ただ、アシュレが気後れした理由は別にあった。
ユーニスはアシュレのはじめての女だったのである。
どんなに末端であっても貴族の男が、成人する十五を前に女を知らないということはない。
それは彼らが遊びで女を抱くからというわけではない。
この時代、貴族の婚姻、男女の営みは家の存続と政治に直結していた。
そのような行為にある程度以上は通じていなければ、血統を存続できないことは理解にたやすいだろう。
また政略結婚が常識の貴族社会において、ベッドの上は両家の思惑がぶつかり合う政争の場でもあったのだ。
嫡子を得られない=家が途絶える。
そこで養子縁組みとなれば、これがまた政治色を帯びる。
そういう時代だった。
王族など初夜の夫婦の部屋に両親が同席し、無事にことが遂行されたかどうかを見守ることさえある。
冗談ではなく、まじめな話だ。
貴族階級では、そんなわけで男親が宮廷夫人と呼ばれる高級娼婦を息子の筆下ろし役にあてがうのは、それほど珍しいことではない。
だから、バラージェ家の歴史だけは長いが小さな所領のなかで、湖畔に立つコテージ――菖蒲の家――に出向くよう父から命じられた時も、アシュレは通過儀礼だと思い素直に従った。
そのコテージはバラージェ家が、主にそういう教育に使ってきた施設だったからだ。
そして、そこで待っていた女性に心臓が潰れるほど驚かされることになる。
陽が落ち、暖炉の灯だけが照らし出す世界に彼女はいた。
亜麻色の髪とはしばみ色の瞳がアシュレを見つめていた。
狼狽するアシュレをベッドに導くと部屋の鍵をかけた。
それから愛を告白された。
幼少からの。
ずっと胸に秘めていた、それを。
受け取れない、と拒むことがアシュレにはできなかった。
ユーニスの悲壮な決意がわかったからだ。
貴族であるバラージェ家と使用人の家であるパダナウ家では、主人と使用人の間柄にはなれても結婚はできない。
慣例が許さなかった。
双方が家を捨てるなら話は別だが、そうするにはふたりとも互いが互いの家族を愛しすぎていた。
こうするほか、たとえ肉体だけの関係であったとしても、ふたりが結ばれる方法がなかった。
そして、当然というべきだろうか、ふたりの関係は一夜では終わらなかった。
肌を触れ合わせてみて、アシュレはようやく自身の想いに気がついた。
彼もまた、ユーニスを愛していたのだということに。
そのことを告白すると、ユーニスは泣いた。
あの涙を、アシュレは忘れない。
ふたりは約束した。
この関係は決してこの菖蒲の家の外には持ち出さないと。
会いたい時は菖蒲の印が入った書簡に時刻だけを書き記して、あの家で待つと。
「またぼーっとしてる。アシュレ、すこし眠りなさい」
甘く切ない回想を、おせっかいが遮った。
上から目線の保護者口調。
たしかに、数ヶ月ほどユーニスのほうがお姉さんなのだが……。
菖蒲の家でのあの儚げで可憐な彼女とは、完全に別人だと言わざるをえない。
「おいでアシュレ、ハウスッ」
さっさと脚甲を脱ぎ素足になったユーニスが、ブランケットを敷きアシュレを手招きする。
いつからキミの膝枕がボクのハウスになったのか。
飼い犬を呼ぶような気安さでアシュレを手招きするユーニスに、しかし、アシュレは勝てないのだ。
命じられるまま頭を膝に預ける。
質の良い干し草の匂いがユーニスからはする。
安心の匂い。
ユーニスの匂い。
そして、その匂いに導かれるように、アシュレは眠りに落ちてしまう。
※
夢を見ていた。
恐ろしい夢だ。
「なぜ、そんなところで這いつくばっている」
頭上から声がした。
父のものだ、とアシュレは思った。
硫黄の匂いと耐え難い熱が身体を預ける岩肌から伝わってくる。
夢だとわかっているのに、醒めぬ恐怖に肌が粟立った。
「愛する女が死に瀕しているその時に、オマエは寝ているつもりか」
峻厳な、しかし、冷酷とは違う言葉がアシュレを打った。
その痛みが呼び起こす想いにすがるようにして、重い瞼を意志の力で押し上げる。
陽炎と煤煙の向こうにその女はいた。
裸身で手枷を打たれ、吊り下げられて。
そのおとがいを、骨にヒトの皮を張りつけた化物の手がなぞっていく。
夢だとしても許せなかった。
自分でもぞっとするような声が、アシュレのなかから轟き出た。
そのヒトに触れるな、という。
だが、その雄々しさとは裏腹に、アシュレの肉体はぴくりとも動かなかった。
「教えたはずだ。ここ《閉鎖回廊》は敵の所領、封土そのものだと。《ちから》なきものは《閉鎖回廊》の王の許可なくしては逸脱さえ許されない」
男の言葉を証明するように、いくら力を込めようとも指一本、動かせなかった。
だしぬけに岩を踏む音がして、獣の脚がアシュレの視界に現れた。
馬の蹄ではなかった。
柔らかそうな三本の指。
ままならぬ身体のなかで、唯一動かせる眼球を限界まで動かして見上げれば、金色に輝く羊毛の向こうに黒衣の男が見えた。
父ではない。
だが、それは同じか、それ以上の威厳と深い叡知を感じさせる声だった。
「どうすればいい」
愛した女に危機が迫っていた。
すがるように声が出た。
あのヒトを助けられるものなら、ボクはボクの《魂》を差し出してもいい。
アシュレのその嘆願を、しかし、男は一蹴した。
「ねだるな……、小僧」
がつり、と獣の脚に蹴り飛ばされ仰向きになった。
それで男の姿があらわになる。
頭頂に冠を戴いていた。
宝飾品などない黄金のそれを、まるで気負う様子もなく、その男はかぶっていた。
王としての重責を空気のように軽々と受け止めて、なお男の瞳は前を見ていた。
「ヒトに《魂》などない。この世界のすべてのものにさえ、だ。オマエのような小僧になど言わずもがなだ。――ただ、《魂》に近づくことはできる」
まず、《スピンドル》を想え――と男は言った。
「それは螺旋であり変化の《ちから》。《意志》あるものだけに訪れる《閉鎖回廊》を打ち破る《ちから》の名前。小僧、貴様もそうだろう?」
朗々たる声がアシュレの耳朶を、ふたたび打った。
「いつまでそうしているつもりか。――立ちなさい」
厳しいが穏やかな声がアシュレを促す。
応じるべく、アシュレは立ち上がった。
身体が動く。
近くで不可視の力が回転しているのがわかった。
――《スピンドル》
アシュレはその力を感じる。
少なくとも六つ、手を伸ばせば触れられる場所にそれは起こっていた。
無言で眼前にアシュレの武器である神槍:〈シヴニール〉が差し出された。
アシュレは、ようやく男の面顔をまじまじと見ることができた。
美しいがヒトとは異なる種族であると知れた。
長い耳と透き通った白い肌。
長く伸びた手足。
火のように紅い瞳に強い《意志》の《ちから》が炯々と燃えていた。
王の顔であった。
そして、アシュレは六つの《スピンドル》に軽々とトルクを与えた力量に敬服した。
「もし、オマエがアガンティリスの始皇帝:フラムさえ、たどり着きえなかった“《魂紡ぐ者》”の道を選び取るというのなら、ゆめゆめ忘れぬことだ。オマエに敵対するものは、必ずその全てが王か、世界の規矩――そのものであろうから」
その男――異貌の王は予言するように言った。
アシュレは、その言葉の意味を噛みしめる間もなく〈シヴニール〉を手に取った。
あのヒトを助ける。
その決意以外など、すでに頭のなかから消し飛んでいた。
ここで夢は、場面を変える。
唸りを上げる《スピンドル》エネルギーの奔流が、アシュレの記憶と結びつき、場面を変転させたのかもしれない。
いずれ相対することになるであろう敵の姿を、アシュレは十二歳の誕生日に父より教えられた。
一月も続く高熱で伏せるアシュレを、父が訪ったときのことだ。
それまでかいがいしく世話をしてくれていた母とレダマリアとユニスフラウが部屋を辞した。
流行り病で死にかけた時でさえ公務を理由に顔も出さなかった父がなぜ、いまさら自分を訪うのかアシュレにはわからなかった。
いや、と胸のどこかで予感めいたものに触れた。
自分は死ぬのではないか、という。
だからこそ、父はアシュレを見返る気になったのではないかと。
疑問が言葉になった。
「父上、ボクは死ぬのですか」
少年だったアシュレの問いに、父は驚くべき解答を返した。
「いいや、オマエは生まれ変わるのだ」と。
すなわち《スピンドル》能力者として。
なにを言われたのか、アシュレには一瞬わからなかった。
だが、父は続けた。
「この世界には境界がある。
ひとつは光と風に満たされた――母さんやレダマリアやユーニスのいる世界。
そして、もうひとつ。
永劫の黄昏を歩むがごとき非公式の世界。
オマエはいまそのふたつを隔てる暗渠――地下を流れる暗い河――を渡ろうとしているのだ」
わかるか、と父は言った。わかりません、とアシュレは答えた。
「オレの側に、オマエは来ようとしている、と言っているのだ」
朦朧とした意識のなかで、アシュレは父の顔を見た。
そこにいたのはアシュレの見知った父ではなかった。
永劫の黄昏と戦い続けてきた、ひとりの騎士の顔がそこにはあった。
「オマエにはこちら側に来てほしくなかった。オレのようには、なってほしくなかった」
運命を呪うような悲痛な響き。
だが、そのひとことがアシュレの胸になにかを灯した。
愛されていたのだという確信が、言葉ではなく心で理解できた。
たったそれだけのことで、涙があふれてきた。
滂沱と流れ落ちるそれを止める術がアシュレにはなかった。
頭蓋を占拠し、肺のなかでごうごうと渦を巻いていた熱が、行き先を知ったかのように流れはじめる。
そして、不可視ではあるが確かな《ちから》が、胸の上に回転しながら生じるのが感じられた。
「《スピンドル》」
父が、その《ちから》の名を教えてくれた。
「それは世界の規矩に根を張る敵と相対するための《ちから》。変えられぬものを変えるため、ヒトの《意志》が呼び起こす奇跡の断片だ」
渡り切ってしまったか、と父は言った。
祝うべきか嘆くべきか決めかねた声だった。
「来るべきではなかったと必ずや後悔することになるだろう。
我らの敵は世界の規矩に寄生し、自身の領土を持つ怪物どもだ。
奴らは不遜にも、その領土の中では王として振る舞う。
奴らの領土において《スピンドル》能力者でない人々は、奴らの描く物語の虜囚だ。
オマエがこれから赴くのはそういう場所だ」
だが、来てしまったからには後戻りはできない。
静かに、しかし、厳かに父は言った。
「今日より、オマエは《スピンドル》能力者となったのだ。陽の光の下にいながら暗渠を歩む者となったのだ」
ならば全てを教えよう。
知識を、技術を、あらゆる術を。
ただひとつ、心だけはオマエが決めるのだ。
父は言った。
それがアシュレの幼年期の終りだった。
※
夢を見ていたのだ、と気がつくまでにしばらくかかった。
自分を覗き込むユーニスが、あの壊れてしまいそうな少女の顔だったせいもある。
「うなされていたかい?」
「なんどもわたしの名前を呼んでくれたわ」
衝動的な愛情にアシュレはユーニスを抱きしめていた。
理性が押しとどめるヒマもない。
そこにいるという実感が、ひたすらに欲しかった。
「キミを失うかもしれない夢を見た」
「恐かったの?」
「なくしたくない、って心の芯でわかった」
「失せ物じゃないんだから、ちゃんと自分で戻ってくるわ」
軽口を叩く、その語尾が涙で震えている。
それから無理やり腕を引き剥がされた。
なぜ、とアシュレは思う。
すぐにその理由を思い知った。
「お取り込み中……でしたか」
部下の騎士が、遺跡のわきから顔だけを覗かせていた。
ソラスと呼んでください。
三十半ばだろうヒゲ面の騎士は、裏表のない表情でそう名乗った。
ソラスナラス・ビドー。
《スピンドル》能力者ではないため聖騎士ではないが、純粋な戦闘技能においてはアシュレなど足下にも及ばぬ腕前の持ち主で、イクス聖堂騎士団の精鋭だった。
公正、柔和な性格で年齢、性別、官位の分け隔てなく人と接することのできる希有な人材である。
今回の探索行の副官――実質的なリーダーだ。
「いやあ、さきほどは失礼いたしました。集合時間を過ぎておりましたもので」
やんわりとだが、諌言すべきところは諌言する。そして、それを相手を見て使い分けることができる柔軟さを、ソラスは備える男だった。
「面目ない。とんだところをばかりお見せして」
「聖騎士叙任後・初任務とはそういうものです。それに大切なヒトと共有した時間は、ヒトを強くする。最後は大切なものへの執念がものを言う場所ですよ。戦場というのは」
大切なヒトと揶揄されてはユーニスでさえ赤面するしかない。
圧倒的な人生経験の差を前に、毒舌家であるユーニスが手も足も出ない。
「大切にしすぎるのもどうでしょうか、騎士:ソラス?」
今回の結団式の直前、某貴族の未亡人の屋敷の窓からヒゲ面の男が逃げるように出てくるのをうちの使用人が見たそうですけど。
並走していた女騎士:ミレイが会話に入ってきた。
見事な突きを思わせる話題の振り方。
場が一気に和む。
ソラスがたじたじとなるさまにアシュレは困惑顔になり、ユーニスは吹き出した。
「いや、あれは貴君の姉上が、あまりにお寂しそうだったものでな」
「幼少のみぎり貴方からいただいた恋文、わたくしまだ持ってましてよ?」
「また夫婦げんかですか」
おどけた口調でパレットが混ぜっ返し、和やかな雰囲気に拍車がかかる。
騎士に叙任されたばかりの若手だが、頭の回転と飲み込みの早さで今回の追跡行の知恵袋を務める男だ。
アシュレは年上である彼らの気づかいに深く感謝した。
永劫の黄昏を歩む道だと父はアシュレに言った。
だが、神はなんと恵み多き道連れを与えてくださったのか。
アシュレは彼らの協力を想い、自らの責務への決意を新たにした。