■第七〇夜:大図書館へ
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「あっ」
「いない?! どこ、どこいったのッ?!」
イズマたち潜入班がビブロンズ帝国皇帝:ルカティウスの姿を見失ったのは、この演説のときである。
上空に咲く美しい光の乱舞に気をとられ目を奪われていた時間は恐らく数分であったはずだ。
その間にルカティウスと青き衣の巫女は忽然と私室から姿を消した。
目標失探。
隣りでともに監視役についていたスノウはともかく、イズマらしからぬ大失態に本人も唖然としてる。
オズマドラ大帝:オズマヒムのやり口が土蜘蛛の王をして、意表を突くものだったという証拠でもそれはあるのだが。
「くっそ、やられたぜ!」
口調とは裏腹に、イズマはどこか楽しげな表情で、月桂樹の茂みが作り出してくれた隠れ家から飛び出した。
「まって!」
それにスノウが続く。
反射的に伸ばしたバートンの手は空を切る。
「どこだ、どこいった。鍵はかかったままだから正面扉からじゃないか」
私室に飛び込んだイズマは大理石の床に両手をついて、なにか探るような仕草をした。
追いすがってきたスノウに「近づくな、足音を立てるな」とハンドサインを送る。
ハッとなってスノウはつんのめった。
イズマは目を細め、感覚を研ぎ澄ませる。
床から両手を通じて音を拾い上げようとする。
これは土蜘蛛が持つ種族特性のひとつ。
蜘蛛たちが備えるのと同じ、鋭敏な振動関知能力である。
「どこだ、どこにいる──っと、捉えた! いるぞ、地下、城塞の内部から……地下へ向かって遠ざかっていく。ふたり分。男女の振動。この乳の揺れ具合は間違いない!」
まるで魔法のようにルカと青き衣の巫女=シドレの動向を捕捉したイズマの能力に、スノウは素直な驚愕と賛嘆を覚えた。
乳の揺れ具合については、よくわからないことにした。
だが、次の瞬間、イズマの頭部を強烈な打撃が襲った。
スノウによるツッコミでは断じてない。
振り抜かれたのは床面と同じ材質でこしらえられた岩石の拳。
「イズマッ!」
スノウの悲鳴とイズマの頭部が消し飛ぶのは同時──に見えた。
「自動人形ね。古典的なトラップだよッ!」
振り抜かれた大理石の拳は空を切り、それと入れ替わるように放たれたイズマの回し蹴りが調度品に擬態して設置されていた動く石像の頭部にヒットした。
瞬間的にイズマのかかとに通された《スピンドル》が発光し、自動人形の首を破砕する。
ぶんっ、と十ギロスは確実にあるだろう女神像の頭部が吹き飛び、内装に深い傷をつける。
「うわっちうわっち!」
しかし、頭部を失った女神像は動きを止めなかった。
ハッキリと相手を認識する能力を失いはしたものの、恐るべき怪力を持って暴れ回りはじめた。
「あぶねえ!」
イズマはスノウを抱きかかえて押し倒す。
まさに手負いの獣となった石像は、長椅子やテーブルなどの内装に対しても容赦なく分別なく襲いかかっていく。
そのたびに数十ギロスもある一枚板の天板や椅子の脚などが、矢のような速度で周囲に散乱していくのだ。
こんなものに巻き込まれたら人間などひとたまりもない。
たとえ破片ひとつであろうとも大けがは確実である。
「イズマッ、ここはオレに任せろ!」
ガオォン、という轟きとともに私室に飛び込んで来たのはノーマンであった。
その両腕にして《フォーカス》でもある浄滅の焔爪:アーマーンが唸りを上げるたび、恐るべき弾丸と化した調度類の破片が、まるでテーブルにこぼれたミルクを布で拭うように消し去られていく。
「ノーマンの大将──助かったよ!」
スノウをかばい、背に破片を浴びていたイズマが礼を言いながら立ち上がった。
後から考えると凄まじいタフさだ。
「礼は後だ。目的を果たせ」
土蜘蛛の男にカテル病院騎士団筆頭は背中で応じた。
無造作に間合いを詰めるその肩越しに、頭部を失った女神像だけではなく部屋中の石像群、あるいは剥製までもが動き始めるのが見えた。
「オーキードーキー!」
その様子を一瞥しながら土蜘蛛特有の軽口で応じ、イズマは指示に従った。
両手を地面につくと素早く目を走らせる。
スノウはイズマの胸に庇われているのが現状だ。
「イズマ、わたし」
「ちょっとまってね。いーま隠し扉、見つけちゃうからね」
突如として始まった戦闘と大混乱のさなかで平然と笑うイズマの姿に、スノウはこの男の本質を見た気がした。
常在戦場という言葉があるが、イズマの場合は常にトラブルの中心で生きているというのが正しいのだろう。
しかも、そのトラブルというのは世界の危機レベルの超大物のことだ。
「なるほど、この部屋に繋がってる隠し通路は暖炉が入口か……まあそうだね、構造上」
どういう理屈か、イズマにはもうこの部屋に隠されている秘密の通路の位置や構造まですっかりお見通しらしい。
忘れられた塚の土蜘蛛の王だと自称する男はルカティウスの私室に設けられた大型の暖炉にスノウを連れ、影から影へと移動した。
ときおり頭上を内装の破片とノーマンに破壊された自動人形たちの部品が掠めすぎる。
暖炉はなかに大人が数人悠々と入れてしまうほどに大きい。
ヘリアティウムは比較的温暖な地域に座しているとはいえ、地上二〇メテルの高さにあり海風を受ける構造の宮殿の冬は冷える。
備え付けの大型暖炉はその内部壁面にベンチが設けられ、火の間近で暖を取れる仕組みになっていた。
「暖炉の内壁が動く……と、こっちは偽装兼なにかのスイッチかな? 念入りだねどうも」
外見からはまったく見分けられない隠し扉やそこに付随するギミックを恐ろしい速度で見抜きながら、イズマはスノウの手を引いた。
「こっち」
「どうしてわかるの?!」
暖炉の内壁はじつは三方すべてが隠し扉となっていた。
普通ならどれを選ぶべきかいくらかにしても迷うはずだ。
だが、イズマはなんの迷いもなくそのうちひとつを選び出した。
「床をよく見て。暖炉の灰が足跡に残ってる」
言われてスノウは仰天した。
たしかによくよく見ればそんな痕跡がある気もするが……傍目にはほとんどわからない。
「これだけ?」
「ほかのふたつはトラップとスイッチを兼ねているだけなんだ。行き止まりか、とんでもない罠が待っている場所へ続いているだけ。だけど、これを操作してからじゃないと本物のほうも内部通路かなにかが、開かないようになってるんでしょ」
本物だという隠し通路にスノウを押し込みながらイズマは断言した。
「ちょ、ちょっとまって、ノーマンさんを援護しなくていいの?」
「役目を果たせ、って言ったのは彼だよ。カテル病院騎士団筆頭ってのは最強って意味だぜ? その男が任せろって断言したんだ。心配要らないよ」
「で、でも。きゃっ」
ガチュン、と大理石同士がぶつかりあう音が間近でした。
砕け散った自動人形の破片が、暖炉の手前まで飛んできたのだ。
「いこう」
「でも、わたしたちがなかに入ったら追いかけて来れないんじゃ?!」
「スノウちゃんも見たでしょ、ノーマン君の両手のスゲエパワー。人間ツルハシですよアレ。いや、ツルハシ人間かな? まどっちでもいいや。隠し扉なんて問答無用で消し飛ばして追いかけてくるって」
「でも、隠し扉の仕掛けのことは……」
渋るスノウにイズマは凄みのある笑みを浮かべて言った。
「大丈夫、コイツを使っていまの会話はノーマン君には共有してある。それに急いで追いつかないとこの先に待ち受けてる仕掛けを突破できなくなっちゃうかもしれないんだからね」
イズマが言葉にするより早く奇妙な姿をした大きな蜘蛛が一匹、その首筋に現れた。
反論しかけたスノウはひっ、と息を呑んだ。
それはイズマの首筋から現れた異形の蜘蛛の姿を見たからでもあり、耳まで裂けるように口角をつりあげたイズマの瞳がまったく笑っていなかったせいでもある。
「疑問を持つことは大事だ。でもそれはときと場合による。いまは行動のときだよ」
丁寧な言葉遣いに宿るイズマの底の見えない迫力に気圧され、スノウは隠し扉を潜る。
それはヘリアティウムの伝説に謳われた大図書館の深奥:大秘書庫へと続く通路への潜入であった。




