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■第二十六夜:捩れた覚醒


 

 たぶん、そのとき彼とはひとことも言葉を交さなかったと思う。

 

 半夜魔の娘にのしかかっていたインクルード・ビーストを一撃のもとに蹴散らした騎士は、その無事を確かめるように振り返った。

 トーナメントから抜け出してきたのかごとく美しく軍装された愛馬に跨がっていた。

 激しく傷ついた甲冑さえもが、このときは逆に神々しく見えた。

 まさしく騎士物語のなかから抜け出してきたかのような姿。

 

 そんな男の頭頂には、鈍い輝きを放つ古き王のための冠が戴かれていた。

 

 赤い月明かりの晩。

 彼の瞳だけが金色の光を放つ。 

 たくましい腕に抱きかかえられた半裸の姫君は、ユガディールさまの元からさらわれたというあの方だろうか。

 だとしたらなぜ、夢見るような表情で男にすべてを委ねているのか。

 その身はきつく縛され、辱められているというのに。

 むしろ、さらなる強奪をこいねがうかのように、王相の男の胸に顔を埋めているのか。


 ずくり、という苛烈な疼きをカラダの深部に感じたのは、このときだった。

 人倫のくびきの外に、その美はあった。

 

 スノウは、これほどまでに美しく獰猛な存在をこれまでに見たことがなかった。

 すなわち迸る支配力──魅了の《ちから》も隠そうともしない存在。

 そういうものを見たことがなかった。


 ついさきほどまで自身にのしかかっていたインクルード・ビーストしかり。

 当然、夜魔の騎士しかり。

 あるいは、スノウの知るトラントリムの真の統治者:ユガディールでさえも。

 

 ひとことで言えば、このときスノウの前に現れ窮地きゅうちを救いたもうたのは、王となることを決意した男であったのだ。

 あるいは、奪い去ることを決めた男と言えばいいのだろうか。

 自らの《意志》で悪を背負うことを覚悟した者だけが獲得することを許されたオーラ。

 

 身を起こし、膝立ちになり、瞬きすることさえ忘れてスノウは見入った。

 肌が剥き出しになっていることさえ意識できない。

 寒ささえも感じない。

 ただ、ぞくりぞくり、と肌が泡立つ。

 

 次の瞬間、両隣を占めていた孤立主義者たちの上半身が、それこそ巨大な竜の顎門にかじり取られたかのように消失した。

 真っ赤な血飛沫が噴水のように噴き出し、ときを置かずして肉塊に変じた略奪者たちが雪原に倒れ込む。

 気がつけば王気を放出する男のかたわらに、異国の服を着た美姫がもうひとりたたずんでいた。

 両脚をこの世のものではありえない具足に固めた美姫は、馬上の男に身を寄せると名を呼んだ。

 

「アシュレ。アシュレダウ。いまは刻がない──行こう」


 ぎくん、と二度目の激しい疼きに襲われてスノウは震えた。

 よく通る声で呼びかけた美姫こそが、オズマドラ帝国の第一皇子:アスカリヤであったことは後になって知る。

 だが、決定的だったのは、そこではなかったのだ。

 

「アシュレ……アシュレダウ」


 まさか、と唇が震えた。

 それこそはスノウやカラクムの村民たちがトラントリムを裏切った存在として、名指しした男ではないか。

 オズマドラと通じ、孤立主義者と通じ、まるで血の繋がった弟のように扱ってくださったユガディールさまを裏切り、あろうことか──姫を強奪した大罪人。

 

 それが、なぜ、いま、ここに。

 ううん。

 なぜ、どうして、わたしを助けて。

 

 もちろん、それは偶然に過ぎないはずだった。

 しかし、このときすでにトラントリムは《閉鎖回廊》に堕ちていた。

 アシュレがユガディールを一騎打ちで打ち破り、その人格の裏側に潜んでいた《そうするちから》の本性を暴いたからだ。


 そして《閉鎖回廊》での出来事に偶然など、ない。


 スノウはことのとき、自身を支配下に堕とそうとする《そうするちから》と、それを切り裂いていく《スピンドル》の導きの軌跡の上にいたのである。

 

「…………」


 鞍上の男:アシュレダウは、なにか言いたげに口を開きかけた。

 結局それが言葉のカタチを為すことはない。

 腕のなかで息を吐いた夜魔の姫君を見、それからこんどは足下で促す異国の美姫に頷いて馬首を巡らせた。

 

 アシュレたちはこのとき、トラントリムからの脱出行の最中であったのだ。

 一刻の猶予もならぬそのときに、たまさか逃走経路上にあったカラクル村が孤立主義者の襲撃にあうのを目撃した。

 だから、これを一掃すると決めた。

 ただ、それだけのことであった。

 

 だが、あえていま一度、言おう。

 ほかの時空であるならいざ知らず。

 ここ《閉鎖回廊》において、偶然などという出来事はありえない。


 ヒトとヒトの縁が結びついたのならば、それこそは必然。

 

 それを知らず、アシュレは去る。

 アスカを伴って。

 スノウは見送ることしかできない。

 このときはまだ運命という言葉の意味を知らず。


 そして、開花する。

 なにに?

 《スピンドル》に。

 

 ただし、それは不完全なものだった。


        ※


「あああああああああああああああああああああああああああああああああ──ッ!!」

 アシュレはスノウの叫びを背後に聞いた。

 

 戦局はまったく油断ならないはずだった。

 小型とはいえ、インクルード・ビーストは軍馬ほどの体重を誇る。


 しかも、虎のごとく素早く、体力と頑健さはヒグマをはるかにしのぐ。

 純白の毛並みと硬質化した外皮は板金鎧に勝る天然の装甲。

 十セトルに達する爪牙はダガーの刃などよりも、よほど鋭利。

 その巨体から繰り出される猛攻は、生半可な盾ではとうてい凌ぎきれるものではない。

 

 対するアシュレは慌てて身につけた平服にスモールソード、借り受けたバックラーだけ。

 むろん《フォーカス》など望むべくもない。

 決闘に赴く男のいでたちとしては一応の体裁を保ってはいるが、それは人間が相手のときだ。

 このような猛獣、それもなかば異界の脅威を相手取るにはまったく火力も装甲も足らない。

 巨象相手に手槍一本で立ち向かうようなものだ。

 

 けれども、その絶対的不利を、アシュレはものともしなかった。

 ひとつにはこれまでの圧倒的な戦闘経験値がある。

 思えば、魔獣の類いとの戦いはこれが始めてではない。

 インクルード・ビーストとの初遭遇以前に、アシュレはマンティコアと戦いこれを下した経験がある。

 聖騎士パラディン叙任から半年も経たぬころ、レダマリアの所領でのできごとだ。


 インクルード・ビーストを相手取るのも、もう幾度目か。

 たしかにはじめての遭遇ではその恐るべき生命力と防御能力、邪悪とでも形容すべき戦闘本能に遅れを取ったものだ。

 だが、その経験までもが、この悪夢の産物と互角以上に渡り合うことを可能にした。

 

 魔獣の挙動のひとつひとつ、それらの意味をアシュレは確実に学習していたのである。

 

 加えて、いまアシュレにはアスカリヤの恩寵おんちょうが垂れられていた。

 端的に言えば、戦乙女の契約ヴァリキリーズ・パクト

 そのちょうに与った人物の潜在能力を引き出し、心技体、そのすべてを強化する異能。

 アスカリヤのカラダに流れる真騎士の乙女の血が可能にするその奇跡が、いまアシュレには託されていた。


 見える、とアシュレは思う。

 人類の肉眼では捉えることさえ難しい魔獣の動きが。

 さすがに止まって見える、というほどではない。

 しかし、確実に敵の挙動を目視できるレベルで。

 だから、己の肉体に絶対的な自信を抱いていたであろうケダモノが獲物との間に突如として現れた邪魔者に対し、苛立ち放った先制攻撃に対し完璧にタイミングを合わせることができた。

 

 インパクトの瞬間、アシュレの左手に構えられたバックラーが動いた。

 インクルード・ビーストの圧倒的な膂力と前肢の一撃を前に、ちいさなバックラーなどいったいどれほどの効果を期待できるものか。

 弾き飛ばされれば良いほうで、手首を骨折、最悪の場合は拳そのものを失うことにさえなりかねない。

 なるほど、その見方は正しい。

 アシュレがただの人間であった場合だ。

 

 インクルード・ビーストの振う前肢が格闘専用に増装されたスパイクなどものともせずバックラーを直撃し、これを弾き飛ばそうとした瞬間、アシュレは《スピンドル》をバックラーへと伝導した。 


 あらかじめそうしなかったのは、敵の攻撃を誘うためだ。

 《スピンドル伝導》による異能の発現には、わずかな遅滞が生じる。

 それを熟知する《スピンドル能力者》たちは、たとえ《フォーカス》ではない通常の品を用いて異能を扱う場合であっても、あらかじめある程度の余裕を持って《ちから》を武具へと伝達する。

 

 だが、このときアシュレは、まさに接触ギリギリのタイミングまで《ちから》を振わなかった。

 

 バックラーに備えられた貧相なスパイクなど、己の爪牙によってつららのごとく簡単にへし折ることができると信じて疑わなかったインクルード・ビーストは、だから、予想外の深手を負う。

 

 カッ、という閃きとともに魔獣の右腕が蒸散した。

 アシュレの構えたバックラーから、身の丈に達するほどの光の刃が放たれたのだ。

 闘気衝オーラ・バースト

 それはごく一般的な光刃系異能に過ぎなかった。

 しかし、振り降ろされる魔獣の爪を前肢ごと消し飛ばすには充分過ぎるエネルギーを秘めていた。

 

 GoHaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa──ッ!!

 

 おぞましい牙を無数に備えた口腔を怨嗟のカタチに開いて、インクルード・ビーストは咆哮ほうこうした。

 アシュレの光刃はインクルード・ビーストの腕のみならず、そのおぞましき異形の頭部にまで迫っていたのだ。

 結果的に奇襲となるこの一撃で、敵を屠るつもりであった。

 側面を掠め、光の刃が異形の頭部をく。


 からくもこれを凌いだのは獣の本能である。

 瞬間的に身を捻り致命傷を回避すると、次の瞬間には五メテルほども後方に飛び退っている。

 人間にはおおよそ不可能な急制動からの跳躍である。

 追撃を加えるべく突き出したアシュレのスモールソードは虚しく宙を切り──光の粒子に変換されて砕け散った。

 

 そう、防御から派生するアシュレの攻撃は二段構えだったのだ。

 一瞬の攻防の間に、ふたつめの異能が振われていた。

 ほぼ同じ長さの光刃が、わずかなタイムラグで交差するように。

 恐るべき技の冴え。


 しかし、その攻撃を獣は躱してみせた。

 

 騎士と獣の間に、刹那の距離ができた。

 ごくごく一瞬だけ、互いが互いを認めた。

 

 かたや、一瞬の間に右前肢を失った手負いの獣。

 かたや、敵に浅からぬダメージを与えた上で無傷ではあるが得物を失った騎士。

 どちらが有利であるのかは、一見には判断がつかなかったであろう。

 ただ、命のやり取りとしてだけに限って言うのならば、追いつめられたのは騎士。

 すなわちアシュレだった。


 この時点で先ほどの攻防で、携えてきた主要な武器をあらかた失っていた。

 その一方で、深手を負い血を垂れ流しながらも、インクルード・ビーストの戦意は失われていない。

 むしろ、痛みに猛り己の血に狂い憤怒に身を膨らませた。

 表皮を削がれ、焦げた傷がおぞましい相貌をさらに醜悪のものとした。

 

 アシュレは最後の武器である腰のダガーに手を伸ばそうとした。

 その瞬間だった。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああ──ッ!!」


 背後に庇ったはずのスノウが叫び倒れ込んで、もがく気配がした。 

 意識が、一瞬、ごくわずかだが削がれる。


 騎士として眼前の敵から目を離すなど、戦場において決して犯してはならぬ痛恨のミス。

 当然、その隙を獣は突いた。

 飛び掛かり、後手に回されかけたアシュレの右腕に鋭い牙を突き立てる。

 

 己につけた傷を再現してからいたぶり殺す。


 インクルード・ビーストはそう考えていた。


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