■第七夜:姫君たちの密会
月夜の海を行く船が、ぐん、増速したのは、それほど後のことではない。
そのほんとうに直前、にわかに船内が慌ただしくなる気配がした。
ガレアス——ガレアッツァ、と本国の言葉では呼ばれるこの型の船としては、正確にはエポラール号は当てはまらない。
これより数年の後にミュゼット商業都市国家同盟の盟主:ディードヤーム海軍が、その戦闘能力の中核として正式採用する重武装艦のテストベッドであった船体こそが原型にはある。
そして、それがいかなる経緯でか、秘密裏にカテル病院騎士団に供与されたのだ。
幅十メテル、全長四十五メテル――専用の多段円形砲台を艦前方に備える本来のガレアスは、喫水線からの高さだけでも旧来のガレーシップの七倍近い高さを誇る。まさに城塞だった。
加えて、最大で二百七十度をカバーできる射界を誇り、洋上の移動砲台として運用されることを前提に開発された最新の秘密兵器であったのだ。
当時の海戦は艦首に積載された数本の大砲による形ばかりの砲戦の後、艦首の衝角による突撃ないし、接舷による白兵戦で決着をつけるのが常識であり、大小合わせると三十門以上、後年には小型火器を含めると六十もの大砲を積載し、搭乗員数も五百人に達するガレアスタイプの大型艦の登場は、海戦の有様を一変させるのだが、それはまた後の話だ。
表向きには反目、ときには敵対したりすることもあるカテル病院騎士団とディードヤームだったが、国家としては絶交状態を申し渡しておきながら、裏では別ルートを使って資金的にも政治的にもカテル病院騎士団をサポートしている、というのがディードヤームをはじめとする商業都市国家同盟のやり方だった。
感情的な問題として済ませられるのなら、外交など必要ない。
外交的努力が為されているということは、感情などより優先されるべきことがあると商業都市国家同盟が認識していたということに他ならない。
相手が気に入らないから断交する、などという幼稚な行動——己の感情にまかせて専横的に振る舞えるのは、軍事的にも国政的にも、そして食料自給をはじめとする実体経済においても自由である真の強国だけが取ることのできる政策なのだと、少なくともこのときのミュゼット商業都市国家同盟は肝に命じて認識していたのである。
つまり、秘密裏に、テストベッドだったとはいえ強力な艦艇をカテル病院騎士団に流したのは、拡大を続けるアラム勢力への牽制という意味だ。
商業を生業とする国家群にとっては、領土より、各拠点の自由貿易の確保こそが重要だった。
異教徒たちの喉元に突きつけられた利剣=カテル病院騎士団には、あくまで自らの意志でもって、アラム勢力と対峙し続けてもらわねばならぬ。
そのように誘導することこそ、重要。
それがディードヤーム政府の決定だった。
当のカテル病院騎士団が、そのことに気がついていたのかどうかについては後の史書にも記述がない。
首長である大司教は気がついていたであろうか。
あるいは、すべてを承知だったかもしれない。
だが、末端の騎士・兵卒たちは考えさえしていなかったことだけは明白だ。
妾腹の子、という、いささか不名誉なふたつ名で呼ばれることもあったこの帆船とガレー船のあいのこの、そのまたテストベッドを受領した良い意味でも悪い意味でも古いタイプの武人の集団であるカテル病院騎士団の面々が、二段櫂(ロールアウトタイプは三段)、三角帆に加えて方形の帆を張ることのできる柱を三本持ち、後のロールアウトタイプと比してはスマートであっても、大型ガレーよりもさらに相当大柄なこの船のことを、当初、どのように受け取ったのかはわからない。
ただ、商人の国:ディードヤームはその点だけは徹底していた。
テスト用の円形砲台はすでに実装されていたが、そこに積載されるはずの長期距離砲六門(ロールアウトタイプは十門)は据えずに渡したのだ。
カテル病院騎士の面々は、この艦艇を、あっという間に自分たち好みに変えた。
そのままでは使えない、だから、払い下げられたのだ、と理解したのだ。
前面甲板に設けられた円形砲台は上部甲板のものを除き潰された。
そのかわりに正面は装甲化された。
不要と判断された砲座・砲塔を徹底して省き、強化された防御力と加速性能に重点を置いた。
艤装を変更した結果、旋回性能、機動性能はガレーには劣るが、一度加速さえ得られれば、素晴らしい速度を示す直進性に優れた船ができあがった。
テストベッドだったこともさいわいした。
船形も独特だった。
後に正式採用される、なにもかも豊満でたっぷりな妹たちと比べると、高さ、船幅とともに小柄でスマートな姉は鋭角的な断面を持ち、ために風や波の抵抗がこのクラスの船舶にしては小さく、現場による改修が良いほうに多く転んだ幸運な例だった。
すなわち、世にも珍しい重装高速突撃艦の完成である。
決着は刃にてつけるべし、との信念が本来鈍重な浮き砲台であったはずのガレアスを、一撃離脱を信条とする海の重装騎兵に生まれ変わらせたのだ。
アシュレは素早く着衣を済ませ、上着を引っかけ、船室を出た。
後部艦橋には、すでに数名の士官が上がってきていた。
そのなかに船長:ヘクターもノーマンもいた。
「なにごとです?」
「船影だ。大型のガレーシップ。二隻。こちらの進行方向から来る。現在距離はまだずいぶんとあるが」
「船籍は」
「暗くてわからん、が商船とは思えない。すでにエスペラルゴの制海圏だ。巡回か——そうであれば、臨検を強いられるかもな」
遠眼鏡を覗きながら、ヘクターが答えてくれた。
「臨検? こちらはイクス教の船でしょう?」
「なんのかんのと難癖をつけては小金を稼ぐ、という輩もいるのさ。それに、こちらはいま大変デリケートな積み荷を積んでいる」
ヘクターの瞳が、アシュレを見た。
「わかります」
「お気になさるな。海賊どもに指一本ふれさせたりしませんよ」
「海賊?」
「昼間も話しただろう? 皇帝:メルセナリオから私掠船免状を頂いた新・貴族の皆さまさ。ちょっかいをかけてきたら、髭の剃り方を教えてやる」
茶目っ気たっぷりにノーマンが言った。
戦の気配に触れると冗談が言いたくなるタイプなのだろう。
武人気質だった。
「これは、気づかれてるのか?」
「さて、どうでしょうか。とりあえず、漕ぎ手たちに増速は命じましたが」
「貸してみなよ」
いつのまにか、イズマがそばにいた。船長から遠眼鏡を奪い取った。
「あー、なんか、向こうも慌ただしくなってますよ、船上が。おーおー、走っておる、走っておる。昇っておる、昇っておる。サルが」
土蜘蛛であるイズマは夜目が利いた。
「来るね、こりゃ。弾込め、はじめてた」
「気の早いことだ。三百を切らんとまともに当たりなどしないぞ」
「竜槍:〈シヴニール〉を持ってきておきますか」
アシュレが小さく聞いた。
聖遺物管理課の聖騎士を代々努めるバラージェ家:その嫡子たるアシュレには先祖伝来受け継がれた強力な過去の遺産と、それを扱うための《スピンドル》能力がある。
竜槍:〈シヴニール〉はそのうちのひとつで、短躯の馬上槍に似た形状を持つ。
だが、槍といいながら、その性質は極めて強力な射撃兵器だった。
あらゆるものを焼き尽くす強力無比の光条を放つことのできるそれは、有効射程においても最新鋭の長距離砲に数倍する長さを誇っていた。
アシュレの提案に、ノーマンが目で頷く。
船長のヘクターは意味が飲み込めていない。無理もない。
異能の持ち主=《スピンドル》能力者でない彼には、そして〈シヴニール〉の威力を目のあたりにしていない者にとっては、それは意味不明な会話であったはずだ。
乗船時に簡単な面接があり、その効果をアシュレから、またノーマンからも説明されていたからといって、実感できるかどうかは別の話であった。
「次は前甲板へ出てくれ。使うようなことにはなるまいが、備えだけはしておこう」
アシュレは自室にとって返すと、厳重に封をされた〈シヴニール〉を持ち出した。
前甲板、いわゆる円形砲台にはすでにノーマンが待ってくれていた。
大砲が除去さた砲台跡に、アシュレのための足場が築かれている。
「これで身体を固定するんだ」
ノーマンが固定用ベルトを用意していてくれた。
それはノーマンとも結びつけられ、砲台の柵に固定されていた。
大げさな、とアシュレは思わなかった。
直後にエポラール号が戦闘機動を開始したからだ。
このまま船が沈むのではないか、と思うほど右へ大きく傾いだ。
ベルトで固定していなければ、吹っ飛ばされていただろう。
アシュレは砲台の稜線から船影に狙いを着けなければならなかった。
ノーマンに抱きかかえられるような格好だ。
「こ、こんな、戦闘機動中に、た、大砲なんか撃てるのかっ? 砲台が、空を、向いてるッ」
「それで多くの砲を降ろしたのさ。たぶん、設計ミスだろう。そうでないなら、我々の運用が間違っているか、どちらかだ。いや、存外後者かもしれんが」
「てっ、敵艦が、み、見えないっ」
「落ち着け、わたしがリードする。……それよりも、アシュレ、キミは《閉鎖回廊》の外で《スピンドル》を扱うのには馴れているか?」
「? どういうことですか? 父からは、《閉鎖回廊》以外では極力使うな、よほどの大事以外には、と厳に戒められました。人に要らぬ猜疑心を呼ぶ、と。文字通りの教鞭を受けたことも、一度や二度ではない。ヒトとしての規律、規範の問題だと捉えてきたのですが」
「お父上の警告は正しい、がいささか具体性に欠ける。少し補足しましょう」
アシュレの父:グレスナウに対する敬意からだろう、ノーマンが敬語に直った。
「どういうことです!」
凄まじい加速にごうごうと風が鳴った。帆が一杯に風を孕んで反り返っている。
アシュレは怒鳴るように言った。ノーマンが返す。
「《スピンドル》は《閉鎖回廊》の外——正常世界では安定しにくい。小規模な発動や技ならともかく、大規模なものとなると不安定になり、消耗や代償も肥大する。最悪、因果が逆転して惨事を招くことも」
「! 消耗や危険性が増大する、とは教練で習いましたが、そこまでとは知らなかった。ただ、父の諭しよう、叱りようは、教官たちのそれとは“違う”とは感じていました」
「因果逆転については、その任務のほとんどが《閉鎖回廊》内での戦闘に特化した聖騎士と、異教徒とはいえ人間を相手取って戦うカテル病院騎士団では、蓄積が違うのかもしれません。
聖騎士たちは、実際に試すような事態に陥らなかったせいかもしれない。
そも、聖騎士は、通常の戦場には、ほとんど派遣されない。
オーバーロードや魔獣のひしめく人外魔境、《閉鎖回廊》への派遣か、さもなくば法王庁の防衛がすべてだからです。
十字軍に従軍したことさえ、歴史上、数度しかない。
ただ、その例外的なひとり、十字軍の英雄と名高い騎士:グレスナウが危険性を知らぬはずはなかった、とわたしには思えます。ご子息であるあなたに振るわれた教鞭の厳しさを考えれば、いえ、かならずご存知だったでしょう。
熟知しながら、伏せておいでだったのです。
お父上はアシュレに人生を《スピンドル》と、それが呼び覚ました異能で切り抜けるような人間になって欲しくはなかったのでしょう。
小器用に閾値を探り当て、使いこなすような処世の方法を学んで欲しくなかった。
異能を使い頼れば、なるほど確かに人生は簡単になると誤解しがちだ。
常人には決して手の届かぬ奇跡の力だ。それにモノを言わせることは容易い。
しかし、それでは決して得ることのできぬものがある。
いや、逆に失われてしまうことも。
それどころか、そのことさえ、知らずに人生を終えてしまう。
それを“知れ”と言われたのです。
小器用な頭だけの知識より、戒めとしての規範を与えられたのです。
与えられるのを待つだけの男にはなるな、と。
使うな、と戒められたのは、そのためです。
なぜ使ってはならないのか、それを自分で探り当てられるまでは」
「どういう意味でしょうか」
「超常の《ちから》で人生を簡単に解決するな、という意味です。
同じように先達の教えにすべてを頼るな、という意味でもある。
ないがしろにせず、しかし、自分の頭で考えろ、という意味です。
そして、越えていけ、という意味です。
わたしのレクチャは時満ちた証拠か、それともいらぬおせっかいだったか。
それは歴史が決めるでしょう……もちろん、これはわたしの感想、いや感傷に過ぎないが。
ふふ、戦時にはどちらも無用の長物でしたね。
ひとまず《スピンドル》は《閉鎖回廊》の内側でだけ正常に働く。
いまはこのことだけを心に留められよ」
まあ、いささか自説が過ぎたかもしれないが、とノーマンは笑った。
実行と実現を旨とし、虚言を嫌う宗教騎士団の一員として、己の饒舌を恥じていたのだ。
しかし、ノーマンは恥じたが、アシュレはその言葉は正しいと感じていた。
父が言わんとしたことは、まさしくノーマンの言のとおりであろうと思う。
死んだ父の言葉が、いまを生きる先達の口を借りて、息子であるアシュレに伝えられたのだろうと。
生者に都合の良すぎる解釈かもしれなかった。
だが、己の糧にできるのならば、いまはそれでいい。
得難い果実として受け取れば良い。
戦場を生きぬく騎士としての“観”が、アシュレのなかにも育ちつつあったのだ。
ボクは、これまでよりいっそう慎重に《スピンドル》向き合わなければならない。
そして、そうでありながら使うべき時を見定めなければならない。
躊躇なく決断するために、見識を広げ、判断力を研ぎ澄まさなければならない。
いっそう迷わなければならない。
本当に決断を必要とする、その瞬間のために。
アシュレはそう己に言い聞かせると、ノーマンの示す先、船影のひとつに狙いをつけた。
※
「あぶないっ」
後部艦橋へ出るため、貴賓用の船室前を経由する階段を昇りきったところで、船が大きく傾いだ。
エポラールは商船や客船ではない。
戦闘を第一義として作られた純粋な戦闘艦だ。
たとえ上質の船室や病院船もかくや、という装備を持っていても、その本質は変わらない。
このまま沈んでしまうのではないか、と思えるほど船体を傾がせて月の海を疾駆するエポラールは、間違いなく高速ガレーシップの血を受け継いでいた。
イリスの華奢な体が吹き飛んだ。
あっ、と思ったときには遅かった。
固い杉材の船内に身体を叩きつけられる。
良くて打撲、悪ければ骨折、最悪死亡。そのはずだった。
イリスはせめて必死に頭部を護った。
自身を思ってではない。
艦長から貸与された〈スペクタクルズ〉をかけたままだったからだ。
衝撃は思ったほどではなかった。
なにかが間に入ってくれたのだ。
バラの香り。
香料のような押しつけがましさではなく、ただ野に咲く瑞々しくも自然なバラの香がイリスを受け止めてくれていた。
加速中なのだろう、船体の傾きはそれっきり安定し、気をつければ立ち上がれるようになった。
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
イリスは助けてくれた相手に礼を言う。
手を差し上げ、相手の顔に触れる。
ぬる、とその手が温かいものに濡れた。
シオンだった。間に入った際、頭を打ったのだろう。
ビスクドールのように美しい顔に、血が垂れていた。
鎧戸に護られたランプが揺れ照らし出す世界に一瞬、鮮烈な赤が咲いた。
「た、たいへん!」
「よ、い。大事……大事ない」
「それは、あなたの判断することじゃありません!」
とくとく、と鮮血が流れ、イリスは手当てが必要と判断した。
羽織った服装が看護服であったから、とっさのセリフに少しは説得力が籠ればよいと願う。
「どこかで……手当てしないと」
「なんだ……けっきょく、出戻りか」
ほれ、とシオンがイリスに鍵を手渡した。
「そこの船室の、だ」
開けよ、と言われイリスは素直に従った。
動転してなかなか鍵が穴に入らず、がちゃがちゃと鳴る。
ふふ、とシオンがうしろで笑う。
「け、怪我人のくせに、わ、笑わないっ!」
「それは、すまんかったよ」
ベッドに座るように指示されたシオンは、おとなしくそうした。
「明かりっ、明かりはっ」
「やめよ、戦闘機動中だぞ。火事になる」
貴賓室も先ほどの傾斜の被害を受けてはいた。
家具はすべて作り付けになっているのでそれほど深刻なものではなかったが、水差しが転がっている。
分厚いカーテンの隙間から漏れる月明かりだけが頼りだった。
イリスはどうにかシオンの元へ辿り着き、傷口を確かめようとして、息を飲んだ。
なかった。
傷口どころではない。
先ほどたしかに流れていたはずの鮮血さえ、どこにも。
「大事ない、と言ったであろう」
夜魔の大公の娘・真祖の血脈・シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ。
無意識にイリスは〈スペクタクルズ〉を起動していた。
その使用に《スピンドル》が必須の機材を、だ。
燐光をふたつのレンズが帯び、シオンに関する情報を次々とリストアップしてゆく。
自らが書き記した夢の断片に登場した夜魔の姫と、これまでに〈スペクタクルズ〉の歴代の持ち主たちが記録し〈ガーデン〉――すなわち一種の疑似次元界に集積した情報とが相互参照され、照らし合わされていく。
情報的異空間・次元界である〈ガーデン〉に収蔵された膨大な収蔵品を、いつでもどこにでも携帯できる仮想博物館とインデックス――それが、〈スペクタクルズ〉の機能だった。
そう、〈スペクタクルズ〉もまた《フォーカス》だったのだ。
「そなた……いま、《スピンドル》を」
見咎められた罪人のように怯えたのはイリスだった。
シオンの手を握った指に強ばった力が宿った。
「これは……」
しかし、怯えるイリスに向けられたのは極めて冷静な言葉だった。
「よい。症例は少ないが、あることぞ。
どういうわけか《閉鎖回廊》はそこに関わりながら生還を果たした者に、ごく稀にだが《スピンドル》能力者としての萌芽を授けることがある。
じつは長命な氏族の間では有名な話だ」
ま、かくいうわたしも、実際にその症例を見るのは初めてだが、な。
「ここで会えたのは、天の采配かも知れぬな。
その狼狽ぶりだと――その《スピンドル》能力は、まだアシュレにさえ知られておらぬことだろう?
安心せよ。状況は異常だが、そなたが異常というわけではないのだ。
それに——ちょうどよかった。
わたしも、そなたと話しがしたい——話しをせねば、と思っていたところだ」
強ばったイリスの手に己の掌を重ね、シオンは微笑む。
緊張をときほぐすように、やわらかな熱が伝わってきた。
「それにしても、信じられん美貌というものだな、そなたは」
さらり、と歯の浮きそうなことを言ってのけてもまったく嫌みに感じられないのは、シオン自身が己の超常的な美貌に価値を見出していないせいでもあるのだろう。
シオンにとっての美とは燦然たる生の輝きであり、定命である者たちのほうに、よりいっそうそれを見出すのかもしれなかった。
「おまけに……その……なんというか、嫉ましいほどスタイルがよい」
わたしの場合は、こんなところを控えめにせずともよい、というのに。
言いながらシオンはイリスと自分の胸の間で視線を行ったり来たりさせた。
「なるほど、定命の男というのはこういうのが好みというわけだ」
感心しきり、という感じでシオンが言った。
「……そんな話をするために、わたしを探していたわけではないのでしょう?」
ひざまずき、シオンの瞳をまっすぐに見つめてイリスが言った。
シオンの歩み寄りを、かたくなに拒む態度だった。
「性急だな」
「わたしたちの命は、あなたたちと違って、短い、ですから」
まったくそなたの言う通りだな、とシオンは事実を認める。
「定命の者の変化の早さには、良い意味でも悪い意味でも驚かされる。——そなた、数時間前とは別人ぞ」
シオンの瞳に宿った光の正体が、詰問ではなく、相手を思いやるものだとイリスにはわからなかった。
死刑台の囚人のようにイリスは怯えた。
断罪されるのでは、と。
「記憶が——戻ったか」
まさか、とシオンがつぶやいた。
カチリ、とイリスの顔に硬質の表情が宿ったのをシオンは見逃さない。
「嘘が不得手なのは、アシュレともどもなのだな」
だからこそ、アシュレはそなたを見初めた、というわけか。
「不器用だが、アレにはヒトを見る目がある」
そのなかに自分も含まれていることを、完全に忘れてシオンが感想した。
その間にイリスの心を襲ったのは恐慌と動転だった。
自らの罪の意識。
アシュレに対して行った非道の数々が甦った。
「し、しらない。記憶、なんて、しらないっ。知りたくないっ!」
否定しながらも、シオンを突き飛ばして逃げることもできず、首を振り泣くイリスに、うん、とシオンは頷いた。すべてを許すように。
イリスはシオンの膝に額を当てうなだれた。
シオンの指が気づかわしげに、その髪をかいぐる。
我が子を愛おしむように。
「知りたく、なかった。知りたくなんて、なかったよ!」
「それでよい」
イリスが身を強ばらせる。
それからなにを言われたのかわからない様子で、顔を上げた。
「《閉鎖回廊》は、それに関わった者に例外なく過酷な運命を強いる。ひとりで受け止めるにはあまりに残酷すぎる運命を、な」
知りたくなく、認めたくなく、受け止めたくない。それは当然なのだ。
「恥ずかしい話だが、もう齢四百もなかばを越えておるというのに、わたしがそのことに気がついたのは、ついこの間のことだ」
存外間抜けであろう? シオンが笑みを作る。
イリスは笑わなかったが、涙がすこし途切れ途切れになった。
「ひとりでは抱えきれぬものが、この世にはどうしようもなくあるのだと、わたしは身を持ってようやく理解した、というわけだ」
だれかに話すことで、ただ話すだけで、ほんとうに軽くなるものなのだな。
ヒトの世ではあたりまえだと思われているようなことでも、いざ、行き詰まっている自分と相対したとき、苦しいのは、それができなくなってしまっているせいなのだと、自力で気がつくのは難しいものだ。
新たな真理を見出した哲学者のように瞳を輝かせてシオンは言った。
「まあ、だれかれかまわず相談したり、やたらめったら責任を分譲したがるような輩は例外として……身内や、せめて事件の当事者がそれを共有するのは、悪くない気がせぬか?」
シオンの指が、イリスの目尻を拭った。
イリスは、なぜかどぎまぎして赤面してしまう。
「そなた……ほんとうに、かわいらしい」
艶っぽいシオンの唇が、そう動いた。
胸がいけない感じに高鳴って、イリスは狼狽した。
手を振り解けず、勾配のためにうまく立ち上がることもできず、オロオロと左右に逃げ場を探すイリスの行動を、恐怖と勘違いしたのだろう。
シオンが少し照れたように言った。
「あー、食堂の件であるなら、謝っておく。本意ではなかった。……ただ、どういう風に振る舞えばいいのかわからず……そなたを、無視するようなカタチになってしまった」
ゆるせ。ぺこり、とシオンが頭を下げ、イリスはますます混乱した。
毎晩のように夢で観、〈スペクタクルズ〉に記録された彼女と、目の前の、まるで世間擦れしていない初々しい少女のごとき存在とのギャップに、ぐるぐると思考が乱された。
「あ、いや、この話はあとでよい。うん、あとで、きちんと話すから、よいのだ」
そんなことより、そなたのほうが大事ぞ。シオンは言った。
「思い出したのか?」
まっすぐ自分を見て話すシオンに、イリスはもう恐怖を感じなかった。
敵にさえ信頼を起こさせる、そんな希有な力がシオンにはある。
いったん信じきると決めたら、捨て身でまっすぐに相手の懐へと転がり込んでいく――そういう危うさを秘めた素質ではあったが。
そんなシオンだからこそ、イリスは、すべてを告げた。
強制されているという感覚はなかった。
自らのなかからこんこんと湧出る泉のように、自然に言葉が溢れる。
毎晩見る夢のこと。
そのなかの登場人物たちのこと。
そのなかで、自らがふたりの女性の視点を有していること。
それから、融合とアシュレに強いた《理想》の残酷さのこと。
すべてを包み隠さなかった。
ひとときもシオンから目を逸らさず、言葉を濁さずに、イリスは語った。
なにより、その胸に生じてしまったアシュレへの偽りようのない恋慕のことを。
そして、それをシオンは真っ正面から受け止めた。
黙ってイリスの語りを聞き遂げた。
そうしてから、ようやく涙を流した。
ずっと我慢していたものが堰を切ったかのように流れ出した。
「それを、そなたは別人として、ずっと観ることを強要されていたのか」
涙を止められず、シオンが訊いた。
声には隠しようのないイリスへのいたわりがあった。
どうして自分がいたわってもらっているのか。
その理由がわからず、イリスは惚けたようにシオンの美しい瞳を見ていた。
つらかったであろう。
言葉の代わりに抱きしめられた。
永劫の記憶の囚人である夜魔の娘には、イリスの受けた仕打ちがどれほどむごいことかわかっていた。
その心の軋みを自らのように感じられた。
自らの行いに対して理由を見出し、納得して、許すことができるのは自分だけなのに、イリスは記憶を持たず——その権利を与えられないまま、ただ“記録”としての体験を、幾度も幾度もその身に刻まれていたのだ。
その夢の登場人物のうち、だれが自分なのか、と疑心暗鬼に怯えながら、愛する男に呪いをかける夢を。
とても、耐えきれるようなものではない。
ぼろろっ、とイリスの目からも涙が落ちた。
止められなかった。
声をあげて泣いた。
シオンは黙ってその嗚咽を引き受けた。
ふたりの姫はベッドに身を横たえていた。
シオンがいざない、イリスは身をまかせる。
いつのまにか船は水平を取り戻していたが、外の騒がしさ、速度の出具合から警戒態勢を解いたわけではないようだった。
いつのまにか月は雲間に陰り、わずかな星明かりだけが海を照らしている。
もっとも、シオンの寝室は常に厚いカーテンに遮られ外の様子はうかがえない。
換気のために設けられた小さな窓から、わずかに空気の流れが感じられるだけだ。
シオンとイリスの間には燐光を放つ古代の巻き貝の化石があった。
「これは長く降り注いだ月の光を溜め込んで、いま吐き出しておるのだ」
シオンはそう言い、イリスとの間に置かれたそれを撫でた。
「ありがとう。それから……ごめんなさい。たくさん、迷惑をかけてしまった」
「礼や謝罪はもう少し先までとっておけ。
これから先、本当の意味でそなたの記憶が戻ったとき、真の意味でそなたを救えるのは、そなた自身をおいては他にいないのだからな。
そのとき、わたしが助けになってやれるかどうか、それはさだかではない」
だが、これだけは憶えておけ、とシオンは釘を刺した。
「イリス、そなたの視点からだけ見れば、そなたは、そなた自身が許せぬかもしれぬ。
けれども、もとを正せばグランがあのようなバケモノに成り果てたのは、わたしのせいでもあるのだ。
そして、もっと根源をたぐるなら、ああも簡単に《ねがい》を成就させてしまう装置と、そこに繋がる——回路、とでもいうのか——それを成立させてしまった過去の遺産に責はある。あるはずだ」
だから、自らを責め過ぎるのはよせ、とシオンは言った。
うん、とイリスはかたちばかり頷いて見せた。
「なにより、そうやって自罰的になっているそなたを見て、アシュレが傷つかぬと思うのか? あの優しさの塊みたいな男が」
イリスが息を飲むのが聞こえた。
シオンには、自らよりアシュレの身を案じるイリスの心根が、ありありとわかった。
「で、あろう?」
「なんだか、なんでも見透かされてるみたい。シオンさんには勝てないや」
「シオンでよい。それになんでもわかるわけではない。わたしだって、そなたに聞きたいことが、その、いろいろと、だな……ある」
なぜか赤面してシオンが言った。
もにょもにょと、一転歯切れの悪い物言いに、イリスはこのヒトはかわいいなあ、と思ってしまう。
「い、いま、なにか、わたしを小動物を見るような目で見たな」
そして、鋭い。
ジト目で睨まれ、イリスは慌てて話題を変えた。
「そう言えばアシュレは——どうやって、耐えていたんだろう。わたしが自覚するつい先ほどまで。正直、かなりつらかったはずなのに」
「永劫の恋の呪いの話か」
「やめて。永劫の恋の呪い、なんて美化しないで。ほんとうに恥ずかしくて死んでしまいたいくらい独占欲剥き出しの、卑劣な、最低の罠なんだから」
「んー、そうかもしれんが……正直、同じ女の身としては、頭ごなしに否定する気にはなれんしなあ。むしろ……わかる」
シオンの発言にイリスは言葉を失った。
口元を押さえてシオンを見る。
沈黙に耐えきれなくなったのは、シオンが先だった。
「なっ、なんじゃっ、わたしだって、女であるから、恋くらいするぞっ」
「意外……シオン、さ——もとい、シオンの口からそんな発言が出るなんて」
驚くと古風な話し方になるんだ、とイリスは笑いシオンは頬を膨らませた。
「おなごとの会話は、どうも不得手だ」
「つらいことや悲しいことに立ち向かうのは得意でも、そういう苦手もあるんだね」
くすくす、と笑うイリスに、シオンは憮然として、けれどもすぐに思い直したように切り出した。
「さきほどの話だが」
「永劫の恋の呪い?」
「アシュレが耐えることのできた理由——それが、そなたにわたしが話したかった、今日の本当の理由なのだ」
聞きましょう。半身を起こしイリスが真剣な目をした。
どんな内容か、ほとんど見当はついている。そういう態度だった。
シオンも応じた。何度も深呼吸してから、やはり目をまっすぐ見て言った。
「アシュレに注がれた《ねがい》を受け止めたのは、そなたひとりではない。もうひとり、《ねがい》の暴虐からアシュレを救うため、身を挺した女がいたのだ」
それはだれでしょう、とイリスが問うた。
わたしだ、とシオンが答えた。
「以来、そなたが夢に淫されたように、わたしもまたあの日のことが忘れられず、耐えきれなくなってしまうのだ。最初は我が血のせいだ、アシュレから受けた愛のせいだ、とばかり思っておった。だが、そなたの話を聞いて、そればかりではないのだと、わかった」
「わたしの《ねがい》のせいだね」
「それだけは認めざるをえん」
たぶん、わたしたち三人は同じ呪いに堕ちてしまっているのだ。
「おそらくは、アシュレの身を通して伝達された《ねがい》に、その因子が膨大に含まれておったのだろう。
わたしは耐えきれず、アシュレを求めた。
迷いに苦しみ ながらも、アシュレは応じてくれた。
だが、それが純粋にわたしへの愛ではないことは、そなたにはわかるはずだ。これはいわば、仕組まれた罠なのだ」
仕組まれた罠。
イリスの瞳が動揺に揺れた。けれども今度は逃げようとはしなかった。
シオンの手をイリスのそれが、決意を込めたように握る。
「だが、そのうえで、そなたはアシュレへの恋慕をはっきりと告げた。
永劫の恋の呪いのせいではなく、自らの心の働きだと宣言した。
ならば、わたしもそなたに伝えねばならん。
これは公平性の問題だ」
こくり、とイリスは頷いた。シオンの唇が意志とは無関係に震える。
イリスの唇もまた、同様だった。
ざああああっ、と波の音がした。
吹き込んだ風がベッドの天蓋から下がるレース地のカーテンを揺らす。
「告白する。愛してしまった——アシュレを。そなたとのことを知りながら」
謝らぬぞ、とシオンは言った。
怒ったりしない、とイリスは言った。
かわりに、長く息をついた。
自分の心の動きに戸惑ったような仕草だった。
「わたし……おかしいのかな……うれしいんだよ……シオンが、アシュレを好きだって言ってくれたことが。ね、これって、おかしい、よね?」
いいや、とシオンはかぶりを振った。
「なぜだろうか……わたしも、アシュレがそなたを想っていても、不実を働かれている気には、まるでならないのだ。むしろ、そうであればこそ、いっそうアシュレを愛しいと思う」
たぶん、永劫の恋の呪いのせいで、頭のどこかが完全におかしくなってしまったのだろう。
ふたりとも、もう根治の目処など立たぬほど。
ふたりは諦めたように笑った。
星空を映す闇の海を船は進む。
事態が急変するのはこれより五日後のことだ。
注・これ以降は、本文から削除されたシーンです。
■ボーナストラック「姫君たちの秘密の会話」
「ただな、今夜のはイラッ、と来た」
「イズマさんと涙の話ですか?」
「あの変態にペロペロされとる間、アシュレが、わたしよりイリスを優先した、と思うと心臓が踏みつけられるように痛むのだ。おかげで涙が止まらなくてな。必要以上にあのバカモノを悦ばせてしまったわ」
「それは……悋気ですね」
「悋気? これがそうなのか」
「嫉妬、やきもち、シオン、かわいい」
「なっ、ななあっ。焼いとらんっ、やきもちなんぞ焼き方もしらんっ」
「じつは、かなりのさみしがり屋さんとみた」
「わ、わらうなあっ。悟るなぁっ」
「その調子だと、わたしが隠れてアシュレといちゃいちゃしてると、吐き気が来るくらい嫉妬しちゃうタイプですよ」
「う、じ、じつは……もう、さっきも」
「じゃあ、オープンにしますか?」
「いや、それは、いろいろとマズイ。イズマがどうなるか、手がつけれん気がするし。公衆の面前で三角関係などと、はっ、恥ずかしさで悶死しそうだ」
「じゃあ、必ず、ふたり一緒にってことで」
「そっ、それだっ! って、一緒ッ? なぬ!」
「んーふっふっふッ、初々しいなぁ〜。わたしみたいな汚れからすると、汚したくなるタイプ♡ イケナイ方向に目覚めそう」
「イ、イリス?」
「夢を総合すると、わたし、かなり汚されちゃったらしいんです」
「ま、待つがよい、なんか、話の雰囲気がよくないぞ」
「でもねっ、裏技、強いんですよ! はっきり言って人生的に裏技を知っておくと、倦怠期など恐れるに足らずですよ? 女の秘密は必要悪!」
「け、倦怠期? そんなのもあるのか。そ、それはどういう期間なのだ?」
「男女の間には必ず訪れると言われている恐ろしい期間です。愛が冷めちゃうんです。反応薄かったり、つれなくされたり、休日ひとりで遊びに行っちゃたり。耐えられます?」
「それは……(シュミレーション中)……あれっ、涙が出てきた。胸が、胸が苦しい」
「この〈スペクタクルズ〉によるとですねえ、そういうときは、ですねぇ。こう、レバーを握って……」
「レバー⁉ に、握るッ⁉ い、いきなりか!」
「あー、レバーには、ジョ○○○○ックとか、○ョイボー○って俗称もあるみたいです」
「お楽しみ棒(ジョ○○○○ック)⁉ お楽しみ(○ョイ)……玉(ボー○‼)。(想像不可能、という顔で)」
「あー、顔真っ赤、かわいー。それでですねぇ、逆に溜めてから(←)、レバーぐるりん(↙↓↘→)のぐいっ(←P+K+G)、って感じで、ドビューッ! て感覚らしいんですけど」
「ドドド、ドビューッ??? ○▲×□◎*??? そんなの(手の動き)……できない」
「習うより、馴れですって。あ、1P時、右向き、って注釈がある。2Pだと逆……か。んー、3Pはどうやるんだろう? あ、八人まで同時でいけるんだ。凄いなー」
「そ、それっ、ほんとうに愛の作法なのかっ?」
「『これで勝つるッ! 殿方のハート、ブチ抜いてさしあげますわ・電激姫夢想‼ 愛の作法:裏コマンド・インストカード』……間違いないッスね(〈スペクタクルズ〉起動中)」
「……いきなりは、どのみち無理な気がする」
「練習しましょう!」
■kie-soさんから頂いたファンアートです。うわあああああい、すげえー!
えへへ、自慢しちゃお。
(当然ですが、掲載につき本ページ&みてみんへのUP・使用許諾は完全に頂いております)
この場面の、これはねー、もうねー、アシュレくんは、ダメですよねー、男子的に。追っかけなくちゃ。
え、オマエのボーナストラックのほうがアカンて?
ごもっとも(ひゃほーい)




