■第九三夜:呪詛を切り裂いて
罠が発動したのは、アシュレが大市場の出口の壁に、聖母を祀る小さなほこらの火を見出したときだった。
ザワッザワッザワッザワッ、と天井のあたりの闇がにわかに沸き立つように蠢き、草原を野分けが吹き抜けるような音がしたかと思うと、突然それがアシュレたちに向かって隆起し、襲いかかってきた。
「これは──呪術?! エレ、エルマかッ?!」
迫りくる黒き奔流の正体を真っ先に言い当てたのは、アシュレだった。
かつてカテル島での戦いで、いくども目にした呪術系攻撃異能。
その正体を見破り、中継器を務める蜘蛛に向かって叫んだアシュレの言葉には、咎めるような調子がある。
だが、肝心の蜘蛛は応じない。
返って来たのは固い沈黙だけだ。
「くっ、これは呪術?! 罠かッ?!」
ほとんど同時にレーヴの悲鳴が降ってくる。
アシュレは反射的に頭上を振り仰ぐ。
そこには漆黒の輝きを発しながら、空を行く白き乙女に向かって殺到する触手の群れがあった。
間違いない。
土蜘蛛たちが得意とする自動追尾型の呪術系異能。
それも相手を束縛し、無力化する類いのものだ。
ほかならぬエレとエルマという超級の遣い手を相手取って戦い、その後で本人たち、またイズマからもその仕組みについてレクチャを受けてきたアシュレである。
攻撃異能の種別はもちろん、だれが、なんのためにこれを仕掛けたのかまですぐに理解できた。
土蜘蛛の姫巫女たちはアシュレの煮え切らぬ態度に対し、群衆の目の届かぬ大市場のなかでケリをつけようと考えたのだ。
「ダメだッ!」
怒りというよりも己の誇りにかけて、アシュレは言った。
同時に攻撃を放っている。
闘気衝。
長大な光の刀身を発生させるその技を、アシュレは身を捻って振り返りざまに放った。
好機に乗じてレーヴを攻撃するため、ではない。
このときアシュレの発生させた光の刃は、長さにして約五メテル。
平均的な《スピンドル能力者》のそれに倍する長さ。
その長大で強力な刃をもって、アシュレは薙いだのだ。
レーヴに取り憑こうと迫る呪術の触手の群れを。
呪術系の異能は正確に言えば、物質界と精神界との狭間に位置しているエネルギーだ。
恨みつらみなどの所在がどこにあるのか、という問いかけにその答えはある。
だから、たとえ闘気衝のような超高熱の高速粒子による攻撃であっても、これを完全になぎ払うことは極端に難しい。
基本的にそれは聖なる武具──シオンの聖剣:ローズ・アブソリュートやアシュレの携える聖なる盾:ブランヴェルか、あるいは呪いの桁が違う魔剣や魔鎧の類いでなければ、迎撃することも防ぐことも難しい攻撃なのである。
だが、アシュレはこのこともすでに経験から学んでいた。
具体的にはあの廃王国:イグナーシュでのことだ。
幼なじみのユーニスとはぐれそうになったとき、アシュレは瞬間的にシヴニールから光条を放っていた。
それはあの地獄と化した廃王国に立ちこめていた害意ある黒き霧を、一瞬だけではあるが散らして退けた。
なぜなのか。
アシュレはそれを呪術の専門家である土蜘蛛たちに問い質していた。
「呪術は物質界と精神界との狭間に成立してる異能大系だ。人間と同じでね。そう考えると簡単だろ? 厳密には物質界の事象も呪術にはある程度とは言っても影響を与えるんだ。人間の心が現実の事象に影響を受けるように。強い風になぶられた心が粟立つように。朝日が希望を与えてくれるように。強力な光刃系とか高速粒子なんかは、強い光の《ちから》だからね。よけいさ。」
ま、聖なる武具の効果に比べたら気休めみたいなもんだけれども、と話を結んだのはイズマだ。
アシュレはいま、そのとき得た知識と経験から攻撃を放った。
そして、黒騎士の意図を一番早く理解したのはレーヴだった。
アシュレの光刃が作り出す安全地帯に素早くレーヴは潜り込む。
ジュッ、ジッ、と真騎士の乙女を追ってまとわりつく呪術の塊が輝きに焼かれ、恨めしげに啼いては距離を取る。
「うんもうッ──なぜですのッ?!」
アシュレはそのとき、強力な光の刃が照らし出す天井付近に陣取って悔しげに叫ぶエルマと、その横で呆れたように額に手をやるエレの姿を見たような気がした。
次の瞬間、アシュレとレーヴのふたりは大市場を抜ける。
触手たちは出口の際で、追撃を諦め恨めしげに金切り声を上げた。
民衆の目の届かぬ場所でケリをつけようとしたエレとエルマにしてみれば、ここで呪術の姿を見せるわけにはいかなかった。
むろん、彼女らが本気になればどこまでも呪術の攻撃を続けることは可能であったハズだ。
けれどもとにかくエレとエルマは矛を収めた。
アシュレの考えに賛同しないまでも、消極的にだが行いを認めてくれたという意思表示。
ありがとう、とアシュレは心のなかで土蜘蛛の姫巫女姉妹に頭を垂れた。
自分の我がままにつきあってくれた、それはなんというか礼だ。
呪術の追撃がないことを確認したアシュレは、闘気衝を切る。
飛翔の自由を取り戻したレーヴは高度を取る。
そのとき、アシュレに攻撃を仕掛けることもできたはずだが、誇り高き真騎士の乙女にそんな考えは露ほどもなかったらしい。
礼を言うようにくるり、と一回転して見せたほどだ。
仕切り直し、ということだろう。
アシュレは命を賭けた戦いの最中であるはずなのに、さわやかな風が胸中に吹くのを感じた。
レーヴの意図を了解し、増速する。
このまま南下すれば行き着く先はひとつしかない。
大宮殿。
アガンティリス時代の皇帝の居城にして、その文明が滅びるとき廃虚となり、数千年もの間そのままに放置された広大な敷地。
岬の突端に当たる場所が、アシュレに残された最大最後の交戦点であった。
廃虚となった大宮殿の周囲には申し分け程度に石垣が設けてあるが、そもそもここにはだれも近寄らない。
アシュレの生まれ故郷:エクストラムの近傍にも同じくアガンティリス期の遺跡群:フォロ・エクストラーノがあるが……そこと雰囲気がよく似ている。
ごろつきや夜盗たちからしてさえ、足を踏み入れるのをためらわせるなにかが、そこには満ちていた。
いわく正気の人間には踏み越えがたき一線。
そんな詩的表現が、案外と一番本質を穿っているのかもしれない。
つまり、まともな精神状態の人間であれば、なんとなくただならぬ気配を察知して避けてしまうような場所。
それが大宮殿の廃虚であった。
だが、アシュレは、あえてその一線を踏み越える。
その後ろにレーヴが続く。
ふたりの長射程・超強力遠距離攻撃の得手にとってそこだけが、この十万人都市の只中で唯一、比較的にせよ人的被害を気にせずに互いの《ちから》をぶつけ合うことのできるステージだった。




