■第三十九夜:遠吠えと雄叫びと
「なんだろう?」
なにか聞こえたような気がして、アシュレは浴槽から半身を起こした。
温かな湯がたっぷり張られた浴槽には、よい薫りのハーブの束が浮かべられている。
ヘリアティウムの水事情は件の水道橋と街のあちこちに設けられた泉亭のおかげで良好だが、それでもこれほど大量の真水・それも天然の温泉を潤沢に使えるのは、ひとえに土蜘蛛の姫巫女たちのおかげだ。
「わたくしたちが呪術を適切に執り行うにも、禊は重要な役割を果たしますの」
とはエルマの言である。
思えば彼女は巨大な水の魔物・ヘリオメデューサ:タシュトゥーカをしもべとして従えていたほどの術師なのだ。
タシュトゥーカのあの巨体は呼び出されるまでは時空間を捩じって形成される閉鎖空間に押し込められていた。
戦鬼の猛者たちですら二の足を踏む獰猛な水蛇を捕獲し調教しただけでなく、生きたままいつでも召喚可能な状態で異空間に閉じこめておくというのが、どれほどとてつもない技術なのか。
いくら召喚術に疎い者でも、実物を間のあたりにしたあとでは理解せざるを得ないだろう。
それに比べれば同じく異空間にいくらか源泉のストックを確保しておいて小出しにするくらいのは、たしかにエルマにとって造作もないことなのかもしれなかった。
もちろんいまアシュレがその恩恵にあずかっているのは異能ではなく、エルマの作り出したアイテムの効果のほうである。
美しい空色の貴石たち。
呼び水を張ったところに結印して投じれば、あっというまにくるぶしまでの水たまりが潤沢な湯量の温泉に変わった。
「長距離侵攻用の生活を確保するためのアイテム群ですの。土蜘蛛の氏族のなかでも希少かつ、だいぶ高価な品ですけれどね?」
うずらの卵ほどもあるアクアマリンをかざしながらの説明に、アシュレは感心したものだ。
清潔な飲料水としてだけでなく、寒さをはねのけ傷と疲れを癒す温泉としても利用可能な温水がどれほど貴重かは、軍事に身を置くものであれば骨身に染みている。
しかもエルマが用意しておいてくれたのは地下世界でも最高レベルの源泉なのである。
身を浸した瞬間、アシュレはそのすばらしい泉質と効能に思わず溜め息をついた。
そして、それらを惜しみなく投じても自分たちの旅の疲れを癒すほうが優先──つまりそれほどの局面に居るのだという実感に再度、震えた。
土蜘蛛の姫巫女の姉の方:エレのささやきを思い出す。
「注意していろよ。固くなる必要はないが……この街にはあちこちに妙な連中が潜んでいるようだ。まあ、その筆頭はこのジレルの水道橋とその行き着く先──つまり大宮殿の廃虚の底に通じる地下貯水池の主=大海蛇:シドレラシカヤ・ダ・ズーだがな」
市中を視察しておいたら? と例の軽ーい口調でサジェスチョンしてきたイズマに従いヘリアティウム市内を散策したアシュレたちだったが、まさかの発言に飛び上がったものだ。
「えっ」
「いや、居るだろうなとは予測して来たのだろ? ノーマンやバートン殿の報告と件の蛇の巫女との因縁は聞いていたんじゃないのか?」
たしかにアシュレたちを探し出す船旅の途中で、ふたりはシドレラシカヤ・ダ・ズーの襲撃を受けてはいたが……。
「あの水道橋は遠くトランキア地方から水を引いている……つまり、トラントリムの山のなかからだ。どれくらいむかしからこの国と彼の国と蛇の巫女:シドレラシカヤ・ダ・ズーが通じていたのかはわからんが。これほど明確な物証はあるまい。おまえも見ただろう、水道橋の頭頂部にはめ込まれた青く長いタイルの列を。あれは単なる装飾ではない。シドレラシカヤ・ダ・ズーの象徴だ。おかげであの巨大な水道橋は数千年の時の流れを、決定的な破壊を免れて超えることができたのだ。手を出したらどうなるか。そういう警告としての装飾品だったというわけだ」
「じゃあ」
「ああ、この國と大海蛇:シドレの因縁は恐ろしく深い。文人皇帝:ルカティウスとの繋がりは濃厚どころか明白となったわけだ。そして……おそらくはシドレ本人にも過去を暴く魔導書の栞が挟まれている可能性が極めて高い。イズマさまはそう仰せだ」
加えてあとひとりくらいは、栞が挟まれた人間がこの街にはいるだろうよ、と付け加えてエレは話を締めくくった。
おさまらないのはアシュレのほうだ。
「え、え、じゃあ、いまボクらは彼女やその正体不明の敵の前に……姿をさらしてしまっているんじゃあ」
動揺する青年騎士に、エレはウィンクして応じた。
「それも策のうちさ。イズマさまに言わせれば見せ技なのだそうだ。どんなに耳目が多くとも情報を精査し、判断を下すのはひとり。ならば対処が難しいくらい案件を増やしてやる、とな」
だから、とエレはなにが楽しいのか笑みを広げた。
「だから、充分に警戒しながら楽しめ、アシュレ。これがイズマさまの国取りのやり方なのだ」
わけがわかりません、という顔をしたアシュレの頭を土蜘蛛の姫巫女は弟にするようにかいぐった。
その場はイズマの奇策とエレの笑顔、姉を思わせる掌のぬくもりにわかったような気になってしまったアシュレだが、いまになって「警戒しておけ」という言葉を思い出した。
これまでの道程で襲いかかってきたインクルード・ビーストのような連中もいる。
いかにそうそうたるメンツが揃っているとはいえ、このアパルトメントが完全に安全かどうかはまでは、戦隊のだれにもわからないことなのだ。
それ以前にオズマドラの軍靴の音は、いやおうもなく高まっている。
国境線ギリギリ、黒曜海の南端部にアスカが率いる先遣部隊の到着が確認されたのはつい先日のことだ。
ヘリアティウム側が急遽派遣した大使は面会も許されず「遊行に参った。渡り鳥を見たい」との返答で、一蹴されたという。
たしかにいまだオズマドラからの宣戦布告は為されたわけではなく、両国の関係は紙面の上ではいまだに友好条約を結んだ国家同士のままだ。
アスカリヤの遠乗り好きは有名だったし、実際に彼らは沿岸地域で宴を開くなどして遊んでいる。
だが、それでも完全武装の戦闘集団であることにかわりはない。
アガンティリスの時代からこの文明の十字路にあり続けた“もうひとつの永遠の都”の市民たちにも、さすがに緊張と動揺が見られた。
街路を行く人々の、港の荷の積み下ろしの慌ただしさはその現れだ。
そんな状況下で、さきほどいずこからか聞こえてきた叫び声は、なにやら獣じみてもいた。
「気になるな。シオンたちは……大浴場か」
アシュレは胸騒ぎを感じながら湯船から立ち上がりかけた。
だがそのとき、浴室のドアがノックされ返答より早く開かれた。
「えっ」
思わず棒立ちになるアシュレの眼前にあらわれたのは──どういうわけか肌着姿のスノウであった。
「ひゃっ」
「うわあああああああああああっ」
ちいさな悲鳴とともに両手で顔を覆いうずくまったスノウと対照的に、アシュレは叫びながら湯船に没した。
ハデに水しぶきが上がる。
「なんで、なんで、なんでキミがいるんだ、スノウ!?」
浴槽に潜ったときに水を飲んだアシュレが、背中を向けたまま咳き込みながら訊いた。
「えっ、だ、だってエルマが……騎士さまの背中を流すのは……従士の仕事だって」
手にした海綿で口元を、腕で胸元を隠しながらしどろもどろな言い訳をスノウがする。
「だ、だからって、素直に聞いちゃダメだろっ! き、キミはまだ未成年で、しかも女のコなんだぞ!」
「で、でも騎士見習いだし! 騎士さまのお世話がキチンとできないコは、立派な騎士にはなれないって」
「いや、そんなのカンケーないから! というか騎士の身の回りの世話にこんなの含まれてない!」
と言いながら、アシュレが思い出していたのは幼なじみのユーニスのことだった。
彼女の献身を思い出し、前言撤回するかどうか、一瞬にしても迷う。
そのためらいをどう捉えたのか、スノウは言い募った。
ほらやっぱり、という感じで急き込んで。
「カ、カンケーあるっ! カンケーありますっ! わたしはちゃんとしたいの! ちゃんと……アシュレに……騎士さまに、ご主人さまに認められたい!」
なんでこんなに猪突猛進な上に、食い下がってくるんだ。
アシュレは入った水のせいで痛む鼻に顔をしかめながら思った。
これはあれだ、エルマさんがなにか絶対になにかとんでもないことを吹き込んだんだ。
そう確信しつつ。
だが、それは半分は正しく、半分は間違っていた。




