■第三十五夜:水道橋を見上げて
※
「すこしはイズマに追いつけたつもりだったんだけど……ダメだ、ぜんぜんあの発想には至れないよ」
数日後、アシュレは妻役のシオンとその妹と設定されたスノウ、それに案内人としてのエレをともないヘリアティウムの街を下見を兼ねて散策していた。
どんなに変装を施そうと、絶世の美女と言ってもよいほどに見目麗しい女性陣を引き連れての散策というのは人目を引くものだ。
しかし、ここではすこし事情が異なっていた。
国家人口のほぼすべてが一都市に集中しているヘリアティウムの街路、それも商業区のそれはかなりの人ごみだ。
東西貿易の要でもあるこの街には、雑多な人種と職業の人間が入り交じる。
さらにそこへ、漠とはしていながらも迫りつつある戦時の匂いが加わって、一種奇妙な高揚感が醸成されている。
足早な人々の群れは商売に、あるいは自分自身の身の振り方に忙しく、アシュレたち一行に目を止めるヒマなどないという感じだ。
ヒトの波を掻き分けるようにしてアシュレたちは進み、丘を成す都市の中心部まで足を伸ばした。
ヘリアティウムは海峡に付き出した岬というか、半島状の地形に発展した都市である。
良港である深い入り江を挟んで東西に街区があり、そのなかでも歴史的な建築物が建ち並ぶのはいまアシュレたちのいる西側ということになる。
「そなた。完全な意味でアイツの発想に至ったときには、おつむのほうがきっとどうにかなっておるぞ」
雑踏のなかでアシュレのぼやきを聞きつけていたのであろう。
呆れた様子でシオンが言い返した。
「それはそうかもしれないけど……まさか、魔導書と皇帝相手に、こっちから直接に仕掛けるなんて考えつかないよふつうは」
シオンの言葉をどう捉えたのか。
アシュレは深々と溜息をついて眼前にそびえる巨大な水道橋を見上げた。
統一王朝:アガンティリスの遺産は圧倒的な偉容を誇っている。
ジレルの水道橋と呼ばれるこの巨大な建築物は、最大高三十メテルにも達する現存するなかでも最大級のシロモノだ。
さらに最大長に至っては数百キトレルに及ぶ。
これは遠くトランキア地方、つまり、トラントリム近隣の山岳地帯から水を引いてきているということになる。
水道橋はエクストラム周辺にもいくつかあるが、これほどの規模のものはさすがに現存しない。
数千年もの間、細々とした補修をされながらではあるが利用され続けてきた現役の……遺跡とは表現してはならない施設である。
「わかってはいたけれど……実際に目の前にすると、かなわないなって圧倒されるな」
「それはイズマの話か、それともこの水道橋の話か?」
嘆息するアシュレに、シオンが同じく数千年の時を経ていまだに現役で稼働する水道橋を見上げて訊いた。
ヘリアティウムの中心区画を成す小高い丘の間を縫うようにして貫く水道橋は、その最上部を美しく輝く青いタイルで装飾されている。
「どっちもさ」
シオンに答えながらアシュレはイズマの言いだした作戦を思い出している。
「手紙を?! ノーマンの署名入りの手紙を……ルカティウスの居室に置いてくる、だって?!」
あの晩、あまりのことにアシュレはイズマを問い質した。
そんなアシュレの剣幕に、にやーり、といつもの笑みを浮かべてイズマは返した。
「んだあよ。まあ、ノーマンくんの署名でなくてもいいけど……ああ、なんだっけ使ってた偽名」
「ヘルトマン。ヘルトマン・エルカイトスだ」
イズマの問いかけに、ノーマンは即答した。
それはかつて、アシュレたちの探索のためカテル島を旅立つときノーマンのために用意された脚本のなかでの名前だった。
ははあ、とイズマは笑いながらそれを書き留める。
なかなかよく出来た偽名だネ、とカテル病院騎士団の脚本家を褒めた。
「バートン爺ちゃんは?」
「ありましたが……ヘリアティウムに着いた直後に露見しておりましたな」
「まあ相手が過去を暴く魔導書じゃあしかたないよ。でも、それも逆手に取れるねえ」
「ちょっとちょっと、イズマ!」
抗議のつもりで立ち上がったアシュレを無視して進められていく策略の相談に、思わず声が出た。
ああん、とイズマが心外そうに応じた。
「なに? 質問があんのかい、アシュレ?」
「あるに決まってますよ。どういう作戦なんです? というか、なぜこちら側の存在をワザワザ告げたりするんです? せっかく敵の目が逸れてるのに?!」
アシュレの言葉にノーマンもイズマを見た。
さきほど、いま自分たちが置かれている状況は敵にとっての盲点だと確認したのは、ほかならぬノーマンである。
イズマの策はそれを台無しにするばかりか、取りようによっては宣戦布告をしにいくようなものだ。
それも国家相手に数人の戦隊でだ。
だが、そう告げるとイズマはあっさり肯定した。
「んだあよ」
「んだあよ、って……いや、そんな気軽に」
あまりにナチュラルなイズマの調子にアシュレは毒気を抜かれて立ち尽くす。
「気軽にって……気軽じゃないよ。それに国家相手の喧嘩なら、このあいだアシュレもしたじゃん。斬り込んで行ったでショ?!」
トラントリム攻略戦のことをイズマは持ち出してきた。
「いや、あれは……なんていうか、ユガディールとはホントに個人的な因縁もあったし」
「それは今回も一緒。ボクちんたちだってあるじゃない」
戸惑うアシュレにイズマは両手を広げて、ノーマンとバートンを指した。
「いや、ですから。明らかに名乗りを上げて決闘を挑んで行ったトラントリム戦と、隠密任務の今回とでは状況が……」
「んー、ボクちんなりに状況をかんがみての作戦なんだけどなあ」
「イズマ。説明してやれ。というか、おまえの作戦はいつも突拍子がなさ過ぎて説明なしではだれも納得できんぞ」
堂々巡りの予感に、さすがにシオンが口を挟んだ。
「お! お褒めに預かり恐縮です、姫! でしょでしょ? 思考の死角を突くイズマさまの作戦、いつものように切れ味抜群でしょ?! まさか相手もこうくるとは予測できないって感じで?!」
「味方も予測できなくて混乱している、と言っておるのだ」
「アレッ?! そなの?」
シオンの指摘にイズマは初めて気がついたという様子で、目を剥いた。
あれま、と呟きアシュレたちに向き直る。
「まさか、マジでわかんないの、意味」
「はあ、まあ、そのなんというか……すみません」
あー、とイズマは天を仰ぐ。
煽ってんのかな、このヒトは。
アシュレは思う。
「ええとう、ですね。じゃあちょっとかいつまんで説明します」
アシュレをはじめ、テーブルに居残ったノーマン、バートン、そしてシオンを見渡してイズマは作戦の概要を語り始めたのだ。
内容を思い出すだけでも、アシュレはいまも鳥肌が立つ。
「わざとこちらの、しかも面識あるふたりの署名で手紙を出して、その対策に彼が動いたところを狙うとか……ふつう考えつかないよ」
「たしかにいきなり火中に飛び込むようなものだからな。しかし、聞けばたしかになかなか良い手ではないか」
回想を終えたアシュレたちは、やはりまだ水道橋を見上げていた。
あの夜イズマが告げた作戦とは、つまりこうだ。
ノーマンとバートンの連名で綴られた会見の申し込みを、イズマはルカティウスの目に留まる場所に直接、届けに行く。
手紙を読んだルカティウスは、自分の監視網から漏れていた駒たちが仕掛けられた策略に気がつき報復を仕掛ける腹積もりだと知る。
もちろん、最初の段階でノーマンとバートンの正体をすでに知った上で接触を仕掛けてきたルカティウスだ。
裏切りに対する復讐に燃えて、浄滅の焔爪:アーマーンの使い手=カテル病院騎士団筆頭騎士であるノーマンが斬り込んできたとしたら……生半可な抵抗など無意味だと承知していることだろう。
なにより自分宛ての手紙は人づてではなく、直接に居室へと届けられるのだ。
おまえには安心できる場所などない、というそれは警告である。
「そうなったとしたら。彼は必ず、魔導書に頼る。その《ちから》と外交能力で困難を乗り切ってきたと言えば聞こえはいいけれど、それはもう魔導書の魔性に依存しなければ国体を維持できないほどに追いつめられているという証左なのだから」
「だから、その後を追えば、労せずして求めるものに辿り着くことができる、か」
なるほどイズマらしいな、とシオンが笑う。
対照的にアシュレの溜息は深かった。
シオンが慰めるように背中を叩いて言った。
「なにもそんなに込み入った話じゃない。要するにこれまでルカがやってきた強請り・たかりを逆手に取ろうという話じゃないか。実にイズマらしい、悪党めいたやり方だ。魔道書の威力が我々の想定したもの通りなら、ルカティウスという男はこれまで反則級の諜報能力でもってそれを各国の要人に対して続けてきたヤツだ。だからそこ効く。まさか自分がそれをされる側になるとは……想像できないだろうからな」
「いや、シオン。そこだよ。たかが強請りってキミは言うけど、こんなに巨大な盤面上でしれっとそんな策を持ち出してくるとか。イズマってやっぱり途轍もないよ。百歩譲って思いつきはしても……実行したりはできないものだよ」
「悪党としての格の違いを見せつけられたか?」
「それ、図星。正直、まだまだぜんぜん敵わない。追いつける気がしない」
がくり、とアシュレはうなだれる。
ハハハッ、とシオンは快活に笑うと、そんなアシュレの肩に手を置いて身を寄せた。
「だが、そんなそなたがわたしは好きだぞ」
突然の告白に、アシュレは顔を上げて左右を見渡した。
これまで想いを告げられたことは幾度もあるが、なんというか、こういう昼間の往来でというのは初めてだったのだ。
「ちょっ、シオン! ヒトに聞かれたらどうするのさ?!」
「なーんだ、テレておるのか、そなた。妻から愛を告白されて、いまさら照れる旦那がどこにおる。しっかりするがよいぞ」
そんなふたりの様子を、腰に両拳を当てる格好で仁王立ちになったスノウが睨みつけていることに、アシュレは気がついてしまった。
さらに後方では、エレがあの拳で口元を隠すやりかたで笑いを噛み殺している。
いつのまにかアシュレは噴き出す汗を止められなくなってしまっていた。




