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■第五一夜:大秘書庫(アーク・ライブラリ)・分館


         ※


 ちゃぷん、というかすかな水音とともにアスカは境界面を潜り抜けた。


 輝く水面に見える《ポータル》を通過すれば、そこには満天の星空が広がっていた。

 驚いたことにそこでは重力方向が逆転している。

 潜っていったつもりが、いつのまにか浮上していたということだ。

 こちらとあちらにある境目を飛び越える際、どこかで天地が入れ替わったに違いない。

 だが、なによりもまず眼前の光景に目を奪われた。

 それほどに蛇の巫女たちの内世界インナーワールドは美しかった。

 初めて見た地上世界に驚く人魚姫のように、アスカは息を呑んだ。


「面妖な、というよりもこれは不思議な、と表現すべきなのだろうな」

 

 水底へと潜っていったその先でこんな幻想的な光景に出会えるとは、いったいだれがが予想できただろうか。

 降るような星空の下、アスカは銀色の水面を泳ぎ、カワウソのようにしなやかな動きで石造りのアプローチへと上陸した。

 水面から続くアプローチには祭壇の泉の底で見たのと同じ、意匠化された蛇神の姿がいたるところに刻まれている。

 続くエントランスの立柱もアーチも壁面も、モチーフとなっているのはすべて蛇だ。

 その精密さに圧倒されながらももう一度、天を見上げたアスカはある事実に気がついた。


「この星空……本物ではないのか。よく見れば天体はすべてが意匠化されたもの。ではこの星空すべてがドームに描かれた壁画なのか。だが──動いているぞ」


 アスカが一瞬にしても本物の夜空と見間違えたのも無理はない。

 意匠化された星々は実際の天体がそうであるように規則正しく、それぞれの役割を持って刻々と動き続けていたのである。

 そして、星々が合を成すたび、まるでメッセージを告げるかのようにそこには不思議な記号が現れる。

 絡み合う蛇のような、あるいは鞠菊の花のような光の連なり。

 集合体。


「まさか……これは……蛇の巫女たちの宇宙観なのか。だとすれば、ここは彼女たちの神話的回路の中枢ということになる」


 その理解に辿りついたとき、アスカの裸身は総毛立った。

 陽は天を駆け、月は盈虚えいきょし、星は巡る。

 合を成すたび、ささやきのように光のメッセージを残して。

 蛇の巫女たちが感じ取る森羅万象のことわりとそれを観測する視座が、ここには集約されている。


「ありえん。ありえんことだ。こんな重要な場所に、他の文明どころか他の種を招き入れるなど……これは、これは──蛇の巫女たちの世界観──いや、宇宙観、そのものだぞ」

 

 アスカは興奮に震えてつぶやいている。

 その肌は、嫌悪でも恐怖でも寒さでもないものによって粟立っている。

 幼き日、書庫にこもり歴史をむさぼり学んだアスカにはわかるのだ。


 感動と興奮を抑え切れない。

 

 なぜなら宇宙観とは文明の精髄であり、その文明を生きた者たちの叡知の結晶のことだからだ。

 それは「自分たちにとって世界はどのように見えているのか」を解説する外部装置にほかならない。

 もっと噛み砕いて言えば、いま眼前に広がる光景こそは蛇の巫女たちの「心のありさま」を目に見えるカタチで示したものだということだ。

 自分たちがなにで構成され、どのように考えるのかということ。

 世界と自分たちとがどのように関係しているのかということ。

 そういうものをこの場所は示している。


 だとしたら──たとえはかりごとがあるにせよ、シドレの想いは本物だ。

 

 これほど豊饒な宇宙観を持つ種族が単なる敵対者であるはずがない。

 そうでなければ人類の立つ瀬がないとさえアスカは思う。

 これほどの心のありさまを見せつけられたうえで、相手を単なる邪悪なバケモノどもと高を括っているようでは、すでに存在そのものの器量において勝負になっていない。

 蛇の巫女たちにとって星々がさんざめく夜空はこんなふうに光が群れ、秘密を語ってくれているように見えるのだ。

 それがいかなる意味なのか蛇の巫女ではないアスカにはわからない。

 だが、その合が見せる儚くも尊い輝きだけは、痛いほど胸に届いた。


「すごいな。記号の意味はさっぱりわからんが……あまりに美しい。これが嵐と地震を司る蛇の巫女の一族の宇宙観なのか。なんと豊かな。恵みと美と峻厳さ。深い。あまりに深いではないか」

「そう言うあなたは、蛇の一族ではありませんね」


 かたわらで声がしたのはそのときだ。

 人造であるとは知った後もあまりに圧倒的な天空の美に見入っていたアスカは、相手の気配を察知することもできずに跳び上がった。

 悲鳴を噛み殺し、即座に戦闘態勢を取る。

 しかし、声の主はそんなアスカにニコリともせずにこう言って応じた。


「ですが、この祭壇は叡知を求めるすべてのものに開かれています。蛇の巫女に認められた者であるのならばなおのこと。あなたにはなんの制限もない自由な閲覧が許されています」


 外見年齢は十二、三といったところか。

 小柄な少女が年齢には不相応な落ち着き具合でアスカを眺めていた。

 端正な顔立ち。

 アーモンドのような切れ長の目。

 その全身は黄金とターコイズを用いた装飾品で飾られている。

 いや、装飾品しか身に付けていない。

 彼女はいまのアスカと同様、裸身なのだ。

 無論、このようなものが外見通りの年齢・存在であろうはずがない。

 もちろん敵意は皆無だ。

 しかし、正体は知れない。

 アスカは思わず問うている。


「オマエ……あなたは」

 そんな問いかけに、少女は深い笑みを浮かべて応じた。

「わたしがだれか、などということにもはや意味はないだろう。しかし、あなたは求めるものがあってここに来た。だとすれば、あなたの知りたいことのうちのいくつかが、ここには眠っているはずだ。わたしはその手助けをする。これまでもここを訪れた者たちのためにそうしてきたように。もっとも──ここで得られるのは過去、知識として記録化され、焚書を生き延び、残されたものに限られるが」

「焚書を生き延びた知識?! そして、わたしの求めるものだとッ?!」


 いかにも、と少女は頷く。


「なぜだ、なぜそう言い切れる」


 少女の言う「求めるもの」がアスカの胸中で瞬間的に、連鎖反応的に具体性を帯びて炸裂した。

 他者の過去を暴くという魔道書グリモア:ビブロ・ヴァレリのこと。

 オズマドラ帝国中枢を蝕み牛耳ろうとしている真騎士の乙女たちの真意。

 父:オズマヒムと自分との間に本当に血のつながりはないのか。


 そんなアスカの様子をどう捉えたのか。

 少女はひときわ厳かに告げた。


「なぜなら、ここは旧世界から受け継がれた人類の叡知と、その後の世界を生きた人々の努力が結晶として集積され保存されていたアガンティリスの大秘書庫アーク・ライブラリの一部だからだ。偉大なる統一王朝が世界で三度目となる世界観崩落ブルーム・タイドに見舞われたあの日、エクストラムとヘリアティウム、そして各衛星都市の封印から一斉に解き放たれたものがあった。破滅的な実験情報を含む“接続子ハーネス”。そして、秩序世界の実現を掲げる古イクス派の扇動によって暴徒化した民衆。それらから我ら蛇の巫女たちヒュギエイアが命をかけて逃し可能なかぎり修復・復元を試みた──いわば大秘書庫アーク・ライブラリの分館なのだから」

「なん……だと?!」


 大秘書庫アーク・ライブラリの一部?!

 分館?!

 世界観崩落ブルーム・タイド?!

 破滅的な実験情報を含む“接続子ハーネス”?!

 古イクス派の扇動によって暴徒化した民衆?!

 

 押し寄せる情報の津波に、アスカは目をしばたかせるしかない。


「どういうことだ、説明しろ! 大秘書庫アーク・ライブラリの分館?! そんなことがあり得るのか?! オマエはいったいだれなんだ?!」


 その勢いのまま掴みかかり問い質そうとしてアスカを、少女は避けようともしなかった。

 かわりに、やんわりと諌める。


「よいのかね」

「よいのか、とはどういうことだ」

「わたしの正体や来歴、さらにはこの施設の真贋を疑っているような間は……ないように思えるが」

「それはどういう──」


 意味だ、と叫びそうになったアスカを制して少女は背後を指さした。

 そこには先ほどより明らかに明滅の度合いを早めた銀色の水面がある。


「接続が不安定になりつつある。時を惜しめ、異邦の姫よ。ここは言わば次元の狭間。通路を失えば、二度と帰還できなくなるぞ」


 抑揚のない声だったが、アスカは少女の言葉にいたわりを感じた。

 彼女の言う通りだ。

 状況は間違いなく切迫している。

 ことの真偽や真贋を疑っているような時間的猶予はない。

 まったくの想定外だったがこれが千載一遇のチャンスであることは間違いがないのだ。

 少女の口から漏れた意味不明の単語群への興味も尽きないが、いまはそのときではない。

 ここがかつて世界最高の叡知の結集と呼ばれた大秘書庫アーク・ライブラリの分館──蔵書を受け継ぎ保管した場所であるのならば、最優先の事項から調べていくしかない。


 知識は《ちから》だとアスカは思う。

 特にいまからアスカたちが立ち向かおうとする局面において、それは絶対的なものとなる。

 相対する困難の情報を正確に知ることなくして勝利は望めない。


「案内してくれるか」


 決断したアスカに少女は頷く。

 口元にちいさく、またあの優しい笑みが浮かんだ。

 その彼女が左から右へ、そこから下から上へと腕を振り抜けば、突如として石柱が飛び出してきた。


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