■第四四夜:逢瀬の夜
さて、こうしてヘリアティウムに到着したアシュレたち戦隊が、数日を投じて準備を整えつつあったころ。
ヘリアティウムの西北、二〇〇から一〇〇キトレルのあたりをまるで遊行でもするようにのんびりと移動しつつ練兵と再編成を繰り返していたオズマドラ帝国の主力部隊約二〇万が、ゆっくりとした足取りのまま、しかしこんどは目的地を明確に定めて進軍を再開した。
これまで目の上のたんこぶのように、オズマドラに牽制をかけていたトラントリムの夜魔の騎士:ユガディールは死んだ。
そして彼を盟主とした小国家連合は結束力を失い、ほぼ同時に瓦解。
もはやオズマドラの進軍を阻む者はなにもない。
南トランキア地方の平原にアラムの楽の音を響かせながら、まるで祭事のごとき行軍が始まった。
これは名目上はイクス教エクストラム正教の最高指導者・少女法王:ヴェルジネス一世の十字軍発布に対するアラム教圏とその属国に向けた防衛行動であるとされたわけだが、オズマドラ皇帝:オズマヒムの狙いが最初からヘリアティウムとそこに眠る魔道書:ビブロ・ヴァレリにあったことは後の資料から明白である。
呼応するように今度は併呑したトラントリムからも、第一皇子:アスカリヤの率いる砂獅子旅団以下約五〇〇〇がこちらは疾風怒涛の勢いで南下し、ビブロンズ帝国の国境線ギリギリ、黒曜海南端部に布陣を終えた。
国境線といっても現在のビブロンズ帝国の国土はオズマドラ支配地域に浮かぶ絶海の孤島のようなもので、攻略目標である帝国首都:ヘリアティウムとはもう目と鼻の先である。
海路を行ったアシュレたちに遅れることわずか数日。
いかに主力部隊の四十分の一の規模とはいえ、これは驚異的な進軍速度だということも記しておこう。
オズマドラ軍到着の知らせにビブロンズ帝国の住民たちは震え上がったが、アスカリヤは豪勢な天幕を張り、兵や将たちに休息を与えただけで具体的な軍事行動には及ばなかった。
それはもしかしたら父王に疎まれた気まぐれな皇子が、子飼いの軍団を率いて物見遊山に現れたかのようにさえ見えかもしれない。
偉大な大帝の陰に隠れた不遇な皇子、というのがこの時点での西側諸国の平均的なアスカリヤに対する評価である。
そして、たしかにこのとき本人はといえば、お忍びではあるがヘリアティウム近傍でもっとも古き水源であるグラフベルドの森へと数名の部下を伴って赴いたのである。
もちろん、休息を取る兵たちの後ろから遅れて到着した最新鋭の大砲群を見れば、今回の行軍が遊びでないことは一目瞭然ではあったのだが──古き森をお忍びで、さらには越境までして訪ねる理由だけはごくわずかの例外を除いて、側近たちにさえ明かされなかった。
さて、グラフベルドはその内側にこんこんと湧き出す清らかな泉をいくつも抱える広大な森である。
ジレルの大水道とは大きさも長さも比べるべくもないが、やはり古代アガンティリス期から受け継がれた巨大な水道橋が、数千年の時を越えて命の水をヘリアティウムに供給し続けてきたという歴史を持つ。
アスカリヤはこの豊かで澄んだ泉を自軍の兵たちの飲料水として利用しようとした……わけではない。
いやその思惑もあったであろう。
あるいはやがて来る帝国本隊のための検分であったと考えることもできる。
だが、彼女がいま腹心であるアテルイだけを伴いこの地を訪れた真の理由は、そこにはなかった。
きっかけはアスカが布陣を終えた晩に遡る。
国境近くの海沿いに幕舎の建設を完了するとアスカは兵たちに休息を与え、ここで大帝オズマヒムの到着を待つことに決めた。
ふたつの帝国の運命を決める大戦に遅参はならじと疾風の速度で駆けつけてみれば、本隊は布陣はおろかいまだに姿かたちも見えぬありさま。
それどころか宣戦布告さえ為された様子さえもなく、確認できたのはビブロンズの国境にある小さな城砦の上で慌てふためく数人の見張りたちの姿だけだった。
時を置かずして進軍の理由を問い質しに現れた砦からの使者たちに対し、アスカは面会を許さず「渡り鳥の群れを見にきただけである。大仰なもてなしは不要」との解答だけを与え、その言の通り将たちに宴を催す許可を与えた。
これは面会を求めるなら最低でも全権委任大使をよこせ、という無言の政治的圧力でもある。
政治の技術とは、なるほどこういう場面にも問われるのだ。
さらに余談だが、この時期のヘリアティウム近傍は、たしかに北へ向かう渡り鳥たちの飛翔ルートであることも間違いなかった。
朝映え夕映えに連なるその巨大な翼の群れは、信教の別を問わず神の奇跡を感じさせずにはおらぬほどに素晴らしいことでも有名であったのだ。
同じく渡りを行う獰猛な猛禽類を避けるため、ツルやコウノトリなどの大きな鳥たちは海峡の真上を選んで飛ぶ。
その様子は翼で作られた天の國に続く道のようでもあり、ヘリアティウム周辺で暮らす人々にとっての風物詩である。
その見事さといえば、同道した兵士たちが歓声を上げてしまうくらいには素晴らしい。
しかし、そうは言っても美しさで腹は膨れないし、兵士たちは同じ美なら美酒か美女かを求めるものだ。
日が沈めばアラムの神も多少の無礼講はお認めになる。
どこから湧いたのか葡萄酒に喉を潤した兵たちの詩と軍楽が遠く近く響く薄暗い天幕の奥で、アスカはアテルイを抱いていた。
しなやかで真っ白なアテルイの背中には玉の汗が浮かび、天幕を照らし出すランプの明かりに照らされて宝石のようにキラキラと光っている。
「昨晩は殿下に許されざる狼藉を働きましたこと……どうかご容赦ください」
アシュレに心の内をすべてさらした翌日、給仕に現れたアテルイは平伏して謝罪を述べた。
アスカに「素直になるクスリ」を盛った件でのことだ。
あの一件がなければアスカは父:オズマヒムと黒翼のオディール──オディルファーナ・モルガナ率いる真騎士の乙女たちのことを、アシュレにさえ打ち明けられないままであっただろう。
結果としてアテルイとエルマの共謀は、ヘリアティウムに潜入するアシュレたちに重要な情報をもたらしただけでなく、アスカの心をも救うこととなった。
アスカ自身がそう思うのだ、まちがいない。
しかし、それと側近中の側近でありながら皇子に一服盛った件は別会計の話だ。
いかに必要であったとはいえ、決して許されぬこと。
すくなくともアテルイとしては、そうらしかった。
たしかにこれまでのアテルイであれば、自ら斬首を乞うていたレベルの話だ。
だが、その夜のアテルイは違っていた。
深い謝罪を示してはいても、死を賜ることを望んではいなかった。
アスカにはその気持ちがよくわかった。
会いたいのだ。
生きてふたたび。
アシュレに。
かといって罰されなければ、今度はもう主君であるアスカと目を合わせることさえできないというアテルイの忠節もまた、よくよく理解できた。
だから命じた。
休みなく連日の夜伽を。
耐えられぬという意味で、アスカとアテルイはこのとき同じ想いを味わっていたのだ。
夫であり、心を通じ合わせた戦友でもある男──アシュレの不在に。
それを埋め合わせるように恋人同士は互いを求めた。
もとより鷹が狩りの獲物を玩ぶような愛し方をするアスカであったが、この数日のそれはことさらに激しかった。
こうしてアテルイは毎夜、息も絶え絶えになるまで追いつめられながら、またそれを望んだ。
そんな晩のことだ。
シルク張りのクッションにもたれ、逢瀬の余韻に震えるアテルイの背中を肴にして、アスカは葡萄酒を傾けていた。
と、不思議な気配を感じた。
周囲に満ちていた兵たちの宴の気配が遠のくのも。
ひいいいいいいん、と耳鳴りが聞こえたかと思うと、杯のなかの葡萄酒がさざ波を立てた。
 




