■第三夜:宴会、忘却の彼方に
なにかが、テーブルに頽れる音をアシュレは朦朧とした意識のなかで聞いた。
知っている。
この音は、沈没する音だ。ヒトが。酒で。
「われわれっ、われわれはっ、いまこそ、全人類の未来を切り開かねばなりましぇんッ!」
イズマが立ち上がり、そう宣誓し、そのまま轟沈した。
あたりには死体のように人々が転がっている。
非番の者を見つけてはイズマが宴に誘ったせいだ。身分の上下、性別の隔てなく。
士官用の食堂をヒトが埋め尽くしていた。たぶん四十人はいた。
全部、犠牲者だ。次々と獲物に襲いかかるイズマは、天才的な肉食獣だった。
堕落のプレデター。
壮絶な光景だった。
かくいうアシュレも浮沈を繰り返して、これが三度目の覚醒だった。
泥酔王:イズマの圧政を多くの屍の下で、なんとか生き延びたのだと実感した。
イズマの発案した危険極まりない遊戯:王様ゲームによって、宴に参加した人々のモラルは破砕された。暴虐な王がいかにして国を滅ぼすのか、その手本を観るような時間だった。
とりあえず、むこうの壁面で顔面にふた目と見れぬ落書きを受け、半裸で尻をさらし、さらに頭部にダーツの的を付け潰れているのはノーマンだ。
両腕のガントレットが、そのままなのが哀れを誘う。
もちろん暴虐の王:イズマ本人もひどいありさまだ。
女装し、ハデに化粧し、なぜか胸にリンゴをふたつ詰めている。
完全に犯罪だ。冒涜だ。
どうしてそうなったのかわからないが、王冠をかぶった脚長羊が主のかたわらにぼー、と立ち、もぐもぐと餌を反芻している。
アシュレは長テーブルの上で、まだくらくらする頭を左右に振った。
万物は流転すると言ったのが、だれだったかは忘れてしまったが、その観点はまったく正しい、とアシュレは思う。
酒が良いせいで気分が悪いとか頭が痛いとかはないのだが、とにかく酔っている。
腕の中にイリスがいた。
頭部に小さな急ごしらえのティアラが乗っている。王女さまだ。
アシュレは彼女に命じられ、卓上で抱き枕の刑を受けて気絶した。
「アシュレが使ってくだひゃらないにゃら、わたひが、つっ、使います!」
そんな不穏な発言とともにイリスに抱きしめられたのを思い出した。
衆人環視の高台で、だ。
まな板の上の鯉のようにアシュレはのびた。それが功を奏した。
とにかく、イリスだけはこのままにはしておけない。
胸元がはだけ、色々マズイ状態だったからだ。
他者を起こさぬよう、小さく呼びかけると反応があった。
すっ、と首に両手が回された。お姫さま抱っこを要求された。
ガタガタの肉体には堪えたが、アシュレはなんとか彼女を寝室まで運び込むことに成功した。
水を飲ませ、靴を脱がせ、腰紐を緩めてやる。
月影が窓から差し込んだ。胸を突かれるような美貌がそこにはあった。
そんなものがあればだが——とイズマは言ったが、ユーニスの《魂》と融合したアルマの肉体を、これほど間近で意識したことはこれまでなかった。
各地の派閥で違いはあるが、イクス教の正統:エクストラム正教では、戦士階級である騎士を除き、基本的に聖職者の結婚・妻帯は認められていない。
アルマはその尼僧だった。
絶対に手を触れてはならぬ神の端女。
そうであればこそ、聖騎士であるアシュレは、誓いとともにアルマに対して対等に接することができたのだ。私室での秘密の談義も可能だったのだ。
そうでないなら、アシュレのモラルが許さなかった。
同僚であるから、できたことだ。
もし、ただの男女として出会っていたのなら、間違いを犯さなかったという自信がなかった。
いや、正直に告白する。抗えなかっただろうと確信がある。
あまりに彼女は可憐だった。
グランに着衣を剥かれ、贖いの聖女として装飾され十字架に吊るされた彼女の裸身を、彼女を救出したあとも可能なかぎりアシュレは見ないように心がけてきた。
その彼女が無防備に横たわっていた。
『とりあえず、話のいきさつは説明してない。ただ、かつてイクス教の尼僧であったことと、グランの手からキミとボクらで助け出した、ってことは説明しといたよ』
だから、なんか、キミのこと白馬の騎士さまみたい思っちゃたみたいでさ。
申し訳なさそうに、まだ酒で豹変するまえのイズマは話してくれた。
自分が寝込んでいる間、イリスの相手を務めてくれたのは、主にイズマだったのだ。
だから、目覚めたばかりなのにイリスがアシュレに懐いていたのは、イズマが、かなり持ち上げた話し方をしてくれていたせいなのだろう。
それでイリスはアシュレに恩義を感じているのだ。
イズマは恐縮して言ったものだ。
「もしかして、かえって厄介事、増やしちゃった?」
「いいえ、彼女たちの選択は、ボクの責任でもあるんですから。それに……脚色されていても、ヒトには拠ってすがる物語が必要なんです。弱っているときは、特に」
だから、ありがとうございました。
アシュレがそう言うと、イズマはそっぽを向いて鼻をすすった。
いつか、本当のことが話せるといいね、とつぶやいた。
ええ、とアシュレも頷いた。
やっぱり、いいひとなんだな、と思ってしまった自分が——うらめしい。
すくなくとも、いま、こんな状況でどぎまぎしているのは完全にイズマのせいだ。
酔った頭でアシュレは必死に理性のブレーキを踏む。火花が散った。
秘された花こそ美しい——。
据膳、喰わぬは男の恥——。
そんなダメな大人の物語に拠って立つつもりは毛頭なかった。
おやすみ、と《意志》の力で可能な限り紳士的にささやき、部屋を辞した。
※
ぐうらり、と船がまた揺れた。
天上に吊るされたランプの明かりがゆらゆらと狭い船内の通路を照らす。
ふと、アシュレは胸に小さな不安を抱えていたことを思い出した。
ほかならぬシオンのことだ。
「よーし、それじゃあ、姫の部屋にとつげーき!」
宴がはじまってからどれくらいたっただろう。けっこう酔いが回っていたが、ノーマンはまだいなかったから、アシュレの沈没カウント・ゼロのころだ。
シオンの寝室に突撃しようとするイズマを止め損ね、帰ってきたらそのイズマが、なぜか脚長羊を連れて戻ってきた記憶が、不意にアシュレの脳裏に甦った。
「ひめぇ、ちょっと毛深くなりましたぁ?」
明らかな羊を脇に抱えて酔っぱらったイズマを、給仕や訪れる士官たちが笑いながら眺めていたころだから、まだまだ平和な王国だったころだ。
イズマではないが、アシュレもたしかにシオンを心配に思った。
ただ、そのときは酔いのせいもあってなぜ心配なのか、よくわからなかった。
その答えが、遅れていまアシュレの頭に飛来した。
アシュレのベッドで、強く揺さぶったのにシオンは目覚めなかった。
そして、直接聞きただしたわけではないが、アシュレは確信していることがあった。
夜魔の一族は記憶を忘れるということができないのだと。
その推察から、さらなる推論を導いてさえもいた。
つまり、彼ら夜魔が主に他者の血から「夢」という栄養を摂取するのは、その夢に逃れることで記憶との折り合いをつけるためなのではないか、と。
たぶん、この推論は正しい。
そうアシュレは思う。
同時に胸騒ぎがした。
シオンが夢に捕われたまま発した言葉が胸に刺さった。
——『壊れてしまう』
一気に酔いが醒めた。
アシュレは痛む身体を引きずるようにしてシオンの寝室を目指した。




