■第六九夜:絢爛たる理由
「親愛なるビブロンズ帝国の臣民、ヘリアティウム市民たちよ。なぜ今宵、我らは来たか。それは諸君らと刃を交えるためではない──」
ヘリアティウム上空約三〇〇メテルで開花を繰り返していた光の華がいっせいに鳴りを潜め、それに合わせるように楽の音が退いて、大気から残響がすっかり消え失せたころ。
──その男は現れた。
男が立っている半月型の舞台は、白く塗装された木材で組まれている。
舞台底部には何千本もの丸太が並べられ、ステージはその上を移動していく。
遠目には大理石の建築物に見えるそれを引くのは数千人の兵士に、見上げんばかりの巨躯と巨大な牙をそなえる動物=象である。
それまで闇を圧していた花火の光が消えうせ星明かりだけとなった世界のなかで、オズマドラ帝国軍の陣地に灯る篝火と舞台に配された不思議な光源が、そこにひとり立つ男の姿をくっきりと照らし出していた。
「諸君──数千年の歴史を誇る永遠の都に暮らす諸君。我:オズマヒム・イムラベートル・オズマドラは、諸君らと言葉を、そして、杯を交わすために今宵、馳せ参じたのだ」
朗々たる声であった。
堂々たる姿であった。
全身を彩る金色のスケイルメイルはアラムの戦士たちの伝統的な武装であったが、オズマヒムがまとうそれは竜鱗を素材とする。
オズマドラ帝国の民は起源を高原の地:アルカトリアに持つ。
この見事な金色の甲冑はその高原地帯のさらに奥地、高山の頂上にある古代の空中庭園に巣くっていた黄金竜をオズマドラ帝国の開祖が仕留めた際、その遺骸を用いてこしらえたと言われる逸品だ。
その金色に光り輝く甲冑の上に羽織るのは、目の覚めるようなラピスラズリ色の長衣。
頭頂には大きく巻かれた純白のターバン。
装飾は握り拳ほどもあるエメラルドがひとつと、長く伸びる一本の飾り羽根は遠く暗黒大陸に住むという火食鳥のものである。
その男がなみなみと葡萄酒の注がれた杯を掲げて、自分たちに呼び掛けるのをヘリアティウムの民は確かに聞いた。
気がつけば市内と郊外をわける三重の城壁には、陸上の防衛を任された約五〇〇〇名の兵士たちだけではなく多くの市民たちまでもが、この光景を見ようと殺到していた。
まるで祝祭のようだという自分の感想の正しさを、このときアシュレは身を持って感得していた。
ただ一点、異なるところがあるとするならそれは、この祝祭は民が主役のものではないということだ。
今宵の祭りは、ただひとりに捧げられたもの。
すなわち、たったいま白亜の舞台の上から声を発した男のためのものである。
その証拠に民衆たちはしわぶきひとつ立てず、まるで飼い主の合図を待つ犬のようにオズマヒムの次なる言葉に耳を傾け、目を剥き、食い入るようにその一挙手一投足を注視している。
光と音の祭典から一転、耳が痛くなるほどの静寂を演出し、己の言葉を届けてしまうオズマヒムという男の統治者としての技術の凄まじさに、アシュレは舌を巻いた。
これほどまでに壮大かつ華麗な戦の幕開けがどこにあろうか。
直線距離にして確実に数キトレルは離れているはずなのに、アシュレにはオズマヒムの声がまるで間近で語られているかのごとくに感じられた。
いや、それどころか遠眼鏡のなかにあってさえ豆粒ほどにしか見えぬ男の姿が拡大され、ハッキリと鮮やかに意識のなかに突き立つように思えたのだ。
たしかに男の立つ舞台が音声を反響増幅させ、拡大する役割を果たしていることは明白である。
演劇の舞台と同じ役割をあの移動式のステージは持っている。
だが、それだけではない。
いまヘリアティウムの三重の城壁の向こうで、あるいはその直上で固唾を呑んで聞き入る聴衆に対して向けられるオズマヒムの言葉には、なにか特別な引力のごときものがあった。
こういうたとえで伝わるものかわからないが──そう、優れた物語のように聞き入らずにはいられない、続きを読まずにはいられない、あの《ちから》。
誤解を恐れずに言えば、魔性のごとき《ちから》の存在だ。
それがアシュレに鳥肌を立てさせた。
「へえ、人間の男にしては、なかなかやりますわね」
「ふふん。まあ、イズマさまほどではないが、なかなか出来ることではない、とは言っておこうか」
しかし、狭苦しい塔の最上階で押し合いへし合いしながら成り行きを見守っていた土蜘蛛の姉妹からの評価は、アシュレのものとすこし方向性が異なっていた。
それがオズマヒムの語りに引き込まれかけていた意識を引き戻してくれた。
「あれで……イズマと同じくらいなの?」
戦いの幕開けにこれほどのイベントをぶつけてくる王はほかにはあるまいと感じていたアシュレは、おそるおそる訊いてみた。
土蜘蛛の姫巫女姉妹が語るイズマの大戦とやらに興味をそそられたのだ。
そういえばアシュレとシオンがヘリアティウムの森のなかで雌伏の時を過ごしていたころ、イズマはイズマで大変な大冒険を体験していたらしい。
なんでも暗殺教団に捕らわれたエレを助けるため、エルマとたったふたりで強大な暗殺者の群れに立ち向かいついにはその本拠地を陥落させたと聞いている。
イズマの語りは話が盛りすぎでなにをどこまで信用していいのかわからないのと、途上で出逢った真騎士の乙女:ラッテガルトとの悲恋のことがあって、遠慮してきたアシュレはその話題をまじまじと聞く機会に恵まれなかったのだが……。
「バカな。イズマさまのそれと人間の戦を同じにするな。違うぞ」
「イズマさまのほうがハッキリ上ですの」
アシュレの問いに、エレとエルマは異口同音に答えた。
では、どう違うというのか。
ますます好奇心を刺激されて、また同じく人間の男としてのプライドをくすぐられてアシュレは反論を試みた。
「ふたりともイズマを持ち上げるけれど、オズマヒムの演出はありえないくらいに見事です。こんな……まだひと矢も、一合も交えぬうちに征服すべき敵の民草の心を鷲掴みにしてしまうなんてそんな君主──ボクたちの世界にはふたりといないでしょう」
青年騎士の反骨精神を見抜いたのか、エレが弟を見る姉がそうするようにふふん、と笑って答えた。
「あの男:オズマヒムが傑出した英傑であることは認めよう。我ら土蜘蛛の世界でも凡人の戦のありさまは、そう変わらんわけだしな。希代の英雄という意味であれば、あれほどの男は一時代に数人だ。傑物だよ。そこは認める」
「その条件のひとつ、敵将を打ち倒すことよりも民衆の心を鷲掴みにして、これを魅了すること。それをクリアしていますもの。わたくしたちは、まずは見事と褒めているのですわ、彼の者を」
でも、とエレの後を継いだエルマは言った。
「イズマさまのやり口はその上を行きます」
そうだな、とエレも頷く。
「自らの居城を逆落としにして敵のそれを攻撃するなど、ほかにだれが考えつくものか。終焉の奈落の見事さよ。しかも破損した敵側の城塞の補修代金にと金銀財宝の雨あられ。そんな城攻めを見たことがあるか?」
アシュレの頭を愛しげにかき抱きながら、あるいは左腕を抱きしめ胸乳を密着させながら、恍惚とした表情で語るふたりの美女の言葉がアシュレにはさっぱり理解できなかった。
敵の城塞を攻めるのに自らの居城を上から落とす、というのはどういう戦術なのだ?
しかも補修代金をその場で支払う、というのはどういう戦い?
疑問符が浮かんで見えるアシュレの表情に、エレはまだまだだなと溜め息をつき、エルマはそんなアシュレを愛玩動物を扱うように抱きしめる。
「そなたはそなたのやり方を見つけたら良い。ロクでもない手管ばかり先んじて学ばれると、わたしが困る。王道を極める前に邪道ばかり教えるのもどうかと思うぞ、土蜘蛛のふたり」
お気に入りのぬいぐるみを奪い返す勢いで、シオンがアシュレの左手を抱きかかえた。
こちらは装甲化されているとはいえ竜皮の籠手:ガラング・ダーラだから、胸の感触と体温が伝わってくる。
「おやおや、シオン殿下は悋気(※やきもちのこと)に身を焦がしておられるのかな?」
「ふふふー、この間は同衾した仲ではありませんの。独り占めは良くないですわ」
「そ、そなたら! そ、それは機密事項であろう!」
ここ数日でどういう錬金術的変化が起きたのかわからないが、もしかしたら土蜘蛛の姫巫女たちとシオンの関係は深まっているのかもしれない。
そして、そういう場合、女性同士の関係性についてはあまり言及しないほうが良いと経験からアシュレはすでに学び終えていた。
しかし、それにしたってちょっと今日は色々エスカレートしすぎなのではあるまいか。
「おーおー、焼いてらっしゃるな。そうだな、スノウとのことで最近、めっきりお見限りだったしな」
「ななな、なにおう!」
「ちょちょちょ、ちょっとまって皆さん! 落ち着いて、お、落ち着こう! 同衾とかお見限りとかなんだかいろいろ気になるけど、いまは眼前の戦いに集中! 集中しましょう!」
ついにアシュレは三人の会話に待ったをかけた。
アシュレの叫びにエレはニヤニヤ笑いつつ、エルマはうっとりと目を閉じつつ、シオンは眉をつり上げつつも従う。
みんなホントはわかっているんじゃないか、とアシュレは思う。
「でも、そうか。そういうやり方もあるって想定しておかなくちゃいけないんだな」
口を開けば舌戦を再開しそうな女性陣を尻目に、アシュレはつぶやいた。
さりげなくエレが抱えていた右腕を引き抜き、指でアゴを触る。
「そういうやり方とは?」
訊いたのはシオンだ。
「都市上空にいきなり大戦力が投下される、とか」
反射的にアシュレは頭のなかの未熟なアイディアを口にする。
「たとえば?」
当然のように追求された。
「……空飛ぶ船、みたいな、かな?」
シオンの問いかけにアシュレは思案しながら答えた。
子供のアイディアみたいだと自分でも思う。
もちろん、確信があってのことではない。
しかし、昔読み漁った物語のなかで真騎士の乙女たちが人間の英雄の魂を奪いに来るときの挿画に、たしかそんな船が描かれていたのだ。
翼の生えた帆船である。
「冗談みたいに思えるかもしれないけど、イズマが自分の城を攻城鎚みたいに使うなら、真騎士の乙女たちが空飛ぶ船くらい出してきたって不思議はない」
笑ってくれていいけど、とアシュレは話を締めくくったがシオンをはじめ女性陣のだれもアシュレを笑ったりはしなかった。
「それは、あり得る話だ」
「さきほどの花火の技術も考え合わせますと、もしそれが実戦投入されたなら市街は火の海になりますわね。あの火球でざっと半径一五〇メテルはありますもの」
むしろ返ってきたのは納得と同意である。
エレとエルマは素早く目配せまでした。
「いまのうちになにか手を打っておく……か」
「すでに対航空戦力用の手段はいくつか張り巡らせてありますけど……増強しておいたほうが無難そうですわ」
アシュレは自分の発想・発案があっさり現実のものとして受けいれられたことに驚いていた。
「いや、まだ、確定というわけでは」
「いまのオマエの話には充分なリアリティがある」
「そして防ぐ側が『まさかありえない』と思っている攻撃は防ぎようがありませんの」
言うが早いか、土蜘蛛の姫巫女姉妹は塔から抜け出すと闇に消えた。
影か幻か、というような速度である。
途端に狭苦しかった塔の上のスペースに余裕が生まれた。
「行ってしまった」
「アレがあの者たちの役目だからな」
屋根から屋根へと飛び移りながらあっという間に見えなってしまった姉妹の背中に、アシュレは呆然とつぶやいた。
「これ、ここから状況が動いたら、ボクらはどうやって連携したらいいんだろう?」
「安心しろ。いざというときのための糸はちゃんと残して行ったよ」
アシュレの頭の上を這っていた大きな蜘蛛を掌に移し、それをさらにアシュレの方に乗せ変えながらシオンは言った。
その大きさにアシュレは一瞬、ぞわっとしたが虫一匹に対して緊張する様子をシオンに見せたくないので、平気な顔をしてそれを感受した。
これは、いざというとき糸を通じて互いの声を伝える伝声管の役割を果たしてくれる特別な蜘蛛である。
シオンにとってのヒラリがそうであるようにエルマの半身・使い魔でもある。
いかに常識外れにデカイ蜘蛛とはいえ、無下に扱うわけにはいかない。
ここから先に待ち受ける戦いは想像を絶するものなのだ。
この程度のことで驚いていては話にならない。
「空想上のものだったはずの存在が、実在のものと現れてくるという意味で、ここから先の戦いはまさに夢のなか、物語のなかでのもののようになるのだろう」
アシュレの胸の内を見抜いたのか、シオンが微笑みを浮かべながら言った。
「それはまるで《閉鎖回廊》が溢れたように……ボクたちがこれまで人知れず抗い続け、潜り抜けてきたあの人外魔境のなかでの物語のごとき出来事が人類圏を、ボクたちの世界を侵食するようにかい?」
思いついたままをアシュレは言葉にした。
それはここまでの経験が言わせた、素直な感想である。
だが、夜魔の姫はアシュレの自然な口調に、一秒、真面目な顔をしてみせた。
「そなた、やっぱりときおりハッとするような発想の跳躍を見せるな。そうだ、そのとおりだ」
奇想天外な発想に大器としての片鱗を認めたのか、シオンはまっすぐな瞳でアシュレを見る。
「だとすれば、そのなかを迷わず駆け抜けて行くために大事なことはなんだろうかな」
「夢のなかを……駆け抜けていくために大事なこと?」
ふむん、とアシュレは唸って考えた。
夢中を生きるときなにが大事なのか、そんなふうに問われた気もしたのだ。
「たぶん、なにをしなければならないのか、自分はなんのためにここにいるのか、そのことを見失わないこと。そして、その瞬間、瞬間で己の意志によって決断していくこと──ちがうかな」
ふうん、とシオンは相づちを打った。
それはうろんなものを見るような様子ではなく、むしろ感心したような声だった。
「わかっているではないか。そうだ、夢中を生きるには己がなんのために生きているのか、その目標を見据えて見失わないことだ。それが重要なんだ」
どうやらシオンの問いかけに対する答えとしては及第点をもらえたようだ。
けれども、ほっ、と息をついたアシュレにシオンはもう一度、問うた。
「では、いまそなたがしなければならないことはなんだ?」
突如としての、しかし究極的な真理を求める問いかけに、アシュレは一瞬、言葉に詰まる。
「えっと……そうだな。魔道書:ビブロ・ヴァレリをだれよりも早く手中に収めること。そして、それを用いてイリスを──“再誕の聖母”を追跡すること」
うん、とアシュレの答えにシオンが頷く。
「それが結果としてルカティウスがこれまで張り巡らせてきた陰謀の糸を断ち切り、オズマドラ大帝:オズマヒムとその後ろで糸を引く真騎士の乙女たちの野望を挫くことにもなる」
うん、とシオンが肯定する。
「そしてそれはアスカを運命の呪縛から解放してあげることにもなる」
うん、と三度シオンは頷いてから、アシュレを抱きしめた。
思わぬ積極的アプローチにアシュレは鼓動が跳ね上がるのを押さえ切れなかった。
「シオン?!」
「忘れるな、アシュレ。決して、そなたの目的を。厳しい道のりだ、迷うなとは言うまい。だが、もし迷ってわからなくなったときは、どうかわたしのことを思い出してくれ。そなたの隣には、そなたとともにどこまでも行くと誓った者がいる。最低、ひとりはそなたとそなたの戦いのためにすべてを投げ打つ覚悟を決めた女がいるということを、忘れないでくれ」
だから、わたしはもうここにいるのだぞ。
シオンにそう囁かれたとき、アシュレはこれまでにない愛しさを抱くとともに、不謹慎にも、他にもそう言ってくれそうな女性たちを幾人も思い出してしまった。
ひとりはアスカ。
ひとりはアテルイ。
そして、最後のひとりはなぜかスノウである。
ヲイ、と耳を引っ張られたのはその直後だ。
「そなた、いまほかの女のことも考えたであろう」
「えっ、い、いや」
「ウソをついても顔に書いてあるわ! それに忘れたのか! これほど密着していたら、そなたの想いなどわたしには筒抜けなんだからな! 許さんぞ!」
シオンはそのままアシュレの耳たぶを掴むと引っ張り倒した。
夜魔の使う不思議な体術である。
相手の体重や重心移動を利用するこの技でアシュレは初対面のシオンに地面に這わされた。
あの時と同じ状況になってしまい、アシュレは動転した。
暗闇のなか遠くからオズマヒムの演説が響いてくる。
だが、アシュレにはこのときだけは自分とシオンの鼓動以外なにも聞こえなくなっていた。
なぜなら、腹上のシオンが微笑んだまま涙を流していたからだ。
その表情は、まるでほかの女性たちのことまで思い描いてしまったことを喜んでくれているようにさえアシュレには思えてしまった。
そして、そのことが伝わったのか、シオンはキリキリと眉をつり上げた。
微笑んだまま。
困ったヤツだという表情で。
それから、身を折るとアシュレの耳朶に囁いた。
「なにがあっても、わたしはそなたのそばにいるぞ」と。
どうしていま、そんなことを言うのか。
さっぱりわからずに混乱するアシュレは耳たぶを強く噛まれて目を剥いた。
なになにどういうこと、と思うがシオンは止めてくれない。
長時間放置されっぱなしだった猫が主人にするように、シオンは執拗にアシュレの耳を齧る。
「わたしがいちばんそなたのものなんだということを思い出させてやる」
アシュレはそんな囁きを聞いた気がした。




