■第四七夜:天才ふたたび
「古き伝承によれば、蛇の巫女たちには相手への愛情や信頼、約束の証として己の一部を与えるという風習があるそうです」
翌日、アスカとともにくつわを並べ馬を進ませながら、シドレラシカヤ・ダ・ズーからの贈り物の意味を解説したのはアテルイである。
「では、それが傷物であった場合には、どういう意味になるのだ」
副官の声を聞きながら宝玉にしか見えない蛇の瞳とそこに刻まれた傷跡を思い出して、アスカは応じた。
「いえ、そこまでは。ただ、金銀財宝とともに己の肉体の一部を送りつけてくるというのはよほどのこと。あの蛇めの表面的な態度と真意は違う可能性がある、ということだけは推察されますね」
キズモノを送りつけてくる、というのは人類世界では決別や決定的な敵対意志の表明となるわけなのだが、蛇の巫女たちの慣習に照らし合わせたとき、それがどういう意味を持つのかというのはさすがにわからない。
同じように考えたのだろう。
アテルイの返答にも困惑の色があった。
さて、ふたりが馬を進ませるのはグラフベルドの森。
そう大海蛇:シドレラシカヤ・ダ・ズーが指定してきた場所である。
水源の乏しい半島状の地形に拓かれた“もうひとつの永遠の都”:ヘリアティウムは、西のエクストラムと同じく、いくつもの水道橋を整備することで大都市に必要不可欠な飲料水の問題を解決してきた。
グラフベルドの森は、古来より水道橋によってヘリアティウムへと飲料水を送り届けてきた重要な水がめのひとつであった。
アスカは砂獅子旅団の中核メンバーからの反対を押し切り、アテルイだけを伴に深い森へと足を踏み入れていた。
あの朝、海岸線に漂着物を装って送り付けられた品々の処遇と蛇の巫女からの示唆に関して、アスカ陣営での議論は紛糾した。
やれ呪いであるとか、命乞いの代金であるとか、策略であるとか、とにかく臨席した砂獅子旅団の主要メンバーたちは喧々諤々それぞれの主張を繰り広げた。
だが、それらをアスカはすべて一蹴した。
金銀財宝は砂獅子旅団の資産として、蛇の巫女のものであろう鱗と瞳はアスカ個人の私財として管理することを決定しこれを徹底させた。
資金として使えるものは使い、呪いだの因縁だのに関しては自分自身が引き受けるというそれは意思表示である。
そして、示唆のほうに関しては今日の旅路がその答えである。
「いやあ、それにしてもここは素晴らしい。素晴らしい場所だ、アスカリヤ殿下。アガンティリスの水道橋もだが、このグラフベルドの風景はどうだ。深く美しい森にこんこんと湧き出る清浄なる泉。いつ木陰から森の乙女たちが現れてもおかしくない。インスピレーションが掻き立てられる」
そんな真面目なふたりの会話を混ぜっ返したのは、立派な体躯の老人である。
いや、混ぜっ返すという意図さえ老人にはない。
心の底から思っていることを述べているだけなのだ。
それにしても奇妙な男である。
恵まれた骨格と筋肉が身につけた野良着というか作業着を内側から盛り上げている。
袖からのぞく掌も指もごつごつとして、鍛冶屋か、さもなければ歴戦の戦士のもののようだ。
しかし身に帯びるのは簡素な短剣と薪割り用のマチェットのみ。
白いものが混じり始めてはいたが豊かな頭髪はもじゃもじゃで、鳥の巣のよう。
クシなど生まれてこのかた通したことがないかに見える。
しかも男が跨がるのは貴賓用、それも姫君のための小馬である。
乗馬は得手ではないのだ。
その男が馬上で両手を広げてはしきりに感嘆の声を上げるさまは、滑稽を通り越して場違いですらあった。
「殿下、あの者を連れてきたのは間違いだったのでは」
「勝手についてきたのだ。天才のすることはわたしにはわからん。ただ、彼が間違いなく天よりギフトを与えられた者だということはわかる。そして天才は己の才能を許されたとき最大の《ちから》を発揮させるものだ。好きにさせるほかない」
アスカが呆れ半分、諦め半分にも言う。
「殿下、そしてアテルイ殿。いかがです、あの泉にかかる枝ぶりの美しさ。光が生み出す神秘のヴェール。閃きましたぞ。あすこでおふたりにモデルになっていただけたら、きっと後世に残る裸婦画が生まれることでしょう」
先を行くふたりから遅れること十数メテル。
追いつこうなどとまったく思わぬ様子で馬を止め、珍奇な老人が真面目な口調で言った。
アスカたちが無視を決め込んでいるのに気がついているのかいないのか。
しばらくその場にたたずんだあと、また小馬に跨がったままついてくる。
めげた様子など微塵もない。
そう、この予定にない随伴者は、自分が望まれていないなどと考えもしないタイプの人間なのだ。
「やはり、間違いだったのでは」
大事なことなのでアテルイが二度、言った。
「どんな思いつきも言うのはタダだ。兵たちの前でないなら好きにさせろ」
野外でいきなりヌードモデルになってはどうかと大声で提案され、アテルイは赤面しつつも目をつり上げた。
アテルイは男に肌をさらすなど夫か夫となるべき相手以外にはもってのほか、という戒律を厳格に守る部族の出である。
全裸になれ、などという不当な要求については即刻物理的意味での実力行使で応手するタチだ。
いっぽう、そこまで厳格でないアスカも別の意味で溜め息をついた。
もし、兵士の前でいまの発言が為されたなら、アスカが止めるまもなく老人の頭と胴体は永遠の離別を体験することになったであろう。
アシュレとはまたタイプの大きく異なる天才相手に、ここしばらく、さすがのアスカも振り回され気味ではあったのだ。
男の名はエルシド・ダリエリ。
マエストロ:ダリエリ。
そう、かつてトラントリムでアシュレたちと邂逅した偉大なる芸術家にして発明家が、アスカたちのお忍び旅のよけいな同伴者だった。
「せっかく殿下とふたりきり。ひさしぶりの小旅行を満喫できると思っていましたのに」
「しかしこの森は不思議なところだ。いたるところに石柱がある。頽れたものがほとんどだが、基部を見るかぎり数十メテルの高さがあったことは間違いない……」
アテルイのぼやきなどどこ吹く風。
奥まった眼窩と天を向いて伸ばし放題になった眉毛の下から、巨匠が指摘した。
「ん、ああ、そうかそうであるな。言われてみれば」
その指摘に馬を止めたのはアスカだ。
振り返ればダリエリは小馬を飛び降り、件の苔むした石柱群を擦ってはコケや地衣類を引き剥がしにかかっていた。
「ダリエリ殿! あまり我らの痕跡を残されるのは困ります。今回の旅がお忍びなのは、万が一にも敵方に我らのことが悟られてはならぬから。いかに我がオズマドラに年貢金を支払う立場とはいえ、条約上は独立国家。ここはもうビブロンズ帝国の領土なのです。国境を侵しているのは我らのほうなのですから!」
「見なさい、おふたりとも、これを。イクス教のものではない。もっと古い時代の……しかし、アガンティリス期のものでもない……あえて言えばこれはアガンティリス滅亡とイクス教やアラムの教えの成立の間にあった暗黒時代のものではないのか?」
老人が声を潜めたのはアテルイに叱られたからではない。
その証拠に、止めろと言われたのに手だけは素早く動いて、次々とコケやらなにやらを引きはがしていく。
驚いた暗がりの虫たちが逃げ出して行く。
そのなかには毒を持つムカデやクモも混じっているように見えるのだが、老人はそんなもの眼中にないという様子で石柱群をほじくり返すのに没頭している。
「殿下、この者はこの場に置いて参りましょう」
「うむ。だが、蛇の巫女の指定したる場所はこの広大な森というだけであって、その後、どこへ向かえと言われたわけでなし……」
アテルイの提案に若干にしても魅力を感じたのだろうか。
アスカが、うむんと唸ったときだった。
 




