■第八二夜:挫く声は木霊して
そのとき、鳩の群れを百も束ねたような音圧が実際の威力をともなって、アシュレの頬と耳朶とを打った。
「くっ、不意打ちかッ?!」
思わぬ敵襲に対し、アシュレは反射的に甲冑と肉体を盾にシオンを庇った。
だが、羽音はそれっきりいずこかへと飛び去り──太陽の最後の残照に浮かび上がるヘリアティウムの町並みの上を悠々と舞っているではないか。
「なんだったんだ、いまの。あれは、鳥? いや違う! 真騎士の乙女なのか!」
「いまのはこちらの位置が露見した……の、ではないのか」
光り輝くベールで風圧から肉体を守り、同じく腰から光の翼を広げて悠然と空を行く敵の姿に、アシュレとシオンは顔を見合わせた。
どうもつい先ほどの遭遇は、こちらを敵とも《スピンドル能力者》とは認識しないままに行われた威嚇行動・デモンストレーションだったらしい。
直後の垂直撃ち下ろしを警戒して身を強ばらせたふたりは、拍子抜けした様子で翼の持ち主の姿を視線で追う。
天空を己が住み処とする真騎士の乙女たちは、当然のように、すばらしく目が良い。
たとえるなら高空を行く猛禽が、地上の獲物を捕らえるがごとしだ。
そういえばアスカも遠くを見通すのが得意だったな、とアシュレは思う。
件の乙女はその卓抜した視力を持って、はるか離れた場所から、塔の上に陣取るアシュレとシオンとを見つけたのだ。
相手としては、祖国の興廃を賭けた世紀の一戦を塔から見守る年若き騎士と姫君に己の存在を誇示しようとしたのかもしれない。
オマエたちがこの都市の指導者であるならば、よく聞け、とでも言わんばかりに。
なぜなら続いて彼女の唇から響き渡ったのは、己こそ勝者であると信じる者が敗者に対して行う──ある意味で傲慢な降伏勧告だったからだ。
「不浄の市の民──退廃の市に暮らす暗愚の衆よ! 見たでありましょう、たったいま決着した戦いを! 狂信に駆られた無謀なる騎士と、真の正義を掲げた勇者との一戦を! さて、その結末がどうであったか? 天空より射掛けられた光条はまさに裁きの一撃! 貴様らの信じる神が真にあの戦いをご照覧なされていたというのであれば、なぜ、貴様たちの騎士は裁きに打たれたのか?!」
美しい亜麻色の髪をなびかせながら宙を舞う乙女の思想観は、城塞の内側に反響して殷々と響いた。
沈み行く夕日が翼の影を長く引き伸ばし、彼女の言葉にさらに威圧的な属性を付加する。
そして、おそらくはなんらかの異能を用いているのであろう。
彼女の言葉は、遠く離れたアシュレの耳朶さえ震わせた。
「聞きなさい、衆愚よ! 誤った信仰を棄て、我らに下りなさい! 我々は栄光ある戦いにはべる者。無益な殺戮、すなわち虐殺にはなんの価値も見出さぬ! いますぐ投降するのです! 武器を捨て、城門を開くのです。そして、我らとともに理想の国家へと至る道を選びなさい!」
彼女は真騎士の乙女の武器である槍も携えず、両手を胸の前で組んで呼び掛けている。
どこか柔和な面持ちを戦場の厳しさに引き締め、亜麻色の髪の乙女は空から呼び掛ける。
言葉を発するたびに光の粒を飛び散らせ巨大な翼を羽ばたかせる彼女の姿は、いっそ荘厳と言ってもよいくらいで、まるで教会の壁画に描かれた終末を告げる天使のようにさえ見えた。
先ほど、白騎士とオズマヒムの一騎打ちに水を差した黒翼のオディールとは違う。
別人だ。
そして、天から振り注ぐ声に、この一日というものまさに驚天動地の戦いの凄まじさに家に閉じこもって祈りを捧げていた人々が、なにごとかと街路に繰り出す。
「天使だ、天使だ」
天を仰ぎ、指さしてはそう言い募る。
ヘリアティウムには「この街が滅びるとき東から現れた天使が人々にこれを告げる」という言い伝えがある。
空を行く亜麻色の髪の乙女は、まさにその伝承を体現していた。
「アシュレ、これはまさか」
人々の行動を見て取ったシオンが警告を発した。
完全記憶を持つシオンは、この都市の歴史や言い伝え、さらには交戦が予想される敵対種族に関する情報分析官の役目を担っていた。
ヘリアティウムに関する伝承知識も当然、その範疇である。
緊迫したシオンの声に、うん、とアシュレも頷く。
「うん、そうだ、シオン。ボクもアカデミーの教本で読んだことがある。真騎士の乙女たちの声には魔性が秘められていると。さながら暗礁海域で船乗りを呼ぶ人魚の呼び声のごとく、あるいは男をその美声で魅了し己らの子のための供物とする翼魔女のごとく、人心を揺さぶることができると。そういう異能を帯びていると。そこにこの都市:ヘリアティウムの伝承が重なれば──」
「では、これは異能による洗脳・扇動の類いか!」
「あるいは、まさに」
なるほど進行中の事態はシオンの言葉通り、洗脳と扇動の過程だった。
武器を握って戦える男たちは皆、城壁の守りについて不在。
いま街路を埋めるのは怪我人か病人、女子供、老人、そして神に祈りを捧げるため戦いには参加しなかった修道士たちばかりである。
オレが守ってやる、と抱きしめてくれる強い腕の持ち主は、ここにはだれひとりとしていない。
あるのはカタチのない、目に見えぬ神にすがることしかできぬ者ばかり。
一様にその顔には強い不安の陰りがある。
そこに真騎士の乙女の言葉は降り注いだのだ。
結果は──火を見るよりも明らかであろう。
『アシュレさま!』
その時であった。
塔の手すりを這っていた大きな蜘蛛が、前脚に渡したクモの巣を震わせて言葉を発した。
もちろん蜘蛛に発声器官はないのだから、話しているのはこれを使い魔として使役する土蜘蛛の姫巫女:エルマである。
「エルマ、ちょうどいいところに! これはやっぱり、彼女たち真騎士の乙女の異能:洗脳系の《ちから》なのか?!」
『さすがはアシュレさま、話が早いですの! はい、間違いなくその類い。つまりこれは情報戦、洗脳戦ですわ! いつだったか、そう遠くない昔、わたくしたちがアシュレさまたちが陣取るカテル島を攻めたときにも使いましたが、呪術による人心操作系異能は触媒やら準備やらに手間ヒマがかかるもので油断しておりました。こいつらの──真騎士の乙女どもの声、ヒトの心の防壁をたやすく貫通しますの!』
自分たちがアシュレと敵対していたころの事例を挙げてエルマが言った。
あのとき、エレとエルマの凶手姉妹は民衆の恐怖を煽る呪術を用いて、カテル島を大混乱に陥れようとした。
イズマの事前準備と機転でからくも危地を逃れたアシュレたちだったが、もしふたりのたくらみが計画通り成功していたなら、どうなっていたかほんとうにわからない。
その経験もふまえてアシュレは土蜘蛛の娘に問うた。
「じゃあやっぱり民衆側から崩して……内側から城門を開けさせようっていうのか?!」
『おそらくは、ご想像の通り。くやしいですわ! してやられましたわ! 真騎士の乙女なんて力押しの正面突撃しかしらない猪騎士とばかり侮っておりました! こんな絡め手! それもこんなに素早く! 城壁の結界に出来たほころびを抜いてくるなんて!』
エルマの叫びは、アシュレのそれでもあった。
推敲加筆していたら、なんだか7000字くらいになってしまいまして。
後半は明日か明後日にも更新しますので、よろしくですー!




