■第一夜:選択肢を前にして(あるいは挟まれた男)
過酷な運命に抗うため、ヒトの《意志》が生み出した力——《スピンドル》。
螺旋に渦を巻くそのトルクは、ヒトをして、時に奇蹟に手を届かせる。
奇蹟——つまり、運命を変えることを可能にする。
もちろん、相応の代価——ほとんどは血で贖う代価でもって。
だが、大多数の人間が奇蹟にたどり着くことなどない。
それどころか《スピンドル》を発現させることすらできない。
運命に干渉するための手段である《スピンドル》を行使する者は、それだけですでにある権利を手に入れた、いわば選ばれし者なのだ。
それゆえに、いやしくも《スピンドル》能力者たる自分が奇蹟をねだることなど許されてはいない。そうアシュレは思う。
まがりなりにもイクス教聖堂騎士団の最精鋭たる聖騎士に、その末席であっても名を連ねる自分には。
だが、それなのに欲しいとアシュレは強く思うのだ。
ねだれるものなら、ねだりたい、と願ってしまうのだ。
強く欲しいと願う。
超常の業が、奇蹟が。
激しく《スピンドル》を励起させ、その代価にこの身が引きちぎれるほどの苦痛を支払うことになったとしても。
「《スピンドル》を想え」
そう自分に教えたのは、いったい誰であったか。
異種族・土蜘蛛の、その古代の偉大な王:イズマガルム、そのヒトであったか?
あるいは、過ぎし日——十字軍に旅立つ父の背中であったか——。
「——父さん」
大変です——とアシュレはつぶやけなかった。
天上の國にいるであろう父の御霊に報告などしている場合ではなかったからだ。
いや、報告などしたら天罰がくだるに違いなかったからかもしれない。
状況は、混乱の極みにあった。
ひとことで言えば、クレイジーだった。
たとえ話をしよう。
深酒の翌日——外は恨めしいほどの快晴、たまさかの休日——なぜか気がつけばベッドに見知らぬ女性がすやすやと眠っており、互いに一糸まとわぬ姿。
寝具の乱れから、昨夜交わされた愛の激しさを知ることができる。
若さゆえのあやまち、と笑って許されるのは喜劇の登場人物か、悲劇にあっても仮面の赤くて通常の三倍は速い男(?)だけであり、いかに認めたくなくとも施錠された寝室のドアをノック(これはごく控えめ表現だ。乱打と正確に記述したい)するのは、間違えようもなく長年連れ添った糟糠の、そして最愛の妻。
そういう夫がいたとする。
そういう修羅場に陥った愚かな男が、ひとり、いたとする。
「たとえにも、なんにもなっていない」
アシュレは寝起きの頭で混乱して動転した。
ひとつ確かなことは、まともに考えることさえできなくなっている自分がいる、ということだけだ。
そして、いま、修羅場は、フィクションのむこう側にあるのではなかった。
修羅場はいまここにあるのだ。
ウェルカム・トゥ・ヘル。
OK。
状況を整理しよう。
アシュレは左手を見た。
溜息が出るほどの美人だった。
色素のない長髪の奥で、抜けるように白い肌が息づいていた。
長い睫毛が窓から落ちる光にきらきらと輝いていた。
豊かだが均整の取れた肉体。
その胸乳の谷間にアシュレの左手は吸い込まれている。
正確には、アシュレの左腕にすがりつくようにして娘は眠っていた。
だから、胸が触れている。
張りがありながら、とろけるようなその感触をアシュレはできる限り知覚の外に置こうとした。
娘の清楚な顔立ちと腕に伝わる胸の感触のギャップに、間違いを犯しそうになるから。
イリスベルダ・ラクメゾン。
イリス、と愛称されるべきこの娘の素性を語るには、時間があまりにない。また、そこにいたる道程・いきさつがあまりに複雑なゆえ、後述する。
たしかなことは、アシュレが、いまこうしてベッドに伏しているのは、この娘のために命を賭けて闘ったからだ。
間違いなく大切な——ヒトだった。
自らの命を賭してさえ惜しくないと思い、実際、そのようにアシュレは行動した。
だが——。
ともすると追憶に逃げ込んでしまいそうな意識を、いかん、とたしなめ、アシュレは右手を確認した。
夢想に逃げている余裕などなかったのだ。現実は逼迫しているのだ。
そして、右手は——固く指を絡められ握られていた。
漆黒の髪の間から、桜色の唇が覗いた。
震えのくるような美貌。
人外の美と呼ぶにふさわしい美しさだった。
それもそのはずだった。なぜなら、彼女はイシュガルの山嶺のそのむこう、夜魔の国:ガイゼルロンの大公——真祖のひとりであるスカルベリ・ルフト・ベリオーニ——の息女にして王位継承権第一位の公女:シオンザフィル・イオテ・ベリオーニだった。
正統・純血の夜魔の姫。
そして数百年を生きた魔女だが「シオン」と愛称で呼ぶと、花が綻ぶように笑う可憐な少女の心を持っていた。
シオンとはイリスを救うための戦いで共闘した。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を振う彼女に、アシュレは命の危機を何度も助けられた。
それどころか、あろうことか自らの命、尊厳を挺してアシュレを庇い、救ってくれた。
返しても返しきれない恩人だった。
そのふたりが、どういういきさつか、アシュレのベッドに横たわり、アシュレはリバーシの駒よろしく、ふたりの美女に挟まれている。
どっちに転ぶの? と脅迫されているようだった。
美女ふたりは見事に、着衣も髪の色さえも白黒のコントラストだった。
そういえば「嬲る」という字には「嫐る」というバージョンもあるのだよなぁ、などという、いらぬうんちくが脳裏を掠めるのは、逃げている証拠なのだ。現実から。
いや、正確には「逃げたい」証拠か。
男冥利に尽きるじゃないか、と同世代の男友達に相談したなら逆に感心されそうだが、アシュレは不実な男に憧れてなどいなかった。
断じてなかった。
むしろそういう輩を憎んでいる、と断言してもいい。
その自分が、だ。
アシュレは左手を見た。
穢れない百合の花束のような娘の眉根が寄せられ、震える赤い唇が動いた。
使ってください、と。あなたのものにしてください、と哀願された。
アシュレは右手を見た。
朝露に輝く青いバラの蕾のような娘が、苦悶に耐えるような表情をした。
ゆるして、と訴えられた。これ以上は、もう、壊れてしまう、と泣かれた。
アシュレの推察するところ、どうやら、ふたりは悪夢に襲われているらしい。
甘く切ない吐息とともに左右から「おねがい」され、アシュレは滂沱と汗をかいた。
おちつけ、と己に言い聞かせた。
ふたりの姫は眠っている。
つまり、先ほどの発言は寝言であり、さいわいにもふたりの着衣に乱れはない。
イリスは白地に薄い水色のストライプ。看護婦のような帽子。
シオンは漆黒のドレス。初めて会ったときのような年代物の。
すくなくとも、この時間・時空において、このふたりの眠り姫に対して許されざる真似をしでかしているのは、アシュレ本人ではなかった。
問題は、彼女らの脳裏で狼藉(狼藉)を働く男だった。
できることならば、そいつの襟首を捕まえて引きずり出し、ぶん殴ってやりたかった。
相応の報いを受けさせるべきだった。
心当たりが、アシュレにはあった。
ふたりの女性がそのような悪夢を見るような行為を現実に実行した男を、アシュレは知っていた。おおいに心当たりがあった。
男の風上にもおけないヤツだった。
「——ボクだ」
アシュレはなにか熱い液体が、目尻に湧くのを感じた。
わなわなと全身が震えた。
どうして、こうなってしまったのか——走馬灯のようにアシュレの脳裏を記憶が過っていった。
※
ことのはじまりは、聖騎士としてアシュレの所属する法王庁内の重要部署・聖遺物管理課を襲った夜盗との遭遇だった。
当直官であったアシュレはそこで夜魔の姫:シオンと初めて邂逅した。アシュレはまるで子供のようにシオンにあしらわれ、聖遺物を奪われた。
当直官の責任として、第一級聖遺物である〈デクストラス〉と〈ハンズ・オブ・グローリー〉を奪った賊を追撃し、ふたつの聖遺物を奪還せしめること——その聖務を、聖騎士・アシュレは法王:マジェスト六世から勅詔として拝命した。
賊の足跡を追い三名の聖堂騎士とその従者、そして、最愛のひとであり、アシュレの補佐官でもあるユーニスを伴い国境の村:パロから越境した先は、かつて降臨王と呼ばれた英雄:グランの所領、イグナーシュ王国の成れの果て、瘴気渦巻く地獄だった。
越境直前に密偵よりもたらされた情報が、アシュレを打ちのめした。
聖遺物を奪ったとされる容疑者のなかに、聖遺物管理課の同僚であり敬愛する尼僧:アルマの名があったからだ。
それでも捜査を進めたアシュレは〈デクストラス〉奪取の実行犯を、アルマと、その協力者と目される亡国の騎士:ナハトであると断定する。
なぜなら、アルマこそ亡国:イグナーシュの姫、最後の血脈、アルマステラ・オルテ・イグナーシュだとわかったからだ。
そして、〈デクストラス〉はかつてイグナーシュ王家の家宝だったのだ。
密偵はさらに決定的な事実をもアシュレに知らせた。
旧イグナーシュ領:アルマの故郷であるその国は、すでにして《閉鎖回廊》に落ちているというのだ。
その時空:《閉鎖回廊》こそは、外界とは別種の規律によって編まれた世界であった。
そこではオーバーロードを名乗る超越者が定めた因果の流れから、だれも出ることを許されない。
人々は無意識のうちに操られ、主たるオーバーロードが描く脚本の登場人物にされてしまう。
ただひとつ《スピンドル》能力者を除いて。
そして、その《閉鎖回廊》のただなかで、アシュレはすべての部下を失い、ユーニスとも散り散りになってしまう。
疲弊し追いつめられたアシュレを救ったのは、驚くべきことに夜魔の姫:シオンと、その従者を自称する土蜘蛛:イズマだった。
聖遺物:〈ハンズ・オブ・グローリー〉奪取の容疑者として彼らに接するアシュレだったが、シオンは〈ハンズ・オブ・グローリー〉の来歴を説明し、その正統な所有者であることをも証明する。
それどころか、ユーニス救出への共闘さえも申し出た。イズマの占術によって、ユーニスの生存が確認できたのだ。
人類の仇敵であるふたつの種族、夜魔と土蜘蛛からの共闘の申し出に戸惑いつつも、アシュレは彼らの助力を受けることになった。
そのときシオンとアシュレの父:グレイとの関係、また、かつての降臨王にして、いまやオーバーロードと成り果てたグランとの関係をアシュレは告白される。
そして、その慈愛の深さ、責務への姿勢にシオンに対して、敬愛の情を抱くようになる。
仇敵同士が和解し共闘するという奇蹟の一方で、救いようのない悲劇が進行してもいた。
荒れ果てた故国を救いたいという心と、幼い日、王家を焼き打ちし、自身を陵辱した革命軍・民衆への憎悪の狭間で揺れるアルマは、亡者の群れに陵辱され息絶えようとしていたユーニスにかつての自身を見出し、これを救おうとする。
祖父であるグランの助力を得て、〈デクストラス〉、そして人々の無意識の《ねがい》を溜める器:〈パラグラム〉を使い、神の摂理——死の定めに背いたのだ。
それは、互いの《魂》を縫い合わせ融合させるという人外の秘蹟だった。
ふたりはひとりとなり、アシュレは彼女たちに再会した。
それはアシュレたちとふたりの女性にとって、あまりにつらい再会でもあった。
最終的には、アシュレはシオン、イズマの協力の元、オーバーロード:グランを下し、イグナーシュ王国に光を取り戻す。
だが、その過程でアシュレは〈デクストラス〉をその胸に受け、《ねがい》の——《そうするちから》の——犠牲者となってしまった。
強力な《ねがい》に操られるまま、アシュレはアルマとユーニスの融合体である——のちのイリスと関係を持ち、また、その《ねがい》を中和するため、シオンはアシュレにその身を与えることを選択した。
そのあたりの事情をだれかに、すぐに理解してもらうことは、たぶん、むずかしい。
※
ただ、どうしようもなかった。
あのとき、選択肢などなかった。
それはあの事件に関わった者なら、だれもがそう答えただろう。
そんなことはわかっていた。
だから、そんなことが問題なのではなかった。
アシュレが葛藤するのは、あの日、あの時の決断と行動にではない。
怒りすら覚えるのは、過去の自分についてではない。
いま、この状況と、その間で動揺し、狼狽する己の性根の不実さに、だ。
アシュレはイリスを——正確には、その《魂》の半身であるユーニスをほんとうに愛していた。
また、もう半身であるアルマのことは以前から敬愛していた。
同僚として、ひとりの自立した女性として。
だから、そんな彼女——主体であるアルマ——から、融合体として関係を持つ直前に秘めた愛を告白されたとき、心が動かなかったかといえば、それは嘘になる。
あの事件の後遺症で彼女の記憶が失われ、アシュレ自身がイリスという名を与えたあとでも……それは変わらない。
一方で、夜魔の姫・シオンを愛おしく思う心が自分のなかにあることを、もうアシュレはごまかせなかった。
これほど勇敢で、誇り高く、情けの深い女性をアシュレは他に知らない。
それは女性としてだけでなく、騎士として、人生の先達としてさえアシュレに感銘を与えるほどのものだった。
なにより、シオンは〈デクストラス〉によって撃ち込まれた《ねがい》に中毒し、その悪意に翻弄されて人格を失いそうだったアシュレを救うため、その尊厳と純潔を捧げてくれた女だった。
そのときのことを、アシュレは鮮明に憶えている。
あのとき抱いた愛しさを忘れることなどできなかった。
恋をするな、と言うほうが無理な話だった。
それでも一度はその想いに踏切りをつけたのだ。
ユーニスを——その《魂》を——愛している、と。
面とむかい、はっきりとシオンにそう告げたし、その決断をシオンは立派だと祝福してくれさえもしたのだ。
けれども、いま、このような状況に放り込まれたことでわかった。
己の性根が。
——選べなかった。
あまりの情けなさに、涙が出た。
なにが聖騎士だ、なにが法と秩序の護り手だ。
これではジゴロや女衒と変わらない。
はっきりと悪党であった分だけ、そのことを自認していた分だけ、アルマをたぶらかした偽騎士:ナハトのほうがマシだと思えた。
モッツァレッラの角で頭をぶつけて死ぬべきなのは、自分ではないか——慚愧の念に苦悶した。
だが、現実はそんなアシュレの感傷を許すほど甘くなかった。
ぞくり、と悪寒がした。
気配があった。
扉の外から、それは迫りつつあった。
破滅の気配だ。
それでアシュレは自身が、なぜ目覚めたのかを知った。
この恐ろしい予感に、聖騎士:《スピンドル》能力者としてのアシュレの勘が告げたのだ。
対処せよ、と。
扉のむこうから、恐ろしい声が聞こえてきた。
「おーい、もしもーし、おはよー、アシュレいるー? なんかさー、イリスちゃんが昨夜から行方不明でさー、最後にキミの容体を見るとか言ってたから、まさかして、こっちかなー、と思って」
がちゃがちゃ、と分厚い木のドアと金具が音を立てた。さいわいにも施錠されていた。
「イズマ殿、いきなり開けてはダメでしょう」
真っ暗だった目の前が、少しだけ明るくなるのをアシュレは感じた。
すくなくともいま迫りつつある危機には、ふたつの安全装置がついていた。
ひとつは物理的な、具体的には施錠された扉。
もうひとつは危機の真横に常識人がいることだ。
希望の名はノーマン。
カテル病院騎士団の正騎士は、さすがに礼儀作法にも通じていた。
だから、この際はっきりさせておく。
危機の名前を。
「おーい、おーい、ボクちんだよー、イズマくんだよー、いるんでしょー、開けってってば! はいっちゃうぞー」
本名:イズマガルム・ヒドゥンヒ。
偉大な古代の土蜘蛛の王と同姓同名。
なんなら本人ですらある。
ただし、その性状は極めてキテレツ。
うっかり数百年も昼寝してしまう男。
前後不覚や寝言での発言だけ真人格という、真性の変態だ。
アシュレは激しさを増してゆくドアの振動を、穴が開くほど見つめた。
それから左右を見渡した。壊れたオモチャみたいに。
うん、と姫たちが身じろぎした。
なんとかしなきゃ、と思い、同時に、だれかたすけて、と願った。
こんな状況を目撃されたら、なにがどうなるのか予測もつかなかった。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、アシュレの人生に終止符が打たれる公算が高かった。
命はともかく、社会的に。
「ちょっと、ノーマンくん、マスターキーないの? 返事がないんだよ? これは非常事態だ。乗客のひとりが長時間、行方不明。容疑者の自室は施錠され、返答なし。密室だ。事件だよ」
事件ですか、とアシュレは思った。
おまけに容疑者ですか、ボクが。
たしかにそうかもしれなかった。
だが、そこに油を注いで大惨事にしようとしている男に言って欲しくないセリフでもあった。
「ありますが、渡せません。使用できるのは艦長だけです。それに、私室はプライベートです。だいたいあなたがむやみに騒ぐから、返答しづらいのかもしれない。男女の仲では、いろいろとあるものです。だいじょうぶ、そっとしておきましょう」
いいぞッ、とアシュレは心の内で喝采した。
あのイズマに面と向かって抗議するなど、やはり、ノーマンは頼りになる男なのだ。
「うおおッ? 経験がものを言いそうな発言ッ。ボクに説教するなんてッ。オヤジにもされたことないのにッ。キミぃ、説得力あるねー。でもね、そういう個人を尊重するという善意の糖衣にコーティングされた無関心が、事件をいっそう危険なものに、取り返しのつかないものにしてしまうんですよ?」
「いったいなにが、あなたにそこまで執着させるんですか?」
ノーマンの呆れた口調にアシュレは同意した。激しく。
「だってさー、姫も今朝からいないんだよ。ボクちん、さみしい……」
しばしの沈黙。ノーマンが言葉を失ったのだと手に取るようにわかった。
「だいたい、イズマ殿は聖騎士:バラージェといかなるご関係で?」
「んー、ひとことで言えば親友? 同じ釜の飯を食い、風呂にも入り、戦列を共にしたっていう。背中を預けた仲ってカンジ?」
嘘ではなかった。そして、アシュレも同じ認識だった。
嘘ではなかったが。
「だからさー、アシュレのものはボクちんのもの。ボクちんのものはアシュレのものってくらい、ふたりはわかりあっているのですよ?」
親しきなかにも礼儀あり、ということわざをこの男は知らないのだろうか、とアシュレは拳を握った。
知らないんだろうと思って。
「だいたいさー、イリスちゃんて、アシュレの彼女なんでしょ? だったら、たとえなかでふたりがいちゃついてたって、問題なくない? そういうとこ、寛容ですよー、イズマは。器がデカイから。ドーンとこい。なんてったって王ですから」
びくり、と左手の姫が身をこわばらせた。
アシュレはおそるおそる視線を移した。その金色の瞳と目が合った。
動揺と狼狽と羞恥が、瞬く間にイリスの表情を埋め尽くした。
瞳がかわいそうなくらい、揺れていた。
無言で身を起こした。跳ね起きた。
イズマの発言を聞いていたのは間違いなかった。
どこからかは分からないが、すくなくとも決定的な部分だけは確実だった。
「しょーがないなー、緊急事態だから、ボクちんが開けるわ。三十秒、待ってね」
「いや、あのですな」
戸外で行われる間抜けなやりとりも、ついに佳境だった。
アシュレは開いた左手を使い、右手でまだ夢に捕われているシオンを揺さぶった。
だが、切なげな吐息が漏れただけで、いっこうに目を醒まさない。
普段であれば一番最初に脅威の接近に気づくはずのシオンが、だ。
アシュレは胸騒ぎを覚えた。
その間にもイズマとノーマンの掛け合いはあらぬ方向に超特急で飛躍しつつあった。
「うるっさいなー。だいたいね、ちょっと考えてみてくださいよ、ノーマンのダンナ。アシュレも、イリス嬢も成人したっていっても、まだまだ中身はコドモなんですよ。
しかも、ふたりとも超マジメ。アシュレなんか騎士の規範を目指してるくらいなんだから、ガッチガッチのスーツメイルですよ?
そんなふたりがあんなことがあったあとで、個室にふたりっきり。なにがあったって不思議じゃない。
世を儚んで手に手をとって、ふたりいっしょに、ってことだってないとは言いきれないっしょ?」
「固すぎる刃は折れやすい、と?」
「そうっ、それっ、そういうときに年上の大人の男のヒトがですよ、さらっとフォローしてあげなけりゃ、いかん、と。それに、やっぱちょっと気になるっしょ。なかの様子」
「……まあ、それは、すこしは」
「あ、笑った。いま、カテル病院騎士、笑った。またまた、隠さなくてもいいって。ノーマンくんって、笑うとかわいいねー。後向かなくたっていいって。ボクら友だちだって、黙ってるって」
ついにイズマの激烈を極める狡猾さが、ノーマンの鉄壁の防御を切り崩したのだ。
アシュレはイズマの粘り強さに戦慄した。
イズマの本当の強さは、その頭脳でも呪術、占術、技術のどれでもなく、その粘り強さ、決して諦めない精神力のタフネスにあるのだと改めて思い知った。
問題は、そのタフネスが自らの興味のあることにしか発揮されず、また、その興味の方向性というのが、総じてロクでもない方向を向いていることだった。
「じゃ、解錠しまーす」
能天気な掛け声とともに細い金属が鍵穴に挿し込まれる音がした。
同時に、頭にくるほど適当でイノセントな歌声が聞こえてきた。
イズマ解錠のテーマである。
「ストーキングマン! ピーピングマン! ピッキングマーン! オマエを見守る濃ゆい愛ー♪」
いったいいつの時代の、誰の作曲・作詞であるものかわからぬ鼻歌がアシュレの神経を逆なでした。
もちろん、怒っている場合などではなかった。
「はいっ、上手に、あきましたー」
イズマの手練はその能天気なテーマソングに反して、神業級だった。
ピーン、と澄んだ音をたてて錠が外され、ほとんど同時にノーマンを伴ったイズマが入出してきた。
「おっはよー!」
その瞬間だった。
アシュレの胸元からなにかが飛び出した。
驚いたアシュレとイリスは見逃したが、シオンの瞼が、ぱちり、と音をたてて開き、その深い紫の瞳が現実を認識した。
そして、漆黒の嵐が部屋を駆け抜けた。
「わっぷ、わっぷ、わっぷ」
なんだあ、このバット的存在わ、とイズマがすっとんきょうな声をあげる。
直後にくぐもった悲鳴を上げ、転倒した。
あらゆることが一度に起こった。
アシュレの胸元からコウモリが飛び出した。
シオンの眷族:ヒラリに相違なかった。
それがイズマの顔面に貼りついた。
ほぼ同時に枕元の銀製の水差しがイズマの腹部めがけて投げられた。
アシュレではない。
イリスの行動だった。
そして、シオンが《スピンドル》を使い《影渡り》でジャンプした。
夜魔の眷族だけが使いこなせる短距離転移。
見事な引き際である。
「むっ、無断でっ、しっ、失礼なッ」
顔を真っ赤にしてイリスが怒った。
イズマは水差しを男性的に致命的な箇所で受けたらしく転がり、悶絶している。
ヒュー、と壁に貼りついていたノーマンが口笛を吹いた。
それほど見事な連携・投擲技術だったのだ。
「あ、あ、アシュレくん……ご、ごれは」
床板を舐め悶死するイズマの痛みが、同性であるアシュレには、よくわかる。
たとえ、ひとことでも応じずにはおれなかった。
「イズマ……ま、またあとで」
さみしかったんでしょう、と他人事のようにノーマンが言い、イズマを引きずって外に出した。
アシュレはノーマンの営業スマイルを初めて見た。
いろいろと揉み消そうと躍起になっている大人の顔だ。
「あ、あとで、食堂に顔を出しますから」
アシュレは精一杯のフォローをした。
ノーマンからはイイ感じの笑顔が返ってきた。
さて、おおよそ一週間ぶりとなります、燦然のソウルスピナ。
第二話にあたります「廃神の漂流寺院」その第一夜をお届けしました。
前作を読んでくださった方々が「濃厚なダークファンタジー」という感じで応援・宣伝・拡散してくださっていて、ほんとうにありがたく感じているのですが……第二話の開始早々、ダークファンタジー? という感じでご期待を裏切ってしまっていたら、申し訳ないなあ、と思いながら編集しておりました。
トビスケに起因するオヤジ的お笑いも、ラブでコメな展開も満載でお送りするのがコイツらの流儀なんだな、と笑ってお許しいただければさいわいです。
ダークファンタジーである根幹は決して揺らぎませんが、同時にエンターテイメントであることを忘れないでいこう、というのがボクたちの信条です。
ことにこの第二話では、恋愛要素が前面に押し出される構成になっています。
もちろん、あくまでソウルスピナの流儀に乗っ取った、通底するテーマを貫き通すカタチで、ですが。
さて、このおはなし、どこへ向かって転がるのやら。
もしよろしければ、その行き先を一緒に確かめてみてください。




