■第二夜:生還者たちの乾杯
ノーマンに引きずられるようにして、ある意味で致命的な箇所に打撃を受けたイズマは去っていった。
一難が去ったのである。
よかった。
ばたん、と重い音を立てて、扉が閉められた。
イリスがすかさず施錠し、イスやテーブルで厳重なバリケードを築く。
それから、アシュレのベッドに腰かけた。
「ほんとっ、失礼なヒトたちっ」
なにかをごまかすように急きこんで言う姿がかわいらしくて、アシュレは思わず吹き出してしまった。
他人の部屋に無断で立ち入り、それも部屋どころかベッドに潜り込んできたというのなら、イリス本人が先駆け、主犯格だったからだ。
アシュレの笑いの意味を、彼女だって充分に分かっていたのだろう。
まだ半身を起こしたままのアシュレに背を向け、看護服のイリスは硬直した。
その姿に、アシュレはふたりの女性を重ねてしまった。
似姿は、間違いようもなく滅亡したイグナーシュ王国の姫……いや、かつての同僚・聖遺物管理課が誇った才媛――アルマステラのものだった。
男女が密室でふたりきりで会うことは、肉体関係があると考えられて当然の世間で、アルマとアシュレは色恋沙汰ぬきで私室で親密に語り合った仲だった。
はるか古代に憧れるアシュレの考古学者としての興味を理解し、同じ目線で話し合える唯一の友だった。
だが、その仕草には、どうしようもなく愛しいひとの面影があった。
儚げにうつむく背中は、厳しすぎる階級差、主従の関係を破り、全てを投げ打つ覚悟でアシュレの胸に飛び込んできた、あの日のユニスフラウ——ユーニスのものに他ならなかった。
いますぐ抱きしめたい愛情が、アシュレを苛んだ。
アルマとユーニス。
運命の岐路で追いつめられ、融合とそれによる生存を選んだ、ふたりの女性。
アシュレは、あのイグナーシュの奈落の底、巨大な聖遺物:〈パラグラム〉の中心で、彼女たちに残酷な言葉を浴びせたことを思い出した。
『なぜ、死なせてやらなかったんだ。彼女がまだ、ヒトであるうちに』
それは、無意識の弾劾だった。
ヒトならざる秘蹟の業を用いて生き延びることへのおぞましさ、嫌悪感から来る感情的な非難だった。
それは、ヒトであること、ヒトとして留まることを無条件に許されていたアシュレの傲慢――思い上がりだったと、いまならわかる。
ふたりの融合の結果としてのイリスに、いまこうして間近で再会したとき、アシュレの胸に去来したものは、あの時とは真逆の、感謝にも似た気持ちだった。
うれしかった。生きていてくれたことが。
ぼろり、と涙がこぼれた。
女のコのようだとユーニスに笑われてしまう。
アルマに軟弱な男子と思われてしまう。
それなのに涙が止められなかった。
偽善でも欺瞞でも、それでもなお、アシュレには彼女が、いまここにいてくれることがうれしかった。
アシュレの様子に、振り返ったイリスが慌てた。
「どこか、どこか、痛むんですかっ」
アシュレに取りすがり、本気で心配するイリスにアシュレは泣き笑いの表情で返す。
「痛いよ」
「どこ、どこが?」
「心が、心が痛い。まだ生きてる証拠だね」
言いながら、アシュレはベッドから立とうとした。
こんなことを言ったって、あの事件の記憶がないイリスを戸惑わせるだけだと思いながら。
「キミが無事でうれしい。生きていてくれて、うれしいんだ」
間抜けなアシュレのセリフに、イリスの頬が朱に染まった。
足取りのおぼつかないアシュレをイリスは献身的に支えようとする。
アシュレは恐縮したが、イリスは身を離さなかった。
「汗が臭うはずなんだけどな……ぼくは……何日くらい寝込んでたのかな」
「いまは四日目の朝です。パラディン:バラージェ。乗り込まれてから、すぐに倒れるように眠りにつかれて、そのまま」
「名前——アシュレで」
間近で目を見てそう言うと、イリスははにかんで復唱した。
「はい、アシュレさん」
「さん付けは、なし。これ、前にも言った?」
ふふっ、とイリスが笑う。
アシュレはイリスから立ち上る石鹸の清潔な香りに眩暈した。
瞬間、ぐうらり、と床がうねった。
あっ、と思ったときには遅かった。
アシュレが体勢を崩し、つられたイリスが倒れ込む。
男としては小柄なほうだとはいえ、アシュレの体重は六十ギロス。
イリスとの体重差は下手をすると十ギロス以上。
とても支えきれるものではない。
瞬間的にアシュレは身を捻る。
倒れ込む方向を制御しようとした。
できれば自分が下になりたかったが、うまくいかなかった。
ふたりはベッドに倒れ込んだ。
柔らかくて温かいものにアシュレは受け止められた。
イズマの乗騎である脚長羊の毛皮もそうであったが、いまアシュレが抱き止められたやわらかさには、脚長羊にはなかったものがあった。
それをあえて言葉にするなら官能的な甘さ、とでもいうのか——。
イリスの胸の谷間だ、と気がつくのにそれほど時間はかからなかった。
慌てて身を起こし、謝罪しようとして、失敗した。
離れられなかった。
アシュレはふたたび、その深い渓谷に捕われてしまった。
イリスがアシュレの頭部を抱きかかえていたからだ。
どれぐらいそうしていただろう。
数十秒以上、ふたりは無言で抱き合っていた。
潮騒と海鳥の声が聞こえた。
それから早鐘のように打つ心音。
イリスが腕を緩めたのは、アシュレがタップしたからだ。
窒息して。
「ご、ごめん」
「わっ、わたし、こそっ」
イリスに支えられ壁に手をつきながら、アシュレは這うようにして船室を出た。
上級士官用の個室を、ノーマンをはじめカテル病院騎士団の面々は提供してくれていた。
エポラール号。
ノーマンの言葉を信じるなら西方世界最速の船ということになる。
二段櫂と三本マストを備える快速船だ。
イグナーシュの領主、かつての大公・降臨王:グランとの激戦から一日後、アシュレたちはイゴ村の墓守たちに別れを告げ、カテル病院騎士団領:ファルーシュ海の東の果て、カテル島へ向けて出帆した。
聖遺物:〈デクストラス〉の正体を知り、父を謀殺した法王庁の思惑に肉迫し、シオンやイズマといった忌むべきとされてきた人類の仇敵たちと共闘したアシュレは、間違いなく異端者として審問官に追われる立場になるはずだった。
ノーマンはそれに先んじるカタチで脱出経路を用意してくれていたのだ。
カテル病院騎士団を束ねるグレーテル派の大司教:ダシュカマリエ・ヤジェスの予言によって。
アシュレは乗り込みを終えた途端に、倒れた。
不眠不休で駆け、闘い続けたつけが一気に襲ってきたのだ。
イゴの村の霊泉で戦塵を落としたあとでよかった。
歩を進めるたびに悲鳴を上げそうになるほど全身が痛かった。
打撲とねんざ、重度の筋肉痛。小さな切り傷や擦り傷など数えるのが不可能なほど全身がダメージを受けていた。
最後のグラン戦をアシュレは上半身裸で戦い抜いたのだ。
細かい刃こぼれが散り、高熱の粒子飛沫でひどい火傷ができていた。
「食堂ですか?」
「さきに、汗を流して、身だしなみを、整えなきゃ。し、紳士としては」
「お手伝いします」
エポラール——鯱という恐ろしげな名とは裏腹に、カテル病院騎士団の誇る快速船は病院船としても充実した機能を備えていた。
「いいのかな、真水をこんなに沢山、使ってしまって。船では貴重なんじゃあ」
無理もなかった。荒廃したイグナーシュでは真水を得ることに大変な労力を払わなければならなかったからだ。
アシュレのその疑問に、イリスが答えてくれた。
「わたしも驚いたんですけど、この船、大型の蒸留器をふたつも持っていて、そのうち片方で海水から真水を造れるんですって」
すごいな、とアシュレは大仰に驚いて見せたが、実際のところ、それはあまり大げさなリアクションとは言えない。
蒸留器は西方世界では多くの場合、イクス教の修道院だけが持つ過去の遺産だった。
濃度の高いアルコールを得ることのできるこの機材は、多くの疫病の流行と蔓延に対して決定的な抑止力となることもあり、また各修道院門で調合される処方箋門外不出の霊薬の抽出にも、必要不可欠な利器であった。
一般民衆はその存在すら知らぬ、秘匿された機材だったのだ。
それを船に搭載するなど、それだけでカテル病院騎士団が保有する医療レベルと財力の潤沢さが伺えた。
その水が行水に使われた。
大きな桶に座し、ハーブを放り込んだ水で全身を洗う。
生き返る気分とはこのことだ。
もちろん、アシュレが大仰に声をあげたのには、別にもうひとつ理由があったのだが。
アシュレの身体を洗う柔らかな手が、イリスのものだったからだ。
筋肉痛がひどすぎて、自前で洗えないとはいえ、緊張する状況だった。
息がかかるほど近くにイリスの美貌がある。
先ほどの寝言の件もあった。
お互いに聞きただすわけにもいかぬデリケートな問題を、寝起きに抱え込んでいたのだ。
アシュレはイリスの夢の内容を、イリスはその発露である寝言をアシュレに聞かれていなかったかどうか、という。
つねに喋っていないと、おかしな雰囲気になりそうだった。
「さっきは、あの……ごめん。まだ、身体がうまく動かせなくて」
「ぜ、ぜんぜんっ、というか、わたしこそ、その……抱きしめちゃって」
ぜんぜん、ぜんぜん、嫌じゃありませんでしたから。
ぽしょぽしょ、とイリスがつぶやき、アシュレは話題の方向を振り間違えたことをまだ気づけずにいた。
あはあは、と不自然な笑いがバカのようにふたりの口から漏れる。
いろいろなモノが丸出しだった。
「それより、アシュレが不快じゃなかったんなら良いんですけど。……具合、悪くなかったですか」
「悪いなんて、とんでもないっ。すごく、すっごくよかったよ、うん」
馬鹿者列伝なる書物を編纂したら、そのなかで、かなり良いポジションをキープできそうなアシュレのリアクションに、イリスは頬を染めた。
それから、小さく耳打ちした。こちらも馬鹿正直に。
「ま、またのご利用をお待ちしています」
あやうく、無精髭を剃っていたアシュレの手が滑るところだった。
※
戦時には軍議を行うこともある士官用食堂でイズマは待っていた。
「おー、さっぱりしたね、小英雄!」
真っ昼間から呑んでいた。
エールにワイン、それも結構な上物だ。
「なーんか、好きに飲み食いしていいって。次々出てくんだよ。すげー太っ腹。え、カテル島ってワインも名産なの? すげーね」
給仕を担当してくれている少年・少女はいずれも従騎士位、つまり戦時は騎兵の随伴歩兵として戦う役割だ。
カテル病院騎士は決して男女差別をしない。
裏を返せば女性であろうと、志願したなら武器を握るポジションに着く必要があるというわけだ。
成人を迎える前の少年・少女を弩兵、あるいは看護兵として乗船させ経験と見識を深めるやり方は、ミュゼット商業都市国家同盟の盟主:ディードヤームでも採られている。
じつに先見の明ある育成法だとアシュレは思う。
「アシュレはまず、こっちです。三日ぶりの食事なんですから、はい、エンドウ豆のポタージュ」
美しいグリーンの液体がさじに入って口元へ運ばれた。
豆とバター、青々としたオリーブオイルの良い香りが鼻腔をくすぐり、お腹がぐう、と鳴る。
どうぞ、と勧められたそれに口をつけるのをアシュレは躊躇した。
なんともいえず、下衆な視線がふたりを見ていたからである。
言い表しようのないニヤニヤが目の端に入る。
いわずともわかる、イズマだった。
それなのに、はい、とイリスに急かされた。
躊躇った理由はもうひとつある。
熱くないかどうか、イリスは自分の唇にさじを当てて確かめた。
それが嫌なのではない……男としてはむしろご褒美サプライズ(?)なのだが、衆人環視の状況では刺激がキツすぎる。
イズマは給仕の少年や少女を呼び寄せて煽っていた。
シオンというブレーキがないせいでやりたい放題だ。
ままよ、とアシュレは目をつぶって食べた。
味などわかるわけがないと思ったが、感動的に旨かった。
「イリスちゃんの手作り? やっべー、うめーわ、これ、マジで」
同じものを食べたイズマがそう感想する。
「だれにでも、すぐにできる簡単なリチェッタですけど、ね」
「なんか、隠し味的なもんが入ってるの?」
「いいえ、なんにも。裏ごししたり、火加減を見たり、そんなくらいです。
お塩は最後の最後、オリーブオイルの直前に。ぜったいに最初にしてはダメ。豆を茹でるときも塩気は厳禁。
これは野菜を使うときも、お魚、お肉のときも同じです。必ず真水で。
あ、お魚だけは冷水から煮てはダメですよ? ぐらぐらにしたとこに入れてください。こんなこと、どこのマンマもやってますけど、ね」
素材の良いところを引き出してから、味は付ければ良いんです。
「絶対それだけじゃない気がするよ。麻薬的にうめーもん。なんか、女のコ的な愛情とか入れてるからじゃねーかなー? 汁とか」
「し、汁ってっ、なんですかっ」
それはイズマ的には言えないっ、とイズマはおかしなシナを造った。
「だって、アシュレの食べてるヤツは、言うなりゃ、イリスちゃんの唾液フレーバーってことでしょ」
「だ、だえき、フレーバーッ???」
「だって、いまスプーンに、チュッ、てしてたもん。みんな、見てたよねー」
従騎士の少年少女たちがはにかみつつも、アシュレたちのやりとりを見ていた。
異性に興味津々のお年ごろの援軍を受け、イズマのイケナイ寝言はとどまることを知らない。
イリスは真っ赤になって、さじをスープ皿にもどした。
アシュレはすかさずそれを奪い取り、自分で食べた。
イズマの下衆な修飾はともかく、麻薬的にうまいということには全面的に同意だった。
「お、おかわり、ください」
はいっ、ただいまっ、と赤面したまま席を立ち、給仕たちにまかせず厨房へと向かうイリスの後ろ姿を見ながら、アシュレはまたユーニスのことを思い出していた。
イリスの世話焼きの部分は、ユーニスの仕草にそっくりだったのだ。
ちくり、と胸の奥が痛んだ。
「健気で、かわいいじゃないの。ちゃんと受け止めたげなよ。もちろん、キミが受け止められる分だけでいいけど、さ。余った分は、まかせなさーい」
何気なくイズマが言う。
視線を戻すと、イズマもイリスの姿を視線で追っていた。
「たぶん、アルマステラって姫さんが、そのひど過ぎる人生のなかで押さえ込んでいた——だれかをほんとうに好きになって——そのヒトへぶつけたかった愛情が、ユーニスちゃんの《魂》……そんなものがヒトにあればだけど……と融合することで解き放たれて、あんな体当たりの行動として発露してんだろね」
起きているイズマから不意打ちでまともな発言を聞いたせいで、アシュレはしんみりとなってしまった。
「しらふで、珍しいですね」
「なにそれ、どういう意味? 呑んでるよ、これ、三本目」
ああ、そうですか、とアシュレは思った。
眼前に銀のゴブレットが置かれ、芳香を放つ赤ワインが無造作に注がれる。
「おはよ、アシュレ。それから、おかえり」
裏表のない表情でイズマが笑っていた。
あの漆黒の夜をともにし、白刃を潜り抜け戦い抜いた戦友と、ろくに祝杯も上げていなかったことに気がついた。
これは遅れてきた戦勝祝い、打ち上げなのだ。イズマはずっと待ってくれていたのだ。
さみしかったんでしょう、というノーマンの感想が脳裏を過った。
不意に目が潤んできてしまった。
「いただきます」
アシュレも笑顔で答えた。
控えめにゴブレットをぶつけ合い乾杯した。
たぶん、酔いつぶれるまで帰してもらえないんだろうと、観念しながら。




