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■第七六夜:青き嵐



 それまですくなくとも表面上はおだやかだったゴールジュ湾が、突如として沸騰したかのように泡立った。

 次々と海中から湧き出す巨大な泡に浮力が失われ、立て続けに大型のガレーシップが傾く。

 ミルクのように濃い朝霧が渦を巻き、その中心に巨大な御柱みはしら屹立きつりつするのをアスカは見た。


「シドレラシカヤ・ダ・ズー。“黒曜こくよう海の守護者。世界最古参の蛇の巫女……」


 湾を封鎖する大縛鎖を思わせて海中に潜み、いまやオズマドラ艦隊七〇〇〇の行く手を阻むべく立ちはだかった大海蛇の名を、無意識にもアスカは言い当てている。

 いっぽうその隣りでは海将:バルトグールが、目玉がこぼれ落ちてしまうのではないかという勢いでまなこを見開き、驚愕に震えていた。


 といっても、そこはさすがにイクス・アラムと信教の別なく海の獲物を荒らし回った強者である。

 呆気に取られていたのは、わずかに一瞬。

 旗下の船に対し、すぐにも激が飛ばされた。


「回頭! 回頭だ! あんなモンを相手にできるかああああ!」


 だがこのとき、一介の海賊から大帝国の海軍司令にまでのし上がった男の言葉を即座に実行に移すには、オズマドラ海軍の練度は到底足りていなかった。

 生まれたばかりの水鳥のヒナがそうするように、かいをバラバラに動かしてなんとか回頭を試みるオズマドラ船団は、さらに海中から這い上がる奇怪な人影の群れに襲撃されることになる。


 その姿は──トカゲか、あるいはワニか。

 ファルーシュ海の南端が陸地と接するところ、つまり暗黒大陸の北端に棲息するワニ=巨大爬虫類を思わせる分厚い鱗と表皮を備える異形の生物が群れをなしてオズマドラ艦隊に襲いかかったのである。


 さて、その種別を海洋性リザードマンと明記しよう。


 現在、物語の舞台となっているゾディアック大陸には、大別して二種のリザードマンが棲息している。

 いっぽうは巨大化した火食鳥を思わせる陸生種。

 俊敏な回遊魚のごとく縦にスリムな肉体、長くまっすぐな尾をスタビライザに強靭な二脚と鉤爪を備える。

 発達した脚部を板金装甲で固め、頭部を衝角と刃とカウンターウェイトによって形成されるヘルムで武装し、槍と盾とを携え暴風のごとき速度で襲いかかってくる魔獣の類い。


 これが陸生型のリザードマン。


 さて、ではもういっぽうはというと、イモリやカエルのように平たい体躯に分厚い鱗と表皮を兼ね備え、やはり武装は槍かビルフックなどの長柄のものを好み、トカゲのごとき頭部を持つ存在。

 ただし、その生活圏は河川や湖・沼などの水辺とその近隣、さらに海洋にまで跨がる。


 そしてこのとき、オズマドラ海軍に襲いかかったのは、この大海わだつみの種族としての海洋種たちであった。


 あっという間に戦場はカオスに呑み込まれた。

 なにしろオズマドラ帝国軍が得意とする人海戦術は、あくまで人類圏=常識的な場所で戦うことに特化されたもの。

 そこに、これまでは伝説や天災への訓戒として語られてきた海の魔物たちが襲いかかったのである。

 特に黒曜こくよう海と海峡を通じて繋がるヘリアティウム近海は、他ならぬ大海蛇:シドレラシカヤ・ダ・ズーのおかげで、長きに渡ってリザードマンと人類が争ったこと自体がほとんどないのだ。

 そのせいでこの近隣に暮らす人類にはいま襲いかかる脅威との戦闘経験値も、対抗手段も人類側には口伝すらない。

 まさに未体験の敵である。


 反射的に応戦した勇敢な男たちも雪崩のごとく、あるいはまさに津波のごとく、シドレラシカヤ・ダ・ズーが煽り立てる大波に乗じて次々と船縁を越えてくる海洋性リザードマンたちを押し返すことは、さすがにできなかった。


 なにしろいま自分たちに襲いかかる敵は、たとえ船が沈もうとも海中で平然と生きていられる種類の生物なのだ。

 引きずり込まれ、水を飲んでしまえば数十秒もたたぬ間に意識を失う人類とは、そもそも生きものとしての規格が違う。

 敵船に投げ入れるべく用意されていた火炎瓶が手元で炸裂し、さらに地獄絵図を広げた。


「殿下、殿下! こりゃあいけません!」

「だからといって味方を見殺しにできるか! 統率もままならぬまま敵前に置かれ、戦意をくじかれた軍団がどうなるかは、貴様がいちばんよく知っているだろう!」


 情けない顔ですがりついてくるバルトグールの頬に平手打ちをかまし、アスカは荒波に暴れ回る船の舳先に立った。

 見上げれば濃い朝霧が切り裂かれ、かわりに真っ黒な雷雲とその向こうに冗談のように青く澄み渡った空が見えるではないか。

 そして、“もうひとつの永遠の都”と、その防衛艦隊のすべてを守るように立ち塞がる巨大な蛇の巫女の姿もまた。

 このときアスカは怒り狂う蛇の巫女の姿に、覚悟のようなものを見出していた。

 それは我が子を守ろうとする母の姿。

 荒れ狂う蛇の巫女の姿に、アスカが見たのはそういう種類の必死さだった。


「ふふ──欲するものがあるならば実力で押し通れと、そういうことか」


 ならばよし、と改めてアスカは蛇の巫女を認め、微笑んだ。

 オマエがそうであるように、わたしにも引けぬ理由があるのだぞ、と。


「ならば、そのようにしよう。オマエの覚悟に恥じぬ戦いを捧げよう」

「殿下?! ちょ、ちょっとちょっと、どうするんで?!」


 そう駆け寄ったバルトグールが言うが早いか、アスカは荒れ狂う洋上に向かって身を投げた。


 当然だが、武装したリザードマンたちがひしめく波間になんの備えもなく身を投じたのだとしたら、その瞬間にアスカの人生は終わりを告げていただろう。

 もちろん、そんなことにはならない。

 オズマドラ帝国第一皇子は、荒れ狂うゴールジュ湾の水面に、まるで雪渓を滑るソリごとく片膝立ちで浮かんでいた。


 これは荒海に身を投じる直前アスカが行使した異能:疾風迅雷ライトニング・ストリームと、その《ちから》を増幅してくれる両脚=告死の鋏:アズライールのおかげである。

 それはある意味、聖典の水面を渡る聖者の逸話、その再現のようでもある。

 おおお、と皇子の雄姿に志気を挫かれかけていたオズマドラの兵たちから声が上がった。

 アスカはそれに右手を差し上げ応える。

 そこにはすでに宝刀:ジャンビーヤが抜き身で握られている。


「に、しても、なるほど重い。水が泥土のごとく粘る。疾風迅雷ライトニング・ストリームの加護を受けているはずの我が身が、足首まで海水に沈む」

 兵たちの声援には将としての態度で応じつつも、生まれたての子鹿のように脚を震わせながら水面に立ち、アスカは悪態をつく。

 もちろんそれは波と風と剣戟けんげきが奏でる戦闘音楽にかき消され、だれの耳に届くこともない。

「アシュレたちの言う通りだな。この凄まじい過負荷。告死の鋏:アズライールが《ちから》を貸してくれていなければ、こうして立っていることさえ難しい」

 旅立ちの朝、アシュレが口を酸っぱくして念押しした《閉鎖回廊》外での異能行使に関わる危険性について思いだしながら、アスカは苦笑した。

 拭った口元は代償としての血で紅を引いたように赤い。

「過保護なことだと思ったが、なるほどこれはなかなか手厳しいな」

 

 アスカたち人間が日常を暮らす人類圏と、その外に点在するオーバーロードをはじめとするヒトならざるものたちの拠点:《閉鎖回廊》の相違点は多々あるが、その最たるものは異能の根源パワーソースたる《スピンドル》の励起の仕方にある。

 奇跡にも等しい《ちから》を誇る《スピンドル能力者》たちの異能と《スピンドル》は、オーバーロードたちの所領ドメイン:《閉鎖回廊》のような魔の領域か、反対に特別に聖別された場をのぞいては、うまく発動しないのだ。


「だが、だからといって、ここで舞台を降りるわけにはいかん。それが世界に冠たる大帝の息子──オズマドラ帝国第一皇子:アスカリヤの役目だ。そして、それこそがこの筋書きを書いた真騎士の乙女どものもくろみだからな」


 男装の麗人は震える両脚に拳をぶつけてさらに《スピンドル》を通し、荒波に姿を隠して這いよるリザードマンの群れと、そのむこうでこちらを認め射るような視線をぶつけてくる蛇の巫女を睨み返した。


「ほう。どうやら、オマエだけにはわたしの声が聞こえているようだな、シドレラシカヤ・ダ・ズー。だとしたら、それらを承知でオマエはいまここにいると、そう言うのか。いや、むしろ、これこそがオマエの企み──ほんとうの願いであったか」


 先日、霊媒であるアテルイの《ちから》を利用して接触を図ってきた蛇の巫女の胸の内が、なぜだかこのときアスカにはわかりかけていた。


 自らの血統の聖地とも呼べる神殿へとアスカたちを導き、己の瞳を抉りとってまで託したその理由。

 それはいま、あえてだれの目にもはっきりとわかるように、わかる場所でアスカとの対決=再会を選んだことと決して無関係ではあるまい。

 それがいったいどういう願いなのかについて、具体的にはなにひとつアスカにはわからない。 

 しかし、なにか決定的でアスカにしか託せないものを、いまこの蛇の巫女は手渡そうとしている。

 だから、こうして姿を現した。

 アスカがそうであるように。


 オズマドラ軍のなかで接触を持ったのが、なぜアスカであったのか。

 蛇の神殿を出たアスカを竜巻による攻撃を装って逃がしたのはなぜか。

 わざわざ危険を冒してまで、いまこうして直接的な対峙に姿を現した理由は?


 すべてに意味がある。

 それも共通した。

 しかも、きっと言葉にすることの許されない。

 

 なぜならば──言葉にした途端に、そのもくろみを「誰か」が察知するから。

 たとえば、超常の……そうかの魔道書グリモアにしてオーバーロード:ビブロ・ヴァレリが。


 だから、彼女は、シドレはあえて暴力を持ってアスカに対することしかできないのだ。


 暴風に全身を嬲られながらアスカはそれでもまっすぐに立ち、常人であれば石化したかのようにカラダの自由を奪われていたであろう圧力を持つ視線を跳ねのけ、背筋を伸ばして立ちはだかる大海蛇の名を呼ばわった。


「シドレラシカヤ・ダ・ズーッ! 黒曜こくよう海を統べる古き血筋の蛇の巫女よ! 我が名はアスカ。アスカリヤ・イムラベートル・オズマドラッ! 我は、我が信じる大儀によって、貴様を調伏せしめる。覚悟はよいかッ?!」


 轟きわたる火砲の砲声と落雷、さらに荒れ狂う暴風雨を貫いて、アスカの言葉が洋上を走り抜ける。

 そしてそれに応えるように、真っ黒な御柱にしか見えぬ蛇の巫女のシルエットが強大な雄叫びを上げた。


 ここにオズマドラ第一皇子と、黒曜こくよう海の守護者と謳われた蛇の巫女の想像を絶する戦いが始まる。

 

 


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