■第九四夜:天からの一撃
大宮殿の廃虚は鬱蒼とした緑に囲まれている。
レモン、オリーブ、そしてアーモンド。
伸び放題に伸びた木立の間に青い実が鈴なりになっている。
足下はアーモンドの落ち葉が分厚く積もって絨毯のように柔らかい。
木立を駆け抜け、潅木を飛び越えてアシュレは有利な交戦点を探す。
つい先ほどまで後ろに張り付いていたレーヴを引き離すことにアシュレは成功していた。
超高速で地表スレスレを飛翔することは、それだけでもかなりの緊張を強いられることだが、このフィールドではそこに不意に現れる木立や潅木が加わる。
このような状況では一瞬の判断の遅れが巨木への追突や墜落を招く。
秒速にして三〇メテルにも達する高速機動戦では、それはすなわち死と同義だ。
もちろん条件はアシュレだって同じだが、彼にはふたつ、有利な点があった。
ひとつは左手に携える聖なる盾:ブランヴェルの力場操作による防御と柔軟な軌道変更能力だ。
アシュレはときにその力場を見えざる腕のように使って、愛馬の走りをサポートした。
そして、もうひとつは、その愛馬の極まった地形の先読み能力である。
アシュレの愛馬:ヴィトライオンは生まれついてのその敏感な知覚能力を駆使して、初見であるはずの大宮殿の廃虚の地形を的確に先読み、アシュレの意図を汲み取って疾駆した。
太陽はすでに完全に水平線に沈んでいる。
生い茂る森の底には星明かりさえうまく届かない。
そんななかで、アシュレはこと走破することに関してだけは、愛馬に任せてしまってよかったのだ。
これまでもその《ちから》でアシュレをいくども救ってきた愛馬は、その意志の精髄たる《スピンドル》を通されることで、さらに深く主人と繋がることを可能にしていた。
アシュレとヴィトラの完璧なユニゾン=人馬一体は、シオンとアシュレの間にあるものに極めて近い。
いっぽうのレーヴは攻撃や防御に加えて、超高速で地形を読み、地面スレスレを飛ぶという離れ業を自分ひとりでこなさねばならなかった。
もちろん、相手がただのヒトと馬であればこれほど苦戦はしなかったであろう。
空を自由に駆けることは真騎士の乙女としての矜持に関わることでもある。
しかし、ことアシュレとヴィトライオンの組み合わせは、誇り高き真騎士の乙女をして追撃を断念させるほどに強力であったのだ。
「その脚の疾きこと……まこと疾風か」
しらずそうつぶやいて、レーヴは高度を取る。
後ろについて彼らを仕留めることは難しいことを認め、上空からの狙撃に戦法を切り替えたのだ。
真騎士の乙女の目は鷹のもののように鋭い。
太陽の光が失われ、木立に紛れてはいても疾駆する黒騎士の姿を捉えることは、なんとか可能だった。
レーヴはすばやく大宮殿の廃虚の敷地に目を走らせ、黒騎士の意図を探ろうとする。
タイプは違えど同じ長距離狙撃を得意とするふたりだ。
敵対する優れた射手同士が互いの考えを、互いの味方よりもすばやく理解しあえるのと同じで、レーヴにはアシュレのしたいことが手に取るようにわかった。
彼は上空にいるわたしとのそれぞれの得意技による対決を望んでいる。
そのために射線を邪魔しない開けた土地に陣取ろうとしている。
周囲への被害を気にせず、最大火力を展開しての撃ち合い──そんなことが可能な場所はいかに広大な大宮殿の敷地とはいえ限りがある。
どこに向かおうとしているのかは、ときおり木立の間に見える馬身から一目瞭然だ。
レーヴは上空からそれを先読みし、アシュレとの対決に備える。
構えられた雷槍:ガランティーンに光が収束していく。
「これで決まりだ、黒騎士」
そして、そのときは来る。
だが、真騎士の乙女はまたしても我が目を疑った。
木立を抜け、大宮殿の大広間と名付けられた交戦点に姿を現したのはなんと──アシュレの愛馬:ヴィトライオンだけ。
「なん、だと?!」
思わず叫んだ瞬間、レーヴは真下からの攻撃を受けた。
それは狙いすまされた精密射撃。
光の穂先が、肌を掠めて飛び去る。
アシュレがレーヴの真下から放った闘気衝は正確無比に、真騎士の乙女の光の翼だけを居抜き、これを消滅させたのだ。
片翼を失ったレーヴは、墜ちる。
動揺と動転と狼狽に、我を失って。
どうして自分が真下からの攻撃を受けたのか、まったく理解できずに。
※
「たのむぞ、もうしばらく、そのままでいてくれ」
アシュレはヴィトライオンを飛び降りると盾と槍を構えて狙撃点へと走った。
具体的にはレーヴの真下、生い茂る木々のなかにできた空白地帯、かつては大宮殿に併設されていたという大浴場があった場所だ。
アシュレはレーヴとの戦いの前、この巨大な廃虚内部の俯瞰図をイズマから見せられていた。
それはなんというか防衛戦が最終局面に至った場合、つまりヘリアティウムが陥落した際のための保険ではあったのだが──ここに来て、それが功を奏した。
アシュレはレーヴに愛馬:ヴィトライオンとの一体ぶりをしっかりと印象づけ、真騎士の乙女が追撃を諦めたことを確かめるや、機を見て馬上を放棄した。
もちろん、ヴィトライオンは交戦点のなかでも最大である大広間の跡地へと走らせる。
そして、これを囮に、自身は別の狙撃点へと走った。
目立つわけにはいかないから聖なる盾の立体機動は使えない。
身に付けた重甲冑は普段はあまり意識することはないが、このような悪路を踏破しようとするとスタミナの消耗具合で、それがキチンと防御力に見合った重さのあるものだと自覚する。
しかし、その結果得られたアドバンテージは、その努力に充分見合うものだった。
真騎士の乙女たちは正直に言ってその身体能力に関して根本的に人類より優れている。
特に高空を行く彼女たちの瞳は、人間ではとても太刀打ちできない精度でものを捉える。
そこに慢心が生じることをアシュレは知っていた。
高所に陣取り、相手を見下ろし、監視することに慣れた者たちは、いつしか自身のその能力に絶対の信を置くようになる。
だからまさか自分が獲物を見失うとは思いもしない。
自分は常に狩る側であると信じるものは、己が狩られる側になるとはそもそも考えつきもしない。
古代から王たちが高所に居を構えるのは巨視的な思考を得るためだったが、それは自分自身が神ではなくただの人間であるという事実を認識できなくさせていくことにも繋がる。
生まれ落ちたときから天空の住人である真騎士の乙女たちであれば、なにをかいわんや。
そこをアシュレは突いた。
周囲に灯火がないこともさいわいした。
レーヴの視力はたしかに凄まじい解像度を誇るが、暗闇を見通すことまではできない。
だが、それは人間である黒騎士も同じこと──いや、地面に縛られ、高い場所からの視点を得られぬ人間にあってその不利は自分たち真騎士の乙女とは比べ物にはならない──そうレーヴは考えていた。
もちろんそれは、誤りだ。
アシュレの目には世界は黄昏てはいても視界を失うほどの暗さには感じられない。
シオンと共有する心臓が、アシュレの肉体に起こした変化。
その最たるものこそ、この闇を見通す瞳だった。
そして、そのアシュレの目に光の翼をはためかせ滞空するレーヴの姿は、天空に輝く満月のようにハッキリと捉えられた。
澄んだ大気に、震えが来るほど美しい星空が見える。
アシュレはそのなかで一段とまばゆく輝く星に狙いを定めた。
一呼吸、大きく息を吸いこんでから撃った。
果たしてその一撃はアシュレの狙い通り、レーヴの肉体ではなく、彼女が展開させた光の翼だけを正確に射抜いた。
単純に戦果だけを考えるなら、大技でレーヴ本人を撃つべきだっただろう。
けれどもアシュレにはどうしても、それだけはできなかった。
槍を交えるなかで、アシュレにはこのレーヴと名乗った乙女の真性に心地よさを感じていた。
それはいつかシオンやアスカと出逢ったときに感じた印象に近い。
死なせたくない、と思った。
なぜなのか、と聞かれたらたぶんそれが理由だ。
だから、翼を撃ち抜かれた彼女に追い討ちをかけることはしなかった。
いや、それどころではない。
アシュレはいつかイグナーシュの王墓の谷で見せたあの技のように、聖なる盾:ブランヴェルに飛び乗ると力場をフルパワーで回転させて、上空に舞い上がったのだ。
なんのために?
決まっていた。
突然のことに動転・狼狽して、白き翔翼を使うことさえできずに墜落してくるレーヴを助けるために、だ。
いったいなにがどうなってこうなったのか──アシュレが戦士のものにしては華奢なその肢体を腕のなかに確保したとき、レーヴの瞳がそう言っていた。
「たのむ、暴れないでくれ! キミを、傷つけたくない! 信じてくれ!」
反射的に飛んできた切れるような肘打ちをあえて肩に受けながら、アシュレはレーヴに言った。
どうして助ける側が助けられる側に懇願するのか。
信じろとは、どういうことか。
レーヴの混乱はここにきて頂点に達した。
突然、全身から強張りが解ける。
アシュレは彼女を抱え込む。
自分を下にして衝撃から護る。
おかげで、なんとか地面に生還できた。
「よかった……生き、てる」
ホッ、と息をつき、レーヴを抱く力を緩めたアシュレの笑顔を、助けられた格好になった真騎士の乙女は呆然と見つめた。
アシュレが下、レーヴが上。
大市場での一幕の再現。
だが、こんどはレーヴは飛び去らなかった。
ふわり、とまたあの白い花の薫りがする。
「なぜだ……なぜ」
なぜ、撃ち殺さなかった。
なぜ、墜ちるままに任せなかった。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、わたしはキミに勝てない。
黒騎士の行動がまったく理解できない様子で唇を震わせるレーヴに、当の黒騎士であるアシュレは答えようとした。
その瞬間だった。
高空から一条の光の束が──奇しくも白騎士:ガリューシンを撃ち抜いたときのような超高速・超高温の一撃がふたりを狙って放たれたのだ。




